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飽食の腹  作者: 神楽の蔓
9/11

薄氷

「二日だな」

 ダイニングに置いた食卓とは別に、テレビの前に設置されたソファ。二人か、つめて座れば三人が座れそうなそこに横たわって、瑛里は携帯をもてあそんでいた。作成していたメール文は先程、椎名へ向けて送ったばかりで、手持無沙汰だったのだ。寒々しい日が続く中では、部屋で過ごすよりもこの居間で過ごすほうがよほど居心地よかった。それ以上に、風呂上りに部屋へ直行すると肌寒さが際立って、瑛里は湯冷めをすることも多かった。結果としてそれが風邪に繋がったこともあって、瑛里は暖かい空間でしばらく暇を過ごすようにしていた。

 その瑛里の、惰性を表すように辺りに散らばる髪を避け、ソファの背と肘掛けに手をついて、セシルは上から瑛里の顔を見降ろした。一見すると人間のような男のエルフも、既に風呂には入っていたが、やはり同様に少しの間を居間で過ごすようにしていた。人間ほど重大な病というのはないが、風邪はひくらしく、また瑛里以上に寒さを嫌がったためだ。

「なにか、あったっけ?」

 瑛里は褐色の、樹木を縦に切ったように光る携帯の側面を撫で、瞳だけでセシルを見る。その金属めいた金色が、硬質な銀を視界に入れると、見ようによっては白目にも映る銀の縁が、色を濃くして細くなった。

 瑛里のものより多彩な色を持つ金色の髪がきらめく。身動きしたことによって上へ下へと輝く髪は、暖かみのある橙よりもまぶしく映った。自身のものよりもよほど金属めいた、目に突き刺す光に、瑛里は眉をしかめてみせた。そうしながら、自分の言葉を反芻して、果たしてどんな意味なのだろうかと思いつく理由を列挙する。

その中にはセシルなりのなにかの催促なのだ、というものもあったが、氷か水銀のような無感動な色には、傲慢はあっても甘えはない。人間臭さを欠いていた。

「週末だが、それ以外にあるだろう」

「椎名には会うよ。今週は他流試合だそうだから、見学に行くの」

「それでなにを。見学に行くだけか」

 問いはない。ただ理由を口にさせようとする口調には、嘲りが多少混じる。いつもなら送り出すだけの男が問うことは、それ自体が瑛里に理解を与えた。セシルは、知っているのだ。詳細を知らなくとも、瑛里がなにかの渦中にいることを。

 知っただけで、人間はだれかを助けられるわけではないという。セシルも言葉だけが、行動だけが、あるいはその両方をもってしても、完璧に助けられるわけはないのだと思っている。行動以前の、知るという行為は、お互いに認知したことを受容したに過ぎない。

「悩みか、苦痛か……怒りか?」

 細めたままの視界に、子どもと同じ、顔に対してやや大きめの瞳がこちらを見返している。言葉を探すよりも相手の感情をつかむために紡いだ言葉に、しかし瞳は変化を見せなかった。肯定も否定もない顔は、口を開くこともしない。

「願望か? それとも、嫌悪か」

「……悩みはあるかもしれない。けど、他はないよ」

 もしくは全部が少しずつか。

 瑛里は胸中でその言葉を転がした。どちらも当てはまるようでいて、実感からは遠かったからだ。死への恐怖と忌避。自分が関わった者の幸せを願うこと。それらがうまくいかないことへの、嫌悪と苦痛。確認してみると、なるほど言い得ていたが、瑛里は付け足すことは止めておいた。

「どうにもならない願いなら、叶えてやるが」

「必要になったら、きちんと使うよ」

 ただ日々を共にするだけの関係だが、本来の二人は契約を交わした者同士だ。契約内容は、瑛里を主に、セシルを従者にするもの。普段は逆転しているような関係は、根底で覆ることなく続いている。それが顔を出してきても、瑛里の口調は平坦で薄かった。必要性を見返すこともなく、寸断した。

 セシルが腰を落とす。中腰姿勢のまま、のぞきこむようにして顔を近づけた彼に、瑛里は携帯を持っていないほうの手をかざす。その白い手の平が眼前に広がると、隙間から瞳に浮かぶ色をうかがって、セシルは引き結んだ口の端をゆるめた。そうして言葉を探すように、口を小さく開いたまま沈黙する。

 一方で瑛里の視界は、自身のパジャマがほとんど占めていた。肘の手前で引き絞った長い袖の先は、やわらかい太めの糸がレース状になって三段ほどに重なっている。レースの手前部分は銀鼠色の天鵞絨に似た生地のリボンが蝶々結びになって揺れていた。名前とは違う、鼠色に青を足したような紺青色(こんじょういろ)の生地とあいまって、派手な装飾も落ち着いた印象を与えていた。前で留めるボタンも雰囲気に合わせた白いシンプルなもので、返ってそれが、服全体から浮いて見える。他にも襟の縁に白いレースが施されていたが、これは袖口のものよりも小さく、その実、全体を引き締めている。

「欲しいものがあるなら、その時は言うよ」

 嘘だ、と瑛里は自分のことながらに吐き捨てた。それはもちろん自分の中でのことだが、セシルは口をまた閉じて、じっと凝視していた。瑛里の手でほとんどお互いの視線をさえぎった中、わずかにのぞく金と銀はまさしく、針となってお互いを刺していた。

