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飽食の腹  作者: 神楽の蔓
6/11

医者とメスが甘味を殺す

 失礼しました。

 瑛里と椎名はそろって頭を下げると、スライド式のドアがゴムに接触した音を聞いてから姿勢を正す。そうしてから顔を見合わせ、どちらともなく歩き出すと、高校生の持つものにしては実用的ではない革靴が、わずかに音を立てた。

 表札だけが違う個室を四つほど通り過ぎ、右に曲がる。階ごとの小規模なナースセンターも横切り、目のあった看護婦に会釈をしながらも、歩みは止めなかった。看護婦にしても慣れた様子で頭を下げた後、二人の背後にある個室の前で声掛けをすると、控えめな音を立てて消えていった。面会時間は残り一時間ほどで、時間だけならば夕暮れ時の廊下には、十前後の私服の人影があった。

自販機のある休憩スペースが視界に入ったところで、そのすぐそばにあるエレベータにまた三、四人がいる。エレベータの横には階段もあったが、椎名は瑛里の肩を叩いて自販機まで促した。瑛里も頷いて休憩スペースへ行くと、エレベータを待っている四〇前後の女性が控えめながら訝しむように一瞥を寄こした。

音もなく、間もなく来たエレベータに乗っている人々を眺め、瑛里は扉が閉まると同時に肩をすくめた。代わりに椎名の目の前にある自販機からは、実物よりも大きな物が落ちる音がした。次いでカチリ、と落ちてきた六枚の硬貨を、椎名は財布にしまった。

「睨まれた?」

「どうかな」

 スチール製の同じ缶。白地に青い印字のある缶は、上品さを際立たせるように銀の装飾が施されている。ミルクティーでは有名なメーカーの缶を一つ、瑛里に手渡して、椎名は休憩スペースの五人がけのソファに腰かけた。そうしてから椎名は散らばった米神あたりの髪を後ろへと払う。黒髪はこの時間にもなると暗闇に落ちていき、椎名の顔を白く際立たせていた。

 プルタブを開け、椎名が先に紅茶を口に含む。それを見てから、瑛里も椎名の隣に腰を下ろした。瑛里の髪は頭上で結んでいるためにそれほど邪魔になることもない。一方で晒されているうなじは、院内の空気の流れに緊張していた。

「……植物人間か」

「うん」

「失礼だけど、私、初めて聞いたような気がする」

「そうかもしれないね」

 相槌のみを返して、瑛里もプルタブを開ける。紅茶の入った缶の飲み口が黒々としているのを少しだけ見つめ、一口飲む。その間に二口目を胃に送った椎名は、細く長い息を吐いて缶を離した。瑛里もわずかに中身の減った缶を遠ざけ、両手で暖を取るようにして囲う。

「日常からは遠いからね」

 それが悪いことではない。医学生でも医者でもないならば、どこかで聞いたことがあっても、それだけだ。

 椎名に言い含めるように紡いだ言葉に、応える音はない。いったん遠ざけたミルクティーをもう一口ぶん口に含み、舌で転がす。一方で舌をすり抜けていった液体を胃まで流し込むと、細長い食道が少しだけ温まった。隣にいる椎名も、缶を両手で持って暖をとっていた。

「植物人間のこと、詳しい?」

「全然。だけど昨日……いや今日か。偶然だけど特集見たから」

「今日、とすると夜中、特集ってことはテレビ?」

「二時過ぎにね」

 そんな時間には起きてられない、と苦笑する椎名に、瑛里も口の端をわずかに上げて笑う。調子を合わせて唸る自販機を二人で一瞥すると、どちらともなくミルクティーを飲んだ。

 ゴトリ、とエレベータが二人のいる階で止まる。小声で話していた二人を見ることもなくエレベータの前にたまっていた数人がまた鉄製の箱へと消えていく。次いで遠ざかる音を、耳を澄ませて聴くと、瑛里がソファの背もたれに背中を預けた。

「植物人間って、どうしてなるんだろうね」

「……自動車事故とか、脳卒中とか、脳に損傷があるとなるらしいよ。最低限、自力で呼吸はできるけど、最終的に…………死ぬこともある」

「ちなみに脳死との違いは、脳死の場合は脳全体、全脳死のことだ。イギリスだと生きるのに必要な呼吸とかを管理する脳幹が死ぬことを脳死というけどね。まあ、植物状態との見極めには、そうやって区別するのも手だと思うよ。それから植物状態に陥ってしばらくすると死ぬのは、生きていた脳幹がだんだんと死んでいくから。こうすると脳死状態だ。脳死だと診断されると、通常は一週間以内に心臓も止まってしまう」

 決して大きくはないが耳に馴染みの良い、低い声が瑛里の説明を引き継ぐ。非難する響きはなく、面白がるような雰囲気もない男は、ミルクティーを音が鳴るほどの勢いで飲み下した椎名を一瞥する。肩をすくめてみせ、自販機でコーヒーを購入すると、それを片手に持ったままそれに背をもたれさせた。

 男は三〇後半のやや女顔の顔立ちをしている。露草色の手術着の上から若干の皺がある白衣を着ていた。背は一七五前後で、体格はそれほどよくないが、コーヒーを掴む片手は大きく細い。節くれも目立たず、瑛里は器用な印象を受けた。

