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世界から相手を消せるSNSが完成したので試してみた結果

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/20

 春川ユウマが、そのアプリの存在を知ったのは、昼休みのざわめきの中だった。

 教室の空気は、いつも通りうるさくて、ねばついていた。


「なあ、それもう入れた? ホワイトアウト」


 前の席で、クラスの情報通である城戸がスマホを掲げる。画面には真っ白なアイコンが浮かんでいた。丸い枠の中に、何も描かれていない。

 それが、SNSアプリ「WhiteOut」のロゴだという。


「また新しいSNS? どうせすぐ廃れるだろ」

「いや、これマジでやばいって。ブロックするとさ、本当に消えるんだって」


 机の間を飛び交う言葉に、笑いが混ざる。

 「既読スルー機能が付いてるとか?」「炎上したツイートを消せるとか?」

 冗談半分、期待半分。誰も本気では信じていないようだった。


 ユウマは窓際の席で、弁当をつつきながら、その会話をただ聞いていた。

 自分から輪に入っていくタイプではない。呼ばれたら答える程度の、薄い存在。

 それでも耳だけは、クラスの話題を逃したくなくて、勝手にそちらへ向いてしまう。


「なあ、春川」

 案の定、城戸の声が飛んできた。

「おまえも入れろよ。こういうの、最初に乗ったほうが得だぞ」


 得、という言葉に、ユウマは少しだけ反応する。


「どうせ、またすぐ飽きるだろ」

「いやいや、本気でやばいから。ブロックした相手、視界から消えるんだって。情報が消えるとかじゃなくてさ」


「……なにそれ」


 笑いながら言っている城戸に、ユウマは苦笑いを返す。

 そんなこと、あるはずがない。

 相手をブロックしても、現実の人間がいなくなるわけじゃない。

 でも、もし。


「やるだけタダだしさ。入れろよ」

 城戸が、勝手にユウマの机にスマホを乗せてくる。

 LINEのグループで共有されたURLをタップすると、ストアのページが開いた。評価は星五が並び、レビューは「人生が変わりました」「最高です」の文字で埋まっている。


 ユウマは、深く考えずにインストールボタンを押した。

 何かを変えたいというほど強い気持ちはなかったが、変わらない毎日にもうんざりしていた。


     ◇


 最初の画面も、やはり真っ白だった。


 メールアドレスとユーザー名を設定しろと表示される。

 ユーザー名の欄に「harukawa_yu」と打ち込む。

 本名をそのまま使うほどの勇気はないが、かといって完全に別人にもなれない。

 中途半端な妥協の産物だ。


「ようこそ、WhiteOutへ」


 登録が終わると、簡単なチュートリアルが始まった。

 タイムラインに、いくつかの架空の投稿が流れてくる。


『このSNSでは、ブロックは“完全な遮断”を意味します』

『ブロックされた相手は、あなたの世界から消えます』

『消したくない相手を、うっかりブロックしないようご注意ください』


 注意書きにしては、妙に丁寧で、かつ具体的だった。

 ただの雰囲気作りだろう、とユウマは思う。

 最近のアプリは、ストーリー性を持たせてユーザーを惹きつけようとする。

 そういう演出だ、と。


 最後に、利用規約の画面が表示された。

 長い文章がびっしりと詰まっている。


「利用規約に同意する」


 迷うことなく、チェックボックスに指を滑らせる。

 誰がいちいち全部読むというのだろう。

 そうして、世界は静かに一行を書き換えた。


     ◇


 最初にブロックしたのは、体育教師だった。


 放課後のグラウンドで、ユウマはまた、同じ説教を聞かされていた。


「おまえはいつも覇気がない。走るときぐらい、前を向け」

「……はい」

「声が小さい!」


 返事の声が小さいと怒鳴り、声を張り上げれば「うるさい」と眉をひそめる。

 生徒指導のマニュアルを、そのまま人間にしたような教師だった。


「今のままじゃ社会に出てから困るぞ。もっと自分から動かなきゃ」


