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傷の甘味

作者: 文星 結
掲載日:2026/05/16

みかんは傷がある方が甘い。

おじいちゃんは東京に上京して上手くいかない私にそう言った。


二十一歳の私は、もう子供ではなかった。少なくとも、戸籍上は大人で、鏡に映る顔も、どこか尖った大人のそれになっていた。就職浪人という名の空白を埋めるために上京したはずだったのに、三年目の今も、アルバイトと派遣を転々とし、狭いワンルームで息を潜めている。希望はいつしか「最低限の生存」にすり替わっていた。


祖父の言葉を思い出すのは、そんな夜だった。実家から送られてきた段ボールに詰まったみかんを剥きながら、指先が止まる。表面に黒い斑点があり、皮が少し凹んでいる。傷のあるやつを選んで、口に運ぶ。確かに、甘い。酸味が少なく、汁気が多い。理不尽だ、と私は思う。完璧な見た目のものは酸っぱくて、傷だらけのものが甘いなんて。人生も同じようなものなのかもしれないとそんなことを考えていた。


その頃、私は彼と出会った。

彼の名前をここでかくひつようなどないだろう。カフェの常連で、私はそこで週三回のシフトに入っていた。黒縁眼鏡の奥の目はいつも少し疲れていて、注文は決まってアメリカーノのホット。ある雨の午後、店内の客が少なく、彼がカウンターに座ったままぼそりと呟いた。

「いつも傷ついたみかんみたいだね」

突然の言葉に、私は手を止めた。彼は微笑みながら続けた。


「皮が少しよれてる。でも、それを選ぶ客は多いよ。理由はわかんないけど、それが甘いんだろう?」

私は笑った。祖父の言葉をそのまま返されたような気がして、胸の奥がざわついた。それがきっかけだった。私たちは、閉店後の店内で少しずつ話すようになった。


彼は三十歳で、IT系の小さな会社を一人で回しているという。コードを書くのが好きだが、納期に追われ、睡眠を削る日々。昔、大きな企業に勤めていた頃に燃え尽きて、今は「最小限の成功」で満足していると言った。

「人生って、理不尽だよね。努力した分だけ報われるなんて、幻想だ」


彼の言葉は、私の胸に深く刺さった。私は大学で文学を学んだはずなのに、結局は何も掴めず、ここにいる。夢は小説を書くことだったが、原稿は三枚で止まり、自信を失くした。東京は、才能ある者を選別する残酷な篩のように感じられた。完璧を装う者だけが生き残り、傷だらけの私は、ただ転がされている。


彼は、そんな私を「面白い」と呼んだ。傷を隠さないところがと笑って

私たちは、夜の街を歩いた。渋谷の雑踏を避け、代々木公園のベンチで缶ビールを分け合った。彼の過去を聞いた。二十代半ばに結婚を考えた相手がいたが、相手の親が「安定」を求め、彼の小さな起業を許さなかった。別れの後、彼は一年間、ほとんど家から出なかったという。


左腕の内側には薄い線状の痕があった。事故だと彼は笑った。でも、その笑顔に裏があるのは丸見えだった。

「君は、まだ若いのに、随分と諦めが早いね」

ある夜彼が言った。私は反論した。

「諦めじゃない。現実を知っただけ。みかんみたいに、傷が増えれば甘くなるって、本当かな。増えすぎたら腐るだけじゃない?」


彼は黙って私の手を握った。冷たい指だった。その夜私たちは彼の部屋に行った。狭いマンションの一室。デスクの上に三台のモニターが並び、床には本が積まれていた。文学書と技術書が混在する、不思議な空間。キスは自然で、抱擁は優しかった。でも、どこか遠慮がちだった。彼は私の背中に触れながら囁いた。

「君を傷つけたくない。僕はもう誰かを完璧に愛せる自信がない」


その言葉が、私をさらに傷つけた。理不尽だ。好きになるタイミングも、傷の深さも、コントロールできない。二十一歳の私は、性急に大人になろうとして、かえって脆くなっていた。セックスは甘くはなかった。むしろ、互いの傷を確かめ合うような、痛みを伴うものだった。終わった後、彼は天井を見つめながら言った。


