ツナガリ見る
つい先程したチャイムの音に、教室内の人間が何人も立ち上がる。その中で瑛里も立ち上がると、椎名の席にまで近づいていく。六列ある机の、中央の二列。教卓から見て左手の列の、前から三番目の席に座って、椎名は弁当を鞄から取り出していた。瑛里の片手にも、椎名と似たような大きさの弁当を片手の脇に抱えられている。もう片方の手には小銭入れが握られていた。黒い地に白いレースの縁取りと、隅に描かれた王冠の絵。財布自体は安物だが、瑛里のお気に入りでもあった。
「行こうか」
「イエッサー。すぐに用意するからねー」
弁当を取り出した椎名も桜柄に縮緬の財布を片手に席を立った。普段は瑛里か椎名の席でともに食事する二人が教室外へ出ていくのは珍しく、椎名の隣の列にいる同級生数人は軽く目を丸めていた。
「渡邊さんたち、今日は外なんだ」
「今日は先約があってね、人探しから始めるんだけど」
「午後一で体育だから、早く帰ってきなよ」
椎名の笑みに、机を囲んで食べ始めていた同級生たちも気安く手を振る。瑛里も行ってきます、と声をかけて廊下へと出る。
一年生の瑛里たちは、学舎では一番上の階である四階に教室がある。弁当を持っているので、後は食事に適した場所さえあれば良いのだが、あらかじめ話し合っていた二人は一階を目指した。向かうのは購買部だ。
「瑛里はついでになにか買う?」
「そうしようかな。ああ、昨日の返さなきゃ」
「じゃあ今日も、あったかい紅茶飲みたい」
にこりと笑い、椎名が先に階段を降りていく。瑛里も少し遅れて続いていくと、踏みしめるように降りる傍を、男子学生が五人ほど走っていった。購買か学食か、はたまた場所とりか、早く早く、と先を急ぐ一人が小さく叫んでいた。周りはそれを邪魔せずに、道を避けていく。鬱陶しいというより、日常の一部として受け入れている様子に、椎名は踊り場で瑛里を待ちながら下を見ていた。
先程と同じ表情のまま、椎名は緩やかな動作で口を開いた。
「私たちも急ぐ?」
「どちらでも。でも、ごはん物を買うなら、もっと早い方がいいのかも」
顔を見合わせ、鼻を鳴らして笑いあう。そうして幾分か早い速度でまた階段を下りていった。椎名の後ろにいる瑛里が踊り場を去る際、中庭でバトミントンをする学生が何組かが見えた。外は冬であるために寒いが、学生は指定のシャツに、何種類か選択できるセーターを着ている。中庭は校舎と渡り廊下で取り囲まれる形になっているが、出入りのできる一階からは風が入るようになっている。入り込んだ風は基本的に上へと上昇していくため、バトミントンの羽根も高く上がっていた。
二階にいる三年生は何人も廊下へ出ている。その内にも一階へと降りていく。一階は下駄場や、文房具などが置いてある購買。保健室も備えている。渡り廊下を渡れば特別実習室のある専門学科棟があるが、そこへ行ったわけでもないだろう。
「瑛里、急ごう」
「うん」
椎名はもうほとんど駆けている。そうなると普段は運動をしない瑛里では差が広がる。鼻先をかすった長い黒髪を追い駆け、足を小さく動かして階段を素早く降りた。
一階へたどり着くと、椎名は瑛里を一瞥して笑う。口を閉じたまま端を釣り上げた形は作り笑いのようだが、瑛里を見た瞳は光を多く取り込んでいる。昨日までの暗がりの目よりも柔らかい印象を与える色に、瑛里は空気を吸い込んで足を上げた。
「ウルトラマジカルロングパン売り切れるぞ!」
「いやそのネーミングのパンはふつう売れないだろ!」
「矢島は俺の台になれ!」
「それどういう意味の台か訊いてもいいか!?」