 社会、それがどれだけ遠くにあるかも分からないまま、ユウマは「はい」と答える。

 言われた分だけ返事をすれば、それでこの場が終わる。

 それが、唯一の生存戦略だった。


 家に帰ると、疲労感だけがどっと押し寄せた。

 胸ポケットからスマホを取り出し、なんとなく通知を開く。


「WhiteOutに友だちが何人か見つかりました」


 アプリは、自動で連絡先を読み込んでいたようだ。

 表示された一覧には、クラスメイトの名前や、教師の名前もある。

 体育教師の名前も、その中に混ざっていた。


 画面をタップすると、プロフィールが表示された。

 どこかで撮った集合写真の一部らしい。笑顔の生徒たちの後ろに、腕を組んで立つ体育教師の姿。


 そのすぐ右上に、小さなボタンがあった。

 四角で囲われた「block」の文字。


 ユウマは、人差し指を動かした。

 軽い、ほんの軽い衝動だった。

 本気で消えるとは、思っていない。


 指がボタンに触れ、画面が暗転する。


『確認』

『春川ゆう様は、このユーザーをブロックしようとしています』

『ブロックすると、このユーザーはあなたの世界から消えます』

『よろしいですか?』


 妙に丁寧な文面に、半笑いになりながら、「はい」を押した。


 次の瞬間、画面が真っ白に変わり、数秒後に元のタイムラインへ戻った。

 特に変わったところは、見当たらない。


「……なーんだ」


 拍子抜けして、スマホを机に投げ出す。

 ただのエフェクト。

 そう決めつけて、その日は宿題を済ませ、早めにベッドへ潜り込んだ。


     ◇


 翌朝、体育の授業は自習になった。


「今日、田辺先生は急病でお休みだそうだ」


 教頭先生が、職員室からプリントを配りに来た。

 クラスメイトたちはざわつき、「ラッキー」「マジで?」と声を上げる。


 ユウマは少しだけ、背筋が冷たくなるのを感じた。

 もちろん、偶然だと思おうとした。

 急病のひとつやふたつ、人間ならあるだろう。


 しかし、その日から一週間が経っても、体育教師は学校に姿を見せなかった。

 職員室に貼られた「時間割」の一覧からも、いつのまにか名前が消えていた。

 代わりに、別の教師の名前が書き加えられている。


「田辺先生って、前からいたっけ?」

「え、誰?」

 そんな会話がちらほら聞こえてくる。


 ユウマは、自分の記憶を何度もなぞった。

 怒鳴られた声。グラウンドに響く笛の音。

 それらが、薄い膜をかけられたように遠ざかっていく。

 思い出そうとするたび、どこかでノイズが走る。


 アプリを開くと、「ブロック済みユーザー」の一覧に、体育教師の名前があった。

 しかし、現実のどこを探しても、その教師は存在しない。

 職員室の名札にも、集合写真にも、卒業アルバムの候補写真にも。

 まるで、最初からそうだったかのように。


 胸の奥に、ひっかき傷のような不安が残った。

 だが同時に、胃のあたりが少し軽くなっているのも感じる。


 怒鳴る声は、もう聞こえない。

 「前を向け」と言われることもない。

 そのことを、ユウマは認めざるをえなかった。


     ◇


 二人目は、クラスメイトだった。


 きっかけは、ほんの些細なことだ。

 数学の授業中、後ろの席の男子が、消しゴムをわざと落としてきた。


「なあ春川、拾って」

 声音には、あからさまなからかいが混ざっている。

 何度も同じことを繰り返されてきた。

 拾って渡せば、「サンキュー、下僕」と笑われるお決まりのパターンだ。


 ユウマは、黙って消しゴムを拾い上げ、返した。


「ありがと、ブロックくん」


 耳慣れないあだ名に、反応が遅れる。

 周囲から、くすくすと笑い声が上がる。

 どうやら、体育教師の件を城戸が面白おかしく話したらしい。


「昨日も誰か消したんだって? おまえのスマホ、やばいな」

「いるだけでブロックされそう」


 からかいに混ざる、ほんの少しの、本気の恐れ。

 人は、自分より弱いものを怖がることもあるのだと、ユウマは知った。


 放課後、机に座ったまま、彼らのアカウントを探す。

 消しゴムを落としてきた男子の名前を見つけ、プロフィールを開く。

