中
「お帰りなさい。」
こう言う場合は、どう出迎えるべきなのだろうと思っている間に、門扉を開けるタイミングになり。
取りあえずどうぞ、と玄関まで案内して。
スリッパを揃えた所で、いらっしゃいと言うには、自分の方が余所者の筈と思い直して、その言葉にたどり着いた。
リビングへと案内をしながら、時間も時間だから、きっとこのまま泊るんだろうなと予想した杏樹は、壁のリモコンでお風呂のセットをする。
「コーヒーでも、入れましょうか?」
手が震えるのを感じながら、杏樹は恐る恐る尋ねる。
義兄、陽斗との過去の会話は、出来の悪い生徒と家庭教師のコントの様なものしかなく。
今更、どう対応して良いのか解らないのだ。
「簡単な物で良いよ。冷蔵庫に入ってるもので。」
リビングと続きになっているダイニングテーブルに腰をかけた陽斗は部屋をぐるりと見回しながらそう答える。
「お茶と、水。ビールぐらいしか無いですが。」
一人暮らしになって、数ヶ月。
義父や母が居た頃は、飲み物も多様に揃っていたが、今は杏樹の飲むものしか入れていない。
「ビールで」
短い答えに、てきぱきとビールグラスと、缶ビールをテーブルに揃える。
こう言うときは、ツマミもつけるべきなのか・・・と思案すると、「取りあえず座れ」と向かいの席を指差される。
「オヤジは?見るからに、他に人が居る様子はないけれど。」
単刀直入、と言う言葉がぴったりな位、まっすぐに尋ねられて、杏樹は息をのむ。
「杏奈さんは?優斗は研修留学でアメリカなのは聞いてるけど。二人は何処?」
勉強を教えてくれている時の口調が遥かに優しい物だったんだと、認識しながら、何か言わなければと口を動かすけれど、思う様に声が出て来ない。
「優斗の研修と前後して、ヨーロッパに本格的に拠点を構える事になったので春から二人そろって移住しました。」
声が震えるのを感じながら、杏樹は手を握り締める。
鋭い目ってこういうものなのかな、と恐る恐る視線を合わせて、思いっきり後悔した。
誰がどう見たって、怒っているとしか言いようのない視線。
「聞いてないけど?」
ゴクリと杏樹は、のどを鳴らしてしまう。
聞いてないのは当然の話なのだ。
「数年前から、向こうに居る事の方が長くなっていたから、今更かなと言うのもあるし。社会人になるから一時的な一人暮らしの延長だと思えば問題は無いかと・・・。」
「問題が有るか無いかは、杏樹が決める事じゃないだろ。」
ごもっともな言葉に、杏樹はうつむいた。
「確かに、社会人にもなれば問題ないだろうけど、オヤジが一言もなく移住してるのは腑に落ちない。」
その通りで、杏樹はばれているのかと小さくため息をつく。
義父も優斗も、実母も。
三人とも口をそろえて「陽斗は一人暮らしに反対する」と言っていたのだ。
「その点に関しては、申し訳ありませんが、口止めさせて頂きましたので。」
落ち着けと心で唱え続けると、口調が仕事モードになってしまい、まだ大丈夫と杏樹は心を落ち着かせる。
反対するの後に、必ずマンションを引き払って帰って来るよと、皆が口を揃えて言ったのだ。
義従姉妹までが・・・・。
女性関係が派手だと耳にしていた事もあって、同居させるのは心苦しいから、と三人を説き伏せてはいたのだ。
彼女を連れて来るとなれば、自分はどうすれば良いのか・・・と言う話をすれば、三者三様の反応を見せていたが、とりあえず折を見て伝える事で納得してくれた。
杏樹としては、このまま伝えないで居ようと思っていたのだ。
優斗と違って、こちらから連絡を取らない限り接点はないし。
向こうから連絡を寄越す事など、両親の再婚以来あったためしがないのだから。
バレる事は無いと、杏樹は思い込んでいたのだ。
「口止め?」
