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飽食の腹  作者: 神楽の蔓
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境界線を歩く人

 若い人だ。

 瑛里は個人病棟の一室に眠る人物の顔を、改めて眺めた。

目を閉じている人物は、病院へ搬送されてから化粧も落としたようで、肌はわずかに荒れていた。日焼けした様子のない面に眉毛はほとんどない。狂言で使う能面に似た病的さと、額に巻かれた顔よりも白い包帯が、奇妙なバランスをとっていた。

一定の間隔で鳴る機械と呼吸音のみの部屋は、瑛里に既視感を抱かせた。

「あの、入ってよかったんですか?」

「ああ。礼も言いたかったし」

 それが本音なのか捉えかねて、瑛里よりも先に人物から視線を逸らした椎名に倣い、黒いプラスチック製の椅子に座る男に目を向ける。冬にしては薄着の男は、ジャケットとマフラーを椅子の背にかけ、両の太ももの間で手を組んでいた。猫背気味になった顔は、瑛里と椎名を通り越えてベッドを見つめていた。

 あの後、救急車で運ばれていくのを見送って、多少遅刻しながらも二人は高校へ行った。遅刻した理由を先生に告げ、授業も変わらずに受けたが、瑛里は皮膚の隙間を裂くようにしてにじんだ血を思い出していた。頭には無数の血管が通っているためか、記憶にある血は赤々しく、救急車を呼んでからは瑛里のタオルを軽くのせていた。

 あの怪我は、思いのほか深かったのかもしれない。

 自分の判断が的確ともいえず、瑛里が椎名にそうもらしたのは、昼休みのことだ。同じクラスに所属し、教室内で弁当を食べていた椎名も、平坦な声で肯定した。次に自分も似たような判断に至ったことを告げて、行儀も悪く弁当のから揚げを突き刺した。

 賭けをしよう。

 内容を言わなかった椎名に、瑛里は構わずにうなずいた。椎名もそれに、目元に入れていた力を抜く。それから二人は無言で箸を進め、ほぼ同時に弁当を食べ終えた。

「しかし、よくわかったな。ここに沙希がいるって」

「そういうことに詳しい子がいて……情報収集が趣味らしいので、協力してもらったんです」

 瑛里の言葉に、付き添いの男が目を細める。焦点が瑛里を結んで留まるのを見つめ返して、瑛里もその瞳を見つめた。沙希、と呼ばれた女性の知り合いは、少なからず暗い色を浮かべている。その奥に、敵愾心の欠片を見つけて、瑛里は視線をそらすことを止めた。

「どういって調べた?」

「その子が教えてくれたのは、ベッドの空き状況です。詳細な数は私たちには……たぶん教えてくれた子も知りませんけど、救急救命の活動とその時に行く病院で、だいたい予想はつくからって」

「……よくやるな」

 また言葉に含みを残し、男が息を吐く。同時に閉じた目が開くと、暗い色をした瞳に緊張と疲れが露わになる。警戒したまま疲労していく様に、椎名は母音を意味もなく伸ばしながら首をかしげて見せた。

「お名前とか聞いても? それとも先に名乗りましょうか?」

「その制服で、なんとでもなるよ……俺は時里佑真(ときさとゆうま)。そこで眠っている赤西沙希(あかにしさき)の彼氏だよ。沙希はこっちに出てきてる身だから、今は俺が付添い人をやってる」

「家族への連絡は、もうすんでいるんですか?」

「新幹線があるとはいえ、来るのは遅くなりそうだがな」

 椎名の質問に答えていく時里は、組んでいた指をほどく。深爪になっている指は瑛里の手よりも二回りは大きく乾燥していた。その親指が、今度は迷うようにわずかに動く。秘密と詰問を耐えている指は、質問している椎名ではなく、瑛里を見て止まった。

(問いのほうが勝ったのか)

 先程から、時里に問いかけていたのは椎名で、時里の問いに答えていたのは瑛里だ。それで二人の役割は判然とする。事前に相談したわけではないが、瑛里の口調は軽くなく、椎名は深刻になりきれない。お互いに、真剣な場は不慣れだった。

 それでも時里の視線をそらすことは、瑛里にとって真摯ではない。事実を包み隠さずに言って受け止められるかも、そこまで重要ではないのだ。誤解は避けたいが、不測の事態などは無いように、情報は与える。それをどう扱うかまでは、瑛里に関与することはできない。

「沙希、どういう状態だと思う?」

「……寝ているように見えます」

「正確な状態は、知らないのか」

「額の傷は、倒れた時にできた傷じゃないか、と。それだけは」

 時里へと向けていた顔を、背後で眠っている沙希へと向け、椎名は包帯を視線で撫ぜる。巻き込まれていない前髪は左右に大きく分かれている。それでも長い前髪は、目を開けていれば入りそうでもあった。白い蛍光灯の光に照らされた髪色は黒茶色をしているが、毛先は少しだけ色が明るい。ただ芯の部分は黒く、どうにも染めている様子だった。

 引っ張ったら起きるかな。

「誰か、人影は見なかったか」

「いえ。赤西さんだけです。椎名……彼女は赤西さんの様子を見ていました。周りを見て救急車を呼んだのは私ですが、近くに人影もなかったですし、音も特には」

 背後でする瑛里と時里の会話を聞きながら、伏せ気味になった目で赤西の身体をなぞる。撫で肩が普通の女性よりも柔らかい印象を与え、上から下にかけて細くなっている体型は美しいと言える。鍛えている椎名としては、女性らしさはときどき遠い概念で、赤西の身体は弱々しくも映った。

 倒れる前にした金属音の話を忘れている、と気づいた椎名だったが、口にはしない。言う前に瑛里が一言謝ってから説明をいれたからだ。軽い口調で付け足すのは空気の入れ替えにも効果がある。反面で友人の言葉をさえぎるほどのことかといえば、今はそうではない。

 むしろこの人が起きてくれれば、と椎名は心中で呟いて、重い空気に紛れるように小さくため息を吐く。伏せていた視線が上がった先では、カーテンの隙間から光と闇が手を伸ばしている。どちらも冷たく、ただの無機物だ。それでも、そこになにかを見出すこともある。

 奪うか? 助けるか?