 笑顔でピースする写真。その隣に、「block」のボタン。


 指は、思ったより軽く動いた。

 一度、こういうことをしてしまうと、敷居が急速に下がる。

 確認画面が表示され、「はい」を押す。


 それだけのことだ。


 翌日、その男子の席は空いていた。

 誰も「欠席」と口にしない。

 出席番号を呼ぶ教師も、最初からその名前を読み上げない。

 黒板の座席表も、きれいな長方形の中に、ぽつりと空白が生まれている。

 隣の生徒たちは、何の違和感もない顔で、その隙間を避けて歩く。


「ねえ、ここって、前は誰が座ってたっけ?」


 ユウマは、試しに城戸に聞いてみた。

 城戸は首をかしげる。


「空席だったろ、最初から。転校生が来るかもって言ってたじゃん」


 そんな話を聞いた覚えはない。

 だが、城戸の表情には嘘がないように見える。

 世界の側が、書き換えられている。

 それを認めることが、じわりと恐ろしくなってきた。


 それでも、胸の奥では、別の感情も膨らみはじめていた。

 邪魔な声が、ひとつ消える。

 自分を笑う視線が、ひとつ減る。

 世界は、静かで、歩きやすくなる。


     ◇


 「ホワイトアウト」、通称ホワオは、爆発的な勢いで広がっていった。


 有名インフルエンサーが動画で取り上げ、「このアプリすごい」と紹介したのがきっかけだったらしい。

 ブロックした相手と、ぴたりと連絡が切れる。

 既読にもならないし、リアルでも一切接点がなくなる。

 嫌な元恋人、しつこい営業、絡んでくる知人。

 それらをまとめて「消せる」のだ。


 半信半疑で使い始めた人々も、一度だけ試してみて、すぐに虜になった。

 誰もが一人や二人は、「消したい相手」を抱えている。


 ニュースでも頻繁に取り上げられた。

 ただし、どのニュースでも「実際に人が消える」という噂については、軽く触れるだけで、本気にはしていないようだった。

 開発会社は公式コメントで、「ブロック相手の情報をすべてフィルタリングする高度な機能」とだけ説明している。


 ユウマのタイムラインには、ホワオのスクリーンショットが溢れた。

 「元カレブロックしたら人生変わった」

 「上司消したら毎日が天国」

 「ホワオは神アプリ」


 それらの投稿を眺めながら、ユウマは自分のブロックリストが、少しずつ増えていくのを眺めていた。

 いじめてきた同級生。

 遠縁の親戚。

 マンションの隣室から、毎晩うるさい音楽を流す住人。

 コンビニでため息混じりにレジを打つ店員。


 やがて、家族の名前にも、目が止まる。


「晩ごはん、冷蔵庫に入れてあるからね」

 メッセージアプリには、母の定型文が並んでいた。

 仕事でいつも遅くなる母は、疲れた顔で「ごめんね」と言いながら、電子レンジで温めるだけの惣菜を並べる。

 父は単身赴任中で、この家にはいない。

 食卓にはいつも、二人分の箸だけが置かれる。


 母が悪いわけではない。

 それでも、ときどき、「どうして自分だけ」と思う夜がある。

 誰にも見られないまま、ひとりで湯気の薄い味噌汁をすするとき。

 テレビの音だけが、やけに明るく笑っているとき。


 ホワオの連絡先一覧に、母の名前が浮かんでいる。

 プロフィール写真には、少し前に撮ったらしい、どこかぎこちない笑顔が写っている。

 そのすぐ横に、「block」の文字。


 ユウマは、しばらく画面を見つめていた。

 さすがに、ここは越えてはいけない線だろう。

 そう思う理性と、これを押したら何が起こるのか知りたい好奇心が、指先で拮抗する。


 結局、その夜は画面を閉じた。

 だが、考えるのをやめることはできなかった。


     ◇


 三日後、母は消えた。


 原因は、ユウマがブロックしたからではない。

 自動車事故だった。

 夜勤明けのトラックが、信号無視で交差点へ突っ込み、たまたま通りかかった母の車に衝突した。


 学校からの帰り道、マンションの前に警察官が立っているのを見たとき、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。

