世界から相手を消せるSNSが完成したので試してみた結果
春川ユウマが、そのアプリの存在を知ったのは、昼休みのざわめきの中だった。
教室の空気は、いつも通りうるさくて、ねばついていた。
「なあ、それもう入れた? ホワイトアウト」
前の席で、クラスの情報通である城戸がスマホを掲げる。画面には真っ白なアイコンが浮かんでいた。丸い枠の中に、何も描かれていない。
それが、SNSアプリ「WhiteOut」のロゴだという。
「また新しいSNS? どうせすぐ廃れるだろ」
「いや、これマジでやばいって。ブロックするとさ、本当に消えるんだって」
机の間を飛び交う言葉に、笑いが混ざる。
「既読スルー機能が付いてるとか?」「炎上したツイートを消せるとか?」
冗談半分、期待半分。誰も本気では信じていないようだった。
ユウマは窓際の席で、弁当をつつきながら、その会話をただ聞いていた。
自分から輪に入っていくタイプではない。呼ばれたら答える程度の、薄い存在。
それでも耳だけは、クラスの話題を逃したくなくて、勝手にそちらへ向いてしまう。
「なあ、春川」
案の定、城戸の声が飛んできた。
「おまえも入れろよ。こういうの、最初に乗ったほうが得だぞ」
得、という言葉に、ユウマは少しだけ反応する。
「どうせ、またすぐ飽きるだろ」
「いやいや、本気でやばいから。ブロックした相手、視界から消えるんだって。情報が消えるとかじゃなくてさ」
「……なにそれ」
笑いながら言っている城戸に、ユウマは苦笑いを返す。
そんなこと、あるはずがない。
相手をブロックしても、現実の人間がいなくなるわけじゃない。
でも、もし。
「やるだけタダだしさ。入れろよ」
城戸が、勝手にユウマの机にスマホを乗せてくる。
LINEのグループで共有されたURLをタップすると、ストアのページが開いた。評価は星五が並び、レビューは「人生が変わりました」「最高です」の文字で埋まっている。
ユウマは、深く考えずにインストールボタンを押した。
何かを変えたいというほど強い気持ちはなかったが、変わらない毎日にもうんざりしていた。
◇
最初の画面も、やはり真っ白だった。
メールアドレスとユーザー名を設定しろと表示される。
ユーザー名の欄に「harukawa_yu」と打ち込む。
本名をそのまま使うほどの勇気はないが、かといって完全に別人にもなれない。
中途半端な妥協の産物だ。
「ようこそ、WhiteOutへ」
登録が終わると、簡単なチュートリアルが始まった。
タイムラインに、いくつかの架空の投稿が流れてくる。
『このSNSでは、ブロックは“完全な遮断”を意味します』
『ブロックされた相手は、あなたの世界から消えます』
『消したくない相手を、うっかりブロックしないようご注意ください』
注意書きにしては、妙に丁寧で、かつ具体的だった。
ただの雰囲気作りだろう、とユウマは思う。
最近のアプリは、ストーリー性を持たせてユーザーを惹きつけようとする。
そういう演出だ、と。
最後に、利用規約の画面が表示された。
長い文章がびっしりと詰まっている。
「利用規約に同意する」
迷うことなく、チェックボックスに指を滑らせる。
誰がいちいち全部読むというのだろう。
そうして、世界は静かに一行を書き換えた。
◇
最初にブロックしたのは、体育教師だった。
放課後のグラウンドで、ユウマはまた、同じ説教を聞かされていた。
「おまえはいつも覇気がない。走るときぐらい、前を向け」
「……はい」
「声が小さい!」
返事の声が小さいと怒鳴り、声を張り上げれば「うるさい」と眉をひそめる。
生徒指導のマニュアルを、そのまま人間にしたような教師だった。
「今のままじゃ社会に出てから困るぞ。もっと自分から動かなきゃ」
社会、それがどれだけ遠くにあるかも分からないまま、ユウマは「はい」と答える。
言われた分だけ返事をすれば、それでこの場が終わる。