「人生は、こうも不条理なんだよ。努力しても、運が悪けりゃ終わり。才能があっても、タイミングが悪けりゃ埋もれる。愛したくても過去の傷が邪魔をする」

私は泣かなかった。代わりに、祖父のみかんを思い浮かべた。傷があるからこそ、糖分を溜め込むのかもしれない。表面が綺麗なものは中身が薄い。人間も同じだ。

完璧に見える人は、往々にして空虚だ。


それから二ヶ月が過ぎた。

冬が深まる頃、彼の会社に大きな案件が入った。徹夜が続き、私と会う時間は減った。私は相変わらずのアルバイト生活。原稿はまた三枚で止まった。ある日、彼からメッセージが来た。

「ごめん。少し距離を置きたい。君を巻き込みたくない」


理不尽。突然の離れの言葉に、私は怒りより深い諦めを感じた。夜のコンビニで、傷だらけのみかんを買った。剥いて食べながら頬を濡らした。甘かった。でも、喉に詰まるような甘さだった。


一人で過ごすクリスマス。東京のイルミネーションは、他人事のように輝いていた。私はノートパソコンを開き、久しぶりに文章を打った。タイトルは「傷の甘味」。祖父の言葉から始まり、東京での孤独、彼との出会いと別れを、淡々と綴った。サルトルやカミュの不条理を借りて、自分の小さな痛みを大きく見せようとした。二十一歳の、ひどく知的な自己憐憫。


完成した原稿を、ネットの文学投稿サイトに上げた。反応は意外に多かった。「共感する」「深い」「同じように傷ついている」と。ある読者から、DMが来た。三十代の女性編集者で、「書籍化を検討したい」と。

私は笑った。傷だらけの今だからこそ、甘くなったのかもしれない。彼との時間は、痛みを伴ったが私に言葉をくれた。彼の傷は、私の傷を刺激し深くした。でも、それゆえに私は少しだけ、甘くなった。


春が来た頃、彼から連絡があった。案件が一段落した、と。会おうと言われた。私は迷ったが会いたかった。会わずにはいられなかった。いつものカフェで。彼は少し瘦せ、眼鏡の奥の目は以前より澄んでいた。

「君の小説、読んだよ。ネットで話題になってる」

私は驚いた。彼は続けた。

「僕の傷を、君はちゃんと書いてくれた。ありがとう。でも、僕はまだ君を幸せにできる自信がない」

私は首を振った。


「幸せなんて求めていない。ただ、傷を共有できる人が欲しい。人生は理不尽よ。でも、おじいちゃんの言う通り、傷がある方が、甘いのかもしれない」

彼は黙って、私の手を取った。指は以前より温かかった。


私たちは、再び歩き始めた。代々木公園の桜はまだ蕾で、冷たい風が頰を撫でる。完璧な恋など、最初から望んでいなかった。傷だらけの関係、危うい均衡。でも、その危うさの中にこそ確かに甘さがある。刺激と言うのだろうか。彼の指の感触、眼鏡の奥で揺れる小さな光、私の胸に残る微かな痛み。すべてが、互いの傷を優しく刺激する。


夜の空はまだ少し肌寒く、街灯の下で彼の影が長く伸びる。私は彼の腕にそっと寄り添いながら、思う。

二十一歳の私は、もう子供ではない。理不尽な世界を、ただ嘆くだけでは終われない。傷を数え、痛みを味わい、それでも歩き続ける。みかんのように、表面が歪み、皮が破れても、内側に甘さを蓄えていく。腐るかもしれない。でも、甘くなる可能性も、確かにここにある。


東京の空は、今日も曇っている。

いつも通り傷ついたみかんは甘い。その甘さを、ゆっくりと噛み締めながら、私は生きていく。

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