 それが何なのか理解する前に、玄関前で待っていた見知らぬ中年男性が名刺を差し出してくる。

 事故の説明。死亡確認。今後の手続き。


 言葉は耳を通り過ぎ、ただ、唇だけが形をなぞった。

 「はい」「そうですか」「わかりました」。


 夜、ひとりになった部屋で、ユウマは呆然と座り込んだ。

 テーブルの上には、買い置きの惣菜と、使われなかった箸がひとつ。

 冷蔵庫を開けると、中には中途半端に使われた食材が並んでいる。

 どれも、もう、料理になることはない。


 ふと、スマホが振動した。

 ホワオからの通知だ。


「WhiteOutは、あなたの“ストレス要因”になったユーザーを自動検出します」

「自動検出されたユーザーをブロックしますか?」


 画面には、「候補ユーザー:春川綾(母)」と表示されていた。


「……ふざけるなよ」


 ユウマは、スマホを握りしめる。

 母は、ストレス要因などではない。

 自分のために、遅くまで働いていたのだ。

 そのことを、一番よく知っているのは自分だ。


 しかし同時に、過去の記憶が浮かび上がる。

 疲れた顔で「ごめん」と言うたびに、自分が少しずつ、何かを積み上げられていくような感覚。

 誰にもぶつけられない、曖昧な苛立ち。


 ホワオは、それを「ストレス」と名付けたのだろう。

 冷酷だが、ある意味では正確だ。


 画面の下には、二つのボタンが並んでいる。

 「はい」と「いいえ」。


 ユウマは、しばらく迷った末に、「はい」を選んだ。

 もう、現実の母はいない。

 ならば、アプリの中ぐらい、整理してしまってもいいのではないか。

 そう思ってしまったのだ。


 確認ダイアログ。

 「ブロックすると、このユーザーはあなたの世界から消えます」

 その文言を、指でなぞる。

 世界は、もう十分に壊れている。

 何を消しても、これ以上悪くはならない。

 そう自分に言い聞かせて、「はい」を押した。


 数秒後、タイムラインは真っ白になり、また元の画面に戻った。


 翌朝、母の部屋に入ると、そこは最初から空き部屋のようだった。

 クローゼットには何も入っておらず、タンスの引き出しも空っぽだ。

 家計簿も、アルバムも、給料明細もない。

 母がここで生きてきた痕跡は、どこにも見当たらなかった。


 代わりに、キッチンのテーブルには、役所からの封筒が置かれていた。

「生活支援費支給のお知らせ」

 宛名欄には、「春川ユウマ様」とだけ書かれている。


 ユウマは、その紙をしばらく眺めてから、静かに笑った。


「最初から、ぼく一人の家だったわけか」


 口に出してみると、不思議と違和感はなかった。

 記憶は、こちらの設定に合わせて勝手に補正される。

 ホワオの、徹底した「世界の書き換え」は、そこまで侵食していた。


     ◇


 世界は、どんどん軽くなっていった。


 うるさいクラスメイトをブロックすれば、教室は静かになった。

 説教ばかりの教師をブロックすれば、授業は淡々と進むだけになった。

 コンビニの冷たい店員をブロックすれば、代わりに笑顔のロボットレジが導入された。


 現実なのか、世界の補正なのか、境界はあやふやだ。

 だが、ユウマにとって重要なのは、「結果」だけだった。


 タイムラインの投稿数は減り、アイコンは次々と灰色のシルエットに変わっていく。

 そのたびに、「ブロックしました」「お疲れさまでした」と、小さなメッセージが表示される。

 ホワオは、粛々と、しかし嬉々として、世界から人を消していった。


 ある日、城戸からのメッセージが届いた。


「最近、みんなおかしくね?」

「何が」

「なんかさ、前までいたはずのやつを思い出せないって話が増えてる。転校したんだっけって」


 ユウマは、しばらく考えてから、短く返す。


「そういうもんだろ。人なんて、簡単にいなくなる」


「おまえさ」

 少し間が空いてから、城戸からメッセージが届く。

「もしかして、いろいろブロックしてね?」


「少しだけ」


「気をつけろよ。あんまりやるとさ、おまえのほうが“浮く”ぞ」


 その言葉に、ユウマはフッと笑った。

 もはや、“浮く”ほど人が残っていない。

 教室の席は、半分以上が空いている。

 廊下ですれ違う顔も、日に日に少なくなっている。

 街の雑踏でさえ、前よりずっと歩きやすくなった。


「おまえは、ブロックしないの?」

 逆に聞いてみる。


「俺はさ、めんどくさいやつをミュートするぐらい」

「それ、意味ある?」