会話が成立しているのか微妙な男子生徒二人が、後ろから瑛里を追い抜いた。売り切れると叫んでいる男子生徒に、やや後ろからついていく男子生徒は息切れを起こしていた。その分だけ全力で走っているらしい二人は、椎名も追い抜いていた。驚いた様子で立ち止まった椎名を、瑛里は近寄ってから上から見上げた。
目を丸めた椎名の顔をのぞきこむように、瑛里は首をかしげる。それにつられて黒目を動かした椎名は、今度は目を細めていた。財布越しに硬貨が音を立て、椎名は自分の弁当を瑛里に押し付けた。
「ウルトラマジカルロングパン」
風は強くとも、人の集まった空間の停滞した空気は、肺に取り込むだけで重苦しくなる。何重もの繊維の隙間を突き抜ける風は、重い代わりに痛い。しかしながら、痛みにも一定の効果はある。疲れた後に、あの重苦しさに沈むように。あるいは疎ましく、あるいは癒しだ。必要な時に、自分はそう在ればいい。
(つまり今はピリリッスねえ)
普段は使用されない屋上の扉が開いた。不良ならば逃げるつもりでちらりと視線を上げると、外を眺めていた女子生徒は目を瞬かせた。現れたのは女子生徒二人で、先客である彼女とは一つ年下の後輩であり、つい先頃には知り合いになった。彼女はそれよりも以前から二人のことは頭に入れていたが、昼休みすぐに来るとは思っていなかった。
「……シリアス一新ッスねえ」
「どうかしましたか? 鬼頭先輩」
「いやどうしたって、朝永さんが両手でお弁当とペットボトルを一人で持ってるのは、ちょっと予想外ッス。しかも渡辺さんの持っているそのウルトラマジカルロングパン、略してUPを……買うなんて予想外ッス。というかお弁当があるのに買ったんスか。ここまで持ってきたんスか。どんな理由があったのかはわかりませんけど……予想外ッス!!」
珍しく瑛里から質問したが、先客の彼女、鬼頭はラッピングした卵サンドを屋上の床に落とすと、手帳を取り出してなにかを書き始めた。ついでに落ちたのは有名なコーヒーメーカのもので、プラスチック製の容器は中身がいくらか飛び出す。それに驚いたのは瑛里で、椎名のほうも鬼頭に近寄ると、容器を立てて中身が漏れるのを止めさせた。
「これは昨日のお礼です。情報を教えてくれたのは嬉しいですけど、さすがになにもしないのは嫌だったので、勝手かもしれないけど差し上げます。これ限定売りみたいですし、いくらかお金の代わりにはなりませんか?」
「え、あ、私のためだったんスか。いや、だとしても十分ッス! 二〇センチ越えの長いパン! 四センチごとに味が変わり、サンドウィッチのはさむタイプとあらかじめ中身が充填されているタイプの交互という、ともかく手間のかかるパン! 値段もなんと六〇〇円越えの超リッチなパン! そしてこの限定二五の」
「ついでにプリンです。私からは安物ですけど、よかったら」
「いただきまッス!!」
言葉を遮った瑛里に怒るわけでもなく、鬼頭は椎名が両手に持っているとても長いパンを受け取った。パンを覆う包装紙を剥ぎ、見た目はフランスパンに似たパンを頭からかじる。ちなみに鬼頭のかじった部分には切れ込みが入っており、レタスとハムにドレッシングの入ったサンドウィッチ状になっている。
顔を見合わせてから鬼頭のそばに座り込んだ瑛里と椎名も、自分用に買ってきた缶のプルタブを開けると、弁当を広げ始める。鬼頭はそれに気にした風もなくフランスパンにしては柔らかい食感のサンドウィッチを食べ進める。一瞬だけ味のないパンから、トマトや香草の味がするパンへと変わると、鬼頭は一つうなずいた。
「私たちは食べたことないんですけど……もしかして不味かったですか?」
「そんなことないッスよ。ウルトラマジカルロングパン……別名フルコースパン。サラダからスープ、魚料理、チーズ、最後はデザートとなってるんスよ。パターンによっては肉料理もあって、材料費も実は割高なんスよ。例えば小麦粉は北海道産。サラダに使う野菜類も特産品を使用。チーズだけは口当たりのいいプロセスチーズなんス」