「どなたですか」

「脳外科の鵜沢(うのさわ)です。今朝の患者を診たのも僕なんだけど、受付の蘇我ちゃんから救急の電話くれた子がいるって聞いたから、来てみました」

 鵜沢は缶を組んだ腕の辺りまで持ってくると、軽く会釈をしてみせた。瑛里と椎名もそれに倣うと、他に質問はあるのかと問われる。少し下げた頭をお互いに見合わせ、視線を交わすと、椎名が片手を上げた。

「はい、お名前と質問は?」

「渡邊です。あの、脳幹っていうのは、そこだけで生きられないんですか」

「それは個人の生きる力によるかな。ただ脳の大体が死んでいるから、身体は治っても快復する可能性は著しく低い……これは人の死をどう見るかによるけど、脳幹は生きていくために必要なものだけど、それだけで生きていると判断するか」

「……人の死を見たことのある人間なら、生と死ほど曖昧で独善的なものはないはずです」

 慎重に呟いた言葉と裏腹に、瑛里は鵜沢を凝視した。やや強い視線に鵜沢は瞬きを一つして、瞳孔が廊下側を向く。自販機の白い照明が鵜沢の頬も青白く見せた。

 鵜沢を見つめていた瑛里は、その身体の輪郭に当たる光に、目を焼かれたように感じた。瑛里も瞬きを一つすると、鼻から息を吐いてミルクティーをいくらも飲んだ。

「朝永といいます」

「ああ……そう、朝永さんか。どちらも若いのに、しっかりしているね」

 鵜沢はとりつくろうように笑って、二人に近づく。黒目の大きい猫に似た瞳が椎名を捉え、瑛里に移る。改めて観察する目は黒々としていて、照明も少なく陽もとっくに落ちただけに、本来の色はわからない。瑛里の瞳も艶のない刈安色になり、普段よりも暗い色は瑛里自身を暗い人間に見せていた。鈍重で鋭いものを交わしあい、鵜沢はもう一度笑って、いつの間にか飲み終えていた缶コーヒーを捨てに行く。瑛里たちに背中を向ける格好になりながら、これまでに比べ柔らかい口調で話し出した。

「救急の場合、通報してくれた人ってあんまり来ないんだよね。いい結果ならともかく、悪い結果につながるのが怖いからか、単に関係を持つのが嫌なのか。相手は人で自分も人なんだから、その人となりもわからずに助けるって、本当は結構な勇気がいると僕でも思うよ。医者だって判断を間違えることもあるし、応急処置を行うにしたって、場所がそれに適した環境か、本当にこの手段があっているのか、なんて考えていたらきりがないし」

「……つまり、よくやったね? と」

「そう。そんなところ。君たちの所見通り、外傷はほとんどなかったし、心臓や脳にも異常はなかった。他の臓器もいたって正常……あくまで病気レベルではなかっただけだけど、突然脳の機能が停止した以外は健康体だよ」

 鵜沢の説明に瑛里が眉間に皺を寄せる。ほとんどよどみのない口調は確信している様子が見受けられるが、瑛里たちにしても知っているのは、赤西沙希が倒れる直前に金属音が一つしたことだけなのだ。突然、などという言葉が適切なのかもわからない。

「突然倒れる病気って、探せばある気もしますけど」

「倒れるだけだったら、精神科のお医者さんの出番かもしれないけどね。なんの理由もなく脳が機能停止することはまずないんだよ」

 まあ、稀有な事態ってことはあるけど。

 自身で言いながらも、鵜沢は大してそれを信じていないようだった。人体の不可思議ってあるんだよね、と付け加えた言葉も、瑛里たちを捉えて言ってはいない。男にしては大きい目を細くすると、瑛里と椎名の間にあるわずかな空間を睨みつけていた。

 反面、どこか確信を持った態度に、質問した椎名は首をかしげて見せた。動いた拍子に移った視線を引き付け、椎名はもう一度口を開く。瑛里は椎名に任せることにしたようで、鵜沢の表情だけを注視していた。

「じゃあ、最後にもう一つ質問していいですか」

「ああ、どうぞ。にしても最後の一つってミソだよね。最初はイギリスのミステリー作家が考えた探偵の常套句で、後世の人間はほとんどそれの模倣だ。やっぱりメディア受けって大事なんだろうね」

「……いや、あんまりミステリーは知りませんけど。そうじゃなくて、今回みたいなことが、最近はよく起こってるんじゃないですか」

 ほとんど断定するような口調で椎名は言う。瞬間、饒舌だった鵜沢が口をきつく閉じた。視線も、瑛里と椎名の間を捉えたままではあったが、瞳はほぼ瞼の裏に隠れている。

 形だけならば笑んでいた。

「うちは今のところ二件。君たちの高校近くでも一件と、ここより都市部のほうで二件……似たような状況って変だよね?」

 会話を始めて何分が経ったのかは、時計を見ていない椎名たちにはわからない。しかし鵜沢が初めてした質問は暗く重く、反面で笑っている。いつの間にか接近していた顔の、大きな黒目に感情が現れているようで、瑛里は先程とは違う意味で凝視した。




キリが良かったので、ここで区切ります。次回は高校が舞台の予定ですが、瑛里の設定が未だに出てこない……そして鵜沢出張った。今までで一番よう喋るわ。


脳が関係しているということで脳外科を出しましたが、合ってるのかわかりません……というか植物人間引っ張り過ぎたかも。おかげさまなのか、予想以上に重たくなってきました。

…………ファンタジーって、もうちょっと明るくていいと思うんだ……。


今回もお読みくださり、ありがとうございます! ご感想ご指摘ありましたら、どうか言ってやってくださいね!!(……深夜三時のテンションって、こんなものだよね)

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