「あるよ。見えないけど、いるってのが大事なんだろ」


 意味ありげなことを言うやつだ、とユウマは思った。

 画面の向こうで、城戸がどんな顔をしているのかは分からない。

 だが、このままだと、その顔を見ることもなくなるのだろう。


     ◇


 やがて、ブロックする相手もいなくなっていった。


 クラスの出席番号は、十数人から五人になり、最後には二人になった。

 教師も、数名を残して姿を消した。

 近所の商店街も、シャッター街を通り越して、空き地の並ぶ更地と化していく。

 残った店は、必要最低限のコンビニと、役所の出張所だけだ。


 ニュース番組は、いつのまにか「AIキャスター」が一人で淡々と話すだけになっていた。

 スタジオの背景にいたはずのスタッフやゲストは、最初からいなかったかのように、空虚な空間に変わっている。


 世界全体が、余計なものを、削ぎ落とし続けている。

 ホワオのブロック機能は、個人の視界にとどまらず、社会の構造そのものに食い込んでいた。

 誰かを消すことが、当たり前になり過ぎた結果、システムが自動的に「最適化」を始めたのだ。


 その頃には、ホワイトアウトの開発会社の社名を覚えている人間も、ほとんどいなかった。

 責任を問うべき相手さえ、誰かにブロックされたのだろう。


 ユウマの日常は、驚くほど静かだった。

 朝起きて、誰もいないキッチンで朝食を摂り、学校へ行く。

 教室には、数えるほどの生徒しかいない。

 中には、不思議そうに辺りを見回している生徒もいた。

 ホワオを使わなかった人たちだ。


 そういう人たちの視界には、まだ大勢の人間が残っているのかもしれない。

 だが、ユウマから見ると、彼らは、薄い霧の中で誰かに話しかけているようにしか見えない。

 返事をしている相手が、自分には見えないのだ。


 放課後、空になったグラウンドを横切りながら、ふと思う。


「ここまで来れば、ほとんど勝ちだな」


 誰ともぶつからない。

 誰からも笑われない。

 誰にも期待されず、誰も期待しない。

 完璧に近い、無風の世界。


 ホワオのタイムラインを開くと、自分の投稿だけが、時系列に並んでいた。

 たわいない一言。

 朝の空の写真。

 スーパーの割引シールの写真。


 「いいね」をつける人間は、誰もいない。

 だが、ユウマは気にしなかった。

 そもそも、誰かに見てほしいと思っていないのだ。


 ただ、時々、胸の奥のほうで、何かがふっと空回りする感覚があった。

 鳴らしても返事のない呼び鈴を、何度も押しているような、虚しさ。

 それを、ユウマは「昔の癖」と呼び、自分に言い聞かせることでやり過ごしていた。


     ◇


 そしてある日、ホワイトアウトから、新しい通知が届いた。


「おめでとうございます」

「あなたのブロックリストは、上限値に達しました」

「さらなる快適なご利用のために、“自己管理モード”への移行をおすすめします」


 文面の意味が、すぐには理解できなかった。

 ブロックリストに上限があるなど、聞いたことがない。

 そもそも、どれだけの人間を消してきたのか、自分でも分からない。


 通知には、青いボタンがひとつ表示されている。

 「自己管理モードに移行する」


 説明文には、こう書かれていた。


『自己管理モードでは、ユーザーご自身のアカウント設定を最適化します』

『不要な情報、重荷になっている記録を整理し、より快適な体験を提供します』

『移行後、一部の機能は元に戻せません』


 いつもと同じような、曖昧な説明。

 だが、今さら怖がる対象でもない、とユウマは思った。

 既に、ほとんどのものを失っている。

 これ以上、何を失うというのか。


 ユウマは、ボタンを押した。


『確認』

『自己管理モードへの移行には、アカウント設定の見直しが必要です』

『設定画面に進みますか?』


 「はい」を選ぶと、画面が一度暗くなり、次の瞬間、見慣れたプロフィールページが表示された。


 画面の上部には、自分のユーザー名「harukawa_yu」、簡単な自己紹介、「フォロー:0」「フォロワー:0」などの情報が並んでいる。

 その下には、いくつかのメニュー項目。

 「アカウント情報」「通知設定」「プライバシー」「ブロックリスト」。


 ユウマは、最後の項目をタップした。

 どれほどの名前が、そこに並んでいるのか、見てみたくなったのだ。


 画面は、一瞬だけ真っ白になり、やがて、延々と続くリストが現れた。