「椎名、どうかした?」

「え、うん。なんでもないよ」

 見上げながら声をかけてきた瑛里の顔を視界に映して、椎名は勢い良く首を横に振る。蛍光灯の光が瑛里の虹彩の中を通り過ぎ、金色が微細に輝く。一つ瞬いてから赤西の肩よりも一回り小さい肩が力を抜いて相槌を打った。

 そうして、また時里へと向き直った瑛里に倣って、時里に目をやる。真摯に努める瑛里を凝視する視線はそれない。椎名が赤西を見る前より前傾姿勢になり、再び組んだ手は鼻頭に押し付けられていた。指の股にはまった指先に込められた力は強く、爪はそれほどないにもかかわらず表皮を傷つけている。けれど気にした様子もない時里の瞳は黒目が非常に黒く、白目に映り込んだ光とあいまって生々しいてかりを生み出している。

「沙希を運んでくれた人間が、こんなことはしないんだろうな」

「その前に、赤西さんにそうする理由がありませんから」

「私もしませんね」

「なら、だれが沙希をこんなことに?」

 時里の質問に、しかし瑛里は答えられない。答えを持っていない。最後にしゃべった状態で小さく開いていた口を閉じる。ほとんど乾いていない舌を湿らせ、わかりません、と答えた瑛里は、時里を見つめたまま一礼した。

(人はその気になれば泣けるのだっけ)

 咎める機会を狙っているのか、鋭い視線は、一方で剣呑な光がある。それが涙なのなら、怒りによって泣くこともあるのだろう、と瑛里は考える。ただ感情は分類化するのが難しく、怒りや緊張や疲れやその他のものが含まれて大きくなる。そうなれば時里本人には大分した分類からでしか涙の意味はわからないであろうし、瑛里にわかること極端に少ない。

「赤西さんは本当に寝てるんですね」

「寝ているようだけど……可能性もあるか」

 瑛里がわずかに目を見開いたのを、椎名は視界の端で見止める。喉で息を詰める音も聞こえてくると、椎名は瑛里を一瞥した。一瞬後に再び見た時里は自嘲気味に笑い、大きく息を吐いていた。

 時里が言いよどんだ少しの間に、また重いものが横たわった。

「いや、二人のせいじゃないのはよくわかってる。できるはずがないって、医者からも聞いてるんだ……でも、これは受け入れられない。信じたくはない」

「……なにか、後遺症でも?」

 訊いたのは椎名だった。慎重に息を吐くようにして言った言葉はかすれていた。二人が思い当たるのは額の怪我ばかりで、それのせいだったのだろうかと、椎名は内心で頭を抱えそうになる。瑛里は自分の認識が間違いだったのではないかと危惧していたが、そうだとすれば、赤西の態勢を変えたことも何かしら影響を与えたかもしれない。目立った外傷のなさからも、頭になにかある可能性は考慮できる。自分に不備があったとして、椎名にも気がかりな部分はある。

 時里はそれに対し、眉根を寄せて伏し目になる。自分の足元へと視線をやった男に、どちらともなく、ほぼ同時に、赤西を見ていられないのだ、と理解した。

 赤西を見ているように映ったのは、ここへ来る予定の赤西の両親を思ってのことだったのかもしれない。もしくは現状の理解に努めようと意識を固定して、そのためにも二人を病室の中まで招いたのだろう。

 だからといって自分の口からなにかを言うのは、聞くこと以上に神経を使う。少なくとも時里は、理解に努めてはいても辛さがなくなったわけではない。瑛里としてはわからなくもないが、先程の椎名と同様に、特に邪魔をする気もなかった。椎名の場合と違うのは、赤西の状態を、瑛里も少なからず知りたいからだ。

「今のところは、正確な診断は受けていない。医者にはもう少し待って診断を受けるらしいが……植物状態になる可能性も、あるらしい」

 拒絶するように小さく開いた口の、その中で転がされた言葉に、瑛里が口を閉じる。端には緊張したような皺も刻まれて、椎名は何度か目を瞬かせた。不用意に喋ることを考慮して椎名も口を閉じると、時里も真下を見つめたまま沈黙する。結果的に喋る者のいなくなった部屋で、電子音が四人目の存在を主張する。

 ちらり、と動いている三人が見た赤西は、身体を動かすこともなく寝ていた。


今回とあと一話ほど植物状態などについて触れますが、作者が医学知識皆無のためどうしようか悩んどります。事前に仕入れとこうよ、という感じですね、はい。


ええと、それから前回辺りで気づいたのですが(ちょっと遅い)、場面を切り替える時の記号が増えていってました。

※・※・※ ですね。前回は五個つなげるとか、入力も手間ですし見栄え悪かったです。以降は※三つで統一したいと思います。宣言です!



ご意見ご指摘などございましたら、よろしくお願いします。

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