「へえ。食べる方向を間違えることはないんですか」
「シールでわかるらしいッスね。その検証も、今できました」
椎名の質問に答えながら、鬼頭はパンを頬張ったまま破った包装紙に目をやる。ある程度のところで切れ目を入れて破った包装紙の折り目部分には、鈍い金色のシールにRichと名前の入っているものが貼られている。二、三度目を瞬かせた二人に、鬼頭はパンを卸している店の名前だと教えた。
「でも、なんでUP……ブレッドだったらBじゃ」
「UPのほうが言いやすいんじゃないッスか。UPだからアップっていう方々もいますし、その関係じゃないッスかねえ」
自分はそう考えている、と付け足し、魚のフライとタルタルソースが美味しいフルコースの主役ゾーンに入った鬼頭は、いったんパンを口から離してコーヒーをすすった。口を苦味で切り替え、再度、厚さもほどほどにあるフライで口をいっぱいにする。この時点で、瑛里はパンのカロリーが高いことに気付いたが、鬼頭に言うのは止めておいた。知っている可能性が高かったのもあるが、仮に知らないか忘れているとして、さすがに言いにくかった。
「でもお二人はお弁当組ッスよね。よく買えたッス」
「ああ、残り三つだったから知り合いの背中踏んづけてゲットしたんです。大したことありませんでした」
「……その人、思いっきりウルトラマジカルロングパンほしがってたけどね」
代わりにこちらは言わずにはおれなかった様子で、瑛里は少しばかり目を細めて椎名をにらんだ。椎名を止めなかった自分に言えた義理でないこともわかっているのだが、それでも、という思いはある。
脳裏に、文字通り踏んづけられ上履きの跡の残った背中が焼き付いて、瑛里は椎名の雄姿も一緒に追い出すようにため息を吐きだした。椎名の言う知り合いが、購買に行く途中で二人を追い抜かした男子生徒で、本当に台になっていた男子生徒と目が合ったことも、なんとなく気まずかった瞬間だった。
「それは見たかったスね」
「というか先輩、食べるの早いですね!」
にらんでいた目がどこを捉えるでもなく眺めている間に、鬼頭は五センチ程度を残してパンを食べてきっていた。間に飲み物を飲んだのは、瑛里の知る限りは一度だけだ。
「ところで、本当に何か用があったんじゃないッスか? 昨日の件はちょっと気になって調べていたからいいんスけど、他の件なら時間がかかるかもしれないッスよ」
瑛里の言葉に笑って返した鬼頭は、片手サイズになったパンとコーヒーを両手に持ったまま肩をすくめた。気安い雰囲気を助長させる明るい茶色の瞳が、後ろ髪によって一瞬だけ隠れる。ほぼ同時に吹いた風は薄い刃のようで、瑛里と椎名も肩をすくめることで寒さをしのいでいた。
「その件についてなら、わかるんですね」
風が過ぎ去った先を見ることもせず、瑛里は弁当をつついた。おかずと白米が二段でわかれている弁当は、どちらも半分も減っていない。椎名のほうはそれよりも食べ進めていたが、瑛里がそう言って以降は箸が止まっていた。鬼頭はコーヒーを飲んでいた。昨夜出会った鵜沢を思い起こさせる仕草だが、口に描いた笑みは柔らかい。
「じゃあ、内容を聞いて」
「若菜先輩、今日はウルトラマジカルロングパン買ってきました!」
ウルトラマジカルロングパン……ネーミングセンスのなさなんて、自分が一番よくわかってるもん……!
いや、もんなんてごめんなさい。でもネーミングセンスないのは自覚しているので、笑うだけにして……。
ご感想ご指摘などありましたら、よろしくネ!(トリック劇場版2観ましたー。楽しいね)