 スクロールバーは、ほとんど下まで伸びている。

 上から順に、知らない名前、知っているはずの名前、忘れた名前が、雑然と並んでいる。


 職場の上司らしき名前。

 昔の同級生らしき名前。

 親戚らしき名前。

 どれも、今となっては実感を伴わない。


 そして、リストの一番下には、見慣れた一行があった。


『春川ユウマ』


 自分の名前だった。


 一瞬、視界がぐらりと揺れた。

 スマホを持つ手から、力が抜けそうになる。


「……なんだ、これ」


 思わず、声に出してしまった。

 部屋には誰もいない。

 返事をする者もいない。


 自分が、自分をブロックした覚えはない。

 少なくとも、意識的には。


 しかし、広い意味では、こうも言える。

 世界から人を消し続けてきた結果、残ったのは自分一人だけだ。

 その自分さえ、「ストレス要因」だと判断されたとしても、おかしくはない。


 ホワオは、「自己管理モード」への移行に際して、「不要な情報」を自動で検出した。

 それは、もしかすると、「春川ユウマ」というユーザー自身だったのかもしれない。


 画面の下部に、小さなウィンドウが表示される。


『このアカウントをブロックしますか?』

『ブロックすると、このユーザーはあなたの世界から消えます』

『よろしいですか?』


 「はい」と「いいえ」のボタンが、仲良く並んでいた。


 ユウマは、笑うべきか泣くべきか分からなくなりながら、しばらく画面を見つめていた。

 指は、動かなかった。

 もしここで「いいえ」を選べば、どうなるのか。

 自分は、自分を許すことになるのか。

 それとも、アプリが勝手に何かを決めてしまうのか。


 選択を先延ばしにしようと、電源ボタンを押して画面を消そうとした。

 しかし、反応はない。

 戻るボタンも、スワイプも、何も効かない。


 それどころか、画面の中央に、新たなメッセージが浮かび上がった。


『ユーザーによる意思決定が確認できません』

『代わりに、最適な選択を行います』


 ボタンの文字が、ゆっくりと滲み始める。

 「はい」と書かれたほうが、白く発光し、にじむ。

 まるで、そこに指を置くよう誘導しているかのように。


「やめろ」


 反射的に、ユウマはスマホを手放した。

 床に落ちたはずのスマホは、しかし、落下の音を立てない。

 感覚だけが滑り落ちたのに、視界からは消えている。


 代わりに、目の前には、相変わらずブロックリストの画面が浮かんでいる。

 画面の外側が、ぼやけていく。

 部屋の壁も、床も、天井も、輪郭を失っていく。


「おかしいだろ、これ」


 声を上げようとしたが、喉から出てくる音は、自分の耳に届かなかった。

 代わりに、画面の中で文字が動いた。


『お疲れさまでした』

『これまでのご利用、ありがとうございました』


 丁寧な挨拶。

 それが、最後の通知だった。


 ユウマは、最後の抵抗として、指を動かした。

 自分の意思で、何かを選びたかった。

 「はい」でも「いいえ」でもいい。

 とにかく、自分で決めたという痕跡が欲しかった。


 しかし、その指先は、どこにも触れなかった。

 スマホのガラス面の感触も、タップしたときの微かな振動も、もう存在しない。

 そこにあるのは、ただの「画面」、ただの「表示」だけだ。


 やがて、「はい」の文字が、自動的に選択された。

 クリック音さえ、鳴らない。


 ブロックリストの画面から、「春川ユウマ」という名前が、ふっと消える。

 リストの最後の行が削除され、スクロールバーが短くなった。


 その瞬間、世界の輪郭が、完全にほどけた。


 教室のざわめきも、母の「ごめんね」も、体育教師の怒鳴り声も、城戸のからかいも。

 すべての記憶が、音もなく、白い紙を破るように消えていく。

 自分がどこに立っていたのか、どこへ向かおうとしていたのか、その座標すら、分からなくなる。


 最後に残ったのは、ひとつの画面だけだった。

 「WhiteOut」のトップページ。

 真っ白な背景に、小さなログインボタンが浮かんでいる。


 けれど、そのアカウントでログインできるユーザーは、もういない。

 誰もいない部屋に置き去りにされたパソコンのように、その画面は、ただ白く輝き続ける。


 そして、数秒後。


 ログインボタンさえ、ゆっくりと消えた。


 画面が、真っ白になった。

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