「なら、なにを叶えてほしい」

「……今はないよ」

「少しのことなら無償で叶えてやる。それぐらいの願望はあるだろう」

 知りたいことは。怪我はないか。間接的になら植物もどうにかできるぞ。

 セシルはいくつか提案をして、瑛里の反応を見る。半分が言葉遊びのようで、眼光は鋭くなる。ミシンのよく研磨された針が迫ってくる感覚に、瑛里は視線を四方にめぐらせる。見慣れた天井やカーテンなどはほとんど見えなかったが、考える素振りをして、ややあってから瑛里はうなずいた。

「欲しいものはあるけど、セシルが用意できるとは思えないよ」

「無償に、そんなにこだわるのか」

「それはものによるけど、そこまで必要ではないね。タダより高いものはないともいうし」

 言い改めた瑛里に、セシルのため息がかかる。大部分は手の平が受け止めたが、隙間をぬうようにして頬にかかったそれに、瑛里は不満かと訊ねた。

「なにかあったのかを聞く権利はあるに決まってるだろう」

「それなら、最初からそう言えばいいのに」

 従者としてか、同居人としてか、その両方としてか。瑛里にはわからないが、まどろっこしいことに違いはない。或いはそれらを踏まえて瑛里を責めているのかもしれなかったが、伝わらなければ意味がない。

決して通じていないわけでもなかったが、瑛里もセシルも、そちらは指摘しなかった。

「四日前、ちょっと事件にあってね」

「変質者か」

「それは嫌だね。けど私たちが遭遇したのは、意識不明の女の人」

 変質者の代表格といえば露出狂だが、真冬にそんな存在は異質だ。特に午前七時という、この時期であれば確実に寒い時間帯では、二重の意味で薄ら寒く、瑛里はかかげていた手をどけてセシルを睨んだ。

「意識不明の人は赤西沙希(あかにしさき)さん。恋人の時里さんの話だと、朝帰りで久しぶりに家に帰る途中だったらしくて」

「だったら、その時里か、本当の変質者がなにかしたんだろう」

 時里が自分たち二人を疑ったように、時里が赤西を害す。関係性からみればよほど可能性のある話だが、瑛里の中では現実味を持たなかった。仮に時里が心と裏腹なことを口にする人間だとしても、方法がわからなかった上、その状態にとどめておく理由も思いつかなかったからだ。いや、人を殺すことに比べれば、よほど楽とはいえ、時里がどちらかを選ぶ人間だとは思えなかったのだ。

 人を殺すというのは、単純なようで複雑である。それこそ容赦などしなければ、殺す行為自体は完遂も容易だろう。問題は社会という枠組みで殺人を捉えた場合で、責任から逃れることは不可能だ。自意識が罪悪感を連れ回すようになれば、周囲の目が遠巻きになるようになれば、自分自身をそぎ落として生活するしかなくなる。その時点でのメリットデメリットを考えれば、殺しは難解だった。

 今回の場合は意識不明だが、赤西をその状態でとどめておくことが、実のところ一番難しい。毒も使わず頭に強い衝撃の跡もうかがわせず、まさしく眠るような状態に追いやる方法は、瑛里には予想もできない。同様に、病室のパイプ椅子に座っているだけだった時里にも、到底考え付かないように、瑛里には思えた。

 ベッドの上にいる人物に近づくこともできずに、おびえた様子の男などには。

「できるかできないかの判断は、所詮は主観だ」

「ごもっとも、なんだろうね」

 近付いた口から吐かれた息が、双方の顔の表面を滑って流れていく。先程までの思考を軽く振り払って、瑛里は笑った。彼女が考える以上、多少の客観性は含まれていても、主観からも抜けることはない。所詮そんなもの、と一笑に付せば、セシルの言葉までもが重みを失っていくのに、瑛里は目を細める。自分と性質の違う仕草に、セシルは細められた瞳を凝視して、再度訊ねた。

「なにを叶えてほしい?」

「……叶えてほしいことはないよ。残念ながら」

「赤西沙希とかいう女は、助けないのか」

「仮に助けられるとして、私はなにを差し出すことになるの」

 確認事項を一つずつ押さえる作業のように、声音にはいっこうに熱がこもらない。視線ほど棘も含まない言葉は、表層をなぞるのに近く、瑛里の質問も深みを持たない。薄情な言葉は瑛里の中にある時里を確かに傷つけたが、先程までのセシルと同じく、瑛里は彼の言葉を待った。

 短い沈黙の合間をぬって、瑛里が投げ出していた携帯が鳴る。常時、マナーモードも携帯は振動しながら、ソファを転がっていた。わずかに前進して光っていた携帯の液晶が消えると、ついでエアコンの暖房のこもった音が二人の耳を撫ぜる。そちらは脳へ届く前に消え行って、瑛里の意識にはたいして残らなかった。

「契約するだけで、なんでも叶えられるとすれば?」

 セシルが瑛里の髪を撫ぜる。両手で瑛里の頭を抱え込むようにして、金色の瞳をのぞきこんだ。肘掛けに腹がすれ、微細な色を持つ金髪が、瑛里の頬をすべる。その髪色に比べれば色味の少ない、原色に近い瞳が瞬き、笑った。

 だったら、どうするの。

 声帯を震わせずに、唇だけを動かす。セシルがそれを見ることはないが、性能のいい耳には、かすかに震えた空気が伝わる。その内容もわからないまま、セシルは小さく開いた口を動かした。





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