霧に埋もれる
金がきらめいた瞬間に似た瞳が開く。夜の雰囲気も色濃い空気を肺に取り込んで、瑛里はベッドの端によった。ついでに充電したままの携帯をケーブルから抜き、ベッドから少し離れたところにある文机の上に置いておく。そのままベッドを整えてブレザーを残して制服に着替えた。
「五時二〇分……いつも通りか」
例の特集を見ていたため、瑛里が寝たのは遅い。習慣に忠実な身体は起きてはいるが、頭は若干ながら重く、ため息はそれを逃がすように重く長い。今日は早く寝よう、と瑛里は朝一番に決意した。そうしてから、その事実に苦笑を漏らし、携帯を鞄に入れて廊下へと出た。
瑛里とセシルの住んでいるマンションはファミリー向けの3LDKで、トイレと風呂は別々になっている。個室で一番面積の大きい主寝室はセシルの部屋に、もう一つの寝室は瑛里の部屋となっていた。残るもう一部屋は和室で、目的としては来客用の寝室のようなものだが、こちらがたまに帰ってくる瑛里の両親が寝る部屋にもなっていた。
「牛乳入りのオムレツにトマトは合わないんじゃないか」
「だから一緒にチーズも入れてるじゃない。なかなか合うでしょう」
リビングにある、四人がけのテーブル席に向かい合わせに腰かけ、瑛里はグラスに注いだお茶をあおった。一端は置いていた箸を右手で握ると、ワンプレートの大皿の上にのっているブロッコリーをつまんだ。
「これも一緒が良かったかな」
「……食感がいい加減になるな」
そう言ったセシルだが、オムレツに関してはほとんど食べ終わっている。けれどバランスよく食べる、ということもしないので、主食であるご飯はお茶碗に半分以上残っていた。見慣れたその様子に瑛里が咎めることもなかったが、切れ目に沿って焼けているウィンナーに目をつけながら口を開いた。
「それ以上遅くなると、コンソメが冷たくなるよ」
セシルのプレートの隣にあるお椀からは、既に湯気は出ていない。底のほうで輪郭だけはっきりとした透明な玉ねぎが沈んでいる。
途端に音を立ててすするセシルに、瑛里はウィンナーを口に運ぶ。そうして咀嚼しながら、随分と慣れたな、とふっと感慨がわくと、彼女は口の端を緩めた。ヨーロッパ圏ではマナー違反とされる行為だが、それをためらいなくできるのには、少し時間がかかる。セシルが違和感なく行動に移せるのも、瑛里としては歓迎すべきことだった。
「ごちそうさま」
そう言ってプレートの上に茶碗とお椀を乗せると、システムキッチンの流し台に食器をまとめておく。ついでにレバー式の蛇口を使って水で乾燥を防ぎ、脱衣所に向かった。瑛里の朝の家事は朝と昼の食事作りと洗濯物を干すことだが、この二つをやるために瑛里はセシルよりも僅かながら早い時間に食べている。セシルも朝食後の食器洗いは仕事として了解しているようで、食べるスピードは日によってまちまちといった具合だった。
間もなくかごと防寒具一式を持った瑛里がリビングに入る。防寒具のほうは自分の座っていた隣の椅子の背にかけ、かごを持ったままベランダに近づくと、眉間に皺を寄せ、口を引き結んだ。
「霧が濃い」
「ああ、くさいな」
「……柔軟剤が入ってるからね」
室内用の組み立て式の物干しに、ベランダからとってきたハンガーを引っかける。次いで洗濯かごから洗濯物を取り出してハンガーにかけていく。二人分の衣類とタオル類が主なため、作業が終わるのは早い。プラスチック製の青い網かごはベランダ寄りにしておくと、瑛里は屈んでいた背を伸ばした。
そのまま動きに合わせて肺にたまった空気を鼻から押し出す。時計は瑛里が起きてから一時間も経っていたが、霧の濃さは変わっていない。外の景色は霧に覆われていて、マンションの真下にある道路と歩道がかろうじて見える程度だった。街灯は未だに光っていて、微小の粒のようなものがある。ベランダの窓越しに見やる瑛里からは膜を張っているようでもあり、霧が晴れるにも時間がかかるように思えた。
「今日は降るかな」
「さあな。午後には晴れると思うが」
「なら、タオルを持っていこう」
霧に濡れることを考えてスポーツタオルを部屋から取ってくると、深緑と濃藍のチェック柄の包みと共に鞄の中に入れていく。椅子の背にかけていた傷口に張り付いた血の色に似たブレザーを着こみ、黒いコートに袖を通す。陰鬱な色合いに、セシルは見慣れた姿ながら目を細めた。
「朝からはねられそうだ」
「それじゃ、遅くならないようにもしとくよ。今日は予定もないし」
ポケットサイズのカイロを二つ、片方はブレザーの内ポケットに、もう片方はコートのポケットへと入れる。瑛里はそう告げてマフラーと手袋もしてしまうと、腕時計に目をやる。女性物の、細い腕時計の針も細く、時計は間もなく七時を越えようとしていた。確認してセシルを見た瑛里は、慣れた手つきで鞄を片手にとる。