缶ビールをぐいっと煽った後、陽斗は眉をますますしかめる。
「意図的に、皆が隠していたということか?」
一言で言うと、隠していたと言う事なのだが、皆がではなく、杏樹が隠していたのだ。
「そういう事になりますね・・・。」
それなりの勢いをつけてビールを飲んでいるあたり、やっぱり泊まっていくのだろうなと、杏樹はぼんやりと陽斗を眺める。
イライラしている、むっとしていると言うような、陰の空気が漂っていてどうしたものかと思いを巡らせる。
実の弟の優斗ならどうやって宥めるのだろう。
仲のいい従姉妹の夕里なら何と言ってかわすのだろう。
「理由は?」
ふと目を細めて、問われる。
問いたくなる心境も解るが、杏樹としてはスルーしてもらいたかった。
「三者三様ではあったけれど、現状を聞いた陽斗兄さんは、マンションを引き払って戻ってくるという結論が出ましたので。せっかく謳歌されてる独身ライフをここで崩すのは申し訳ないのと、北斗さんが、早く孫を見たいと期待されていましたので、その為にも独身ライフを過ごしていただいた方が良いと皆を説得しました。」
嘘ではない。
皆には本心がばれていた様だけれど、陽斗の生活を邪魔するような事があってはならないのだと言いくるめた。
常に彼女が居るような人だから。
実家に戻ってきた時に、当然、『彼女』が出入りすることになる訳で。
面と向かってそれを拒否できないのだから、事実を見たくないので彼をここに戻さないで、と義父に懇願したのだ。
それは、思春期の女の子が『好きな芸能人が結婚するなんて許せない』と言う子供じみた独占欲にも似ていて。
杏樹の場合は、芸能人が義理の兄だったのだが。
中学生時代に久しぶりに好奇心で会いに行って、当時の彼女と道端でキスをしていた姿に出くわした衝撃は今も忘れられない。
そう、杏樹にとって陽斗は『初恋の人』なのだ。
そして、それは現在も進行中の想いで。
一つ屋根の下に、ただ住んでいるだけならばまだしも。
結婚を前提に異性と付き合うような年頃の彼が、そういう認識の女性を連れてきて事に至る可能性を考えると、杏樹は吐き気がこみあげてくる。
それぐらい、杏樹の想いは固まってしまっているのだ。
ならば、いっそのこと、近づかなければよいと、心に決めていたのに。
よりによって、警察署で遭遇した上に、一人暮らし状態なのがこんなに早くばれてしまうなんて。
杏樹は下唇をかみしめる。
重たい空気がリビングを満たしていて、そうしていなければ歯がかみ合わずにカチカチと音を立てそうなのだ。
「唇は噛むな、傷になる。」
動きとして何があったわけでもないのに、指摘されて思わず口をあける。
「杏樹の言い分は解ったよ。気を利かせてくれてありがとうと言うべきなんだろうな。」
椅子の背もたれにぐったりともたれかかるようになりながら、そう言われて杏樹は視線を泳がせる。
どこを見れば良いのかわからない。
さらりと前髪を掻き上げて、頭上で右手を止めて、きれいに整えられた眉が眉間にしわを寄せる。
イケメンてどんな顔でもイケメンなんだ、と久しぶりに大好きな義兄が目の前に居る事を再認識した杏樹はまじまじとその顔を眺める。
「けれども、こんな物騒な時代に無駄に広い一軒家。最寄りの駅からここまで街灯が少ない上に若干の距離もあり、民家もまばら。一人暮らしの状況を知ってしまえば、この生活を続けさせる訳にはいかないよ。」
テーブルの上で手を組んで、陽斗は淡々と語る。
それはもう、娘を諭す父親の様な口調で。
歳の差が、そうさせているのは解るのだが、子ども扱いにしか見えなくて杏樹はむっと口を尖らせる。
「街中のマンションに杏樹が引っ越してくるか、俺がここに戻ってくるか。杏樹が決めて良いよ。」
にこっと微笑まれて、杏樹は目を丸くした。