制服を着た瑛里とは逆に、どこへ行く予定もないセシルは、流行には則っていても着込む必要性もない。七分袖は、瑛里には寒々しく映るが、照明に鈍く光る銀の瞳も熱量のかけらも感じさせなかった。
「メールするなら、早めにしろ」
「うん。いってきます」
言いながら玄関へと向かう瑛里に、セシルは了解を示しただけだった。
※・※・※・※・※
霧は間近で眺めるほどに膜のようだ。
街灯が照らしてできた球体を眺め、瑛里は目を細めた。霧は一部分にできているわけではなく、瑛里の顔やマフラーの隙間から首の中に存在をひそめている。刺す冷たさとは違う、極度に冷やした水の粒が寒さを染み込ませた。瑛里の視界のほとんどを占めている椎名は米神あたりの髪で耳を隠すと、手袋をした手で鼻と口を覆う。嫌気が大半の唸り声も聞こえてくると、瑛里も自身のくくってある髪を手にとった。
「ざぶい」
「今日は一段と冷えたね」
「えりもばなまっがんなぁのにぃ」
「イギリスも寒いからね。冬は濃霧も多かったし、仕方ないね」
もう一度だけ唸った椎名に軽く笑いかけて、瑛里はコートのポケットに入れておいたカイロを渡す。受け取った椎名は両手でしばらくカイロをあたためると、片方の手だけ鼻をあたためていた。寒さに上がっていた両肩が下がったのを確認し、瑛里も朝一にくくった髪をほどいて耳を隠す。ゆるく弧を描くように広がった髪に霧が当たった錯覚のようなものに、少しだけ頭が重くなるのを感じながら、髪をまとめていた黒いリボンはコートにしまう。
「冬はもっと遅く登校しようかな」
「寒いのにあんまり変わりはないよ」
「そういわれると、冬は全部欠席しなきゃいけなくなるんだよなー」
冗談半分だとわかっている瑛里は、そうしたらプリント当番は私だね、と返す。椎名にも異存はなく、その場で四五度にお辞儀をすると、かしこまった口調で瑛里にプリントを託した。
「でも、お家のお爺さんに怒られそうだね」
「……教育の最低ラインも変わったよねえ」
両手でカイロをあたためるようにして持ち、顔をうつむかせた椎名に、瑛里も頷いた。そうしながらもお互いに立ち止ると、タイヤの踏みしめる音を聞く。瑛里は行き過ぎるウィンカーやテールランプを視界に入れながら、赤が青になるのを待った。
瑛里と椎名がともに通う高校は、どちらにとっても少し距離がある。高校前まではバスでも行けるが、ラッシュを嫌った二人は徒歩を選んでいた。わざわざバスを待つ、という行為を手間だと思っていたのもある。椎名のほうが朝も早く、自然と登校時間も早めになっていた。
青に切り替わったのを見止めて、瑛里が歩き出す。半歩遅れて椎名も歩き出すと、いくらか先でキイイ、という金属の擦れる音が、二人の耳に届いた。明瞭ではない空間で、おそらく自転車かなにかだろう、と同時に思い、二人で音のした方向に顔を向ける。
霧が漂い、建物の壁や配置がかろうじてわかる世界は、次いでドサッ、と音を立てて崩れる。
何十キロもの砂袋を落としたような、重みはあるが柔らかさも内包した音が、一度だけした。
「……まさか、はねた?」
椎名が慎重に言葉を口にした。なにをはねたのか、そもそもはねたのか、瑛里は多少考えながらも椎名を凝視する。返事を返さない代わりに視線を合わせて、すぐさま音のしたほうへと走り出した。
なにがあるかはわからなかったが、瑛里は鞄から携帯を取り出しておいた。同時に椎名を見失わないように並走しながら、黒い塊が見えたところで辺りを見渡す。
走ってきた二人の右手側にある公園は小さくさびれている。道も大通りから三つ離れていて、店は点在するが、やはり人影はない。公園に入った可能性もあったが、自転車で入ったような真新しい跡もなかった。
「大丈夫ですか!? 意識ありますか!?」
駆け寄り膝をついた椎名が、歩道を越えて道路にうずくまる塊に声をかける。応急処置の要領で意識を確かめた椎名は、状況を確認していた瑛里を見上げる。呼びかけを聞きながらも周囲の音を拾おうとした瑛里は、視界の端に映る椎名と視線を合わせ、ややあって携帯を耳にあてた。
「救急車をお願いします。場所は燈中公園前……はい、門前にいます」
一一九番に電話をしながら、瑛里も膝をつく。椎名と目で合図をしあって塊を転がし、瑛里は塊を下から上へと眺めていった。冬用の温かそうなブーツやレギンス、灰鼠色のコートの前を、ボタンをはずして確認していく。ゆっくりと丁寧な動作で塊を横たえていた椎名は、瑛里の視線が自分へと向けられると、手の平を差し出した。
「おでこをぶつけたようで血が出ています。意識はありませんが、倒れた際にできた傷だと思います……二〇代くらいの女の方です」