それが、唯一の生存戦略だった。
家に帰ると、疲労感だけがどっと押し寄せた。
胸ポケットからスマホを取り出し、なんとなく通知を開く。
「WhiteOutに友だちが何人か見つかりました」
アプリは、自動で連絡先を読み込んでいたようだ。
表示された一覧には、クラスメイトの名前や、教師の名前もある。
体育教師の名前も、その中に混ざっていた。
画面をタップすると、プロフィールが表示された。
どこかで撮った集合写真の一部らしい。笑顔の生徒たちの後ろに、腕を組んで立つ体育教師の姿。
そのすぐ右上に、小さなボタンがあった。
四角で囲われた「block」の文字。
ユウマは、人差し指を動かした。
軽い、ほんの軽い衝動だった。
本気で消えるとは、思っていない。
指がボタンに触れ、画面が暗転する。
『確認』
『春川ゆう様は、このユーザーをブロックしようとしています』
『ブロックすると、このユーザーはあなたの世界から消えます』
『よろしいですか?』
妙に丁寧な文面に、半笑いになりながら、「はい」を押した。
次の瞬間、画面が真っ白に変わり、数秒後に元のタイムラインへ戻った。
特に変わったところは、見当たらない。
「……なーんだ」
拍子抜けして、スマホを机に投げ出す。
ただのエフェクト。
そう決めつけて、その日は宿題を済ませ、早めにベッドへ潜り込んだ。
◇
翌朝、体育の授業は自習になった。
「今日、田辺先生は急病でお休みだそうだ」
教頭先生が、職員室からプリントを配りに来た。
クラスメイトたちはざわつき、「ラッキー」「マジで?」と声を上げる。
ユウマは少しだけ、背筋が冷たくなるのを感じた。
もちろん、偶然だと思おうとした。
急病のひとつやふたつ、人間ならあるだろう。
しかし、その日から一週間が経っても、体育教師は学校に姿を見せなかった。
職員室に貼られた「時間割」の一覧からも、いつのまにか名前が消えていた。
代わりに、別の教師の名前が書き加えられている。
「田辺先生って、前からいたっけ?」
「え、誰?」
そんな会話がちらほら聞こえてくる。
ユウマは、自分の記憶を何度もなぞった。
怒鳴られた声。グラウンドに響く笛の音。
それらが、薄い膜をかけられたように遠ざかっていく。
思い出そうとするたび、どこかでノイズが走る。
アプリを開くと、「ブロック済みユーザー」の一覧に、体育教師の名前があった。
しかし、現実のどこを探しても、その教師は存在しない。
職員室の名札にも、集合写真にも、卒業アルバムの候補写真にも。
まるで、最初からそうだったかのように。
胸の奥に、ひっかき傷のような不安が残った。
だが同時に、胃のあたりが少し軽くなっているのも感じる。
怒鳴る声は、もう聞こえない。
「前を向け」と言われることもない。
そのことを、ユウマは認めざるをえなかった。
◇
二人目は、クラスメイトだった。
きっかけは、ほんの些細なことだ。
数学の授業中、後ろの席の男子が、消しゴムをわざと落としてきた。
「なあ春川、拾って」
声音には、あからさまなからかいが混ざっている。
何度も同じことを繰り返されてきた。
拾って渡せば、「サンキュー、下僕」と笑われるお決まりのパターンだ。
ユウマは、黙って消しゴムを拾い上げ、返した。
「ありがと、ブロックくん」
耳慣れないあだ名に、反応が遅れる。
周囲から、くすくすと笑い声が上がる。
どうやら、体育教師の件を城戸が面白おかしく話したらしい。
「昨日も誰か消したんだって? おまえのスマホ、やばいな」
「いるだけでブロックされそう」
からかいに混ざる、ほんの少しの、本気の恐れ。
人は、自分より弱いものを怖がることもあるのだと、ユウマは知った。
放課後、机に座ったまま、彼らのアカウントを探す。
消しゴムを落としてきた男子の名前を見つけ、プロフィールを開く。
笑顔でピースする写真。その隣に、「block」のボタン。
指は、思ったより軽く動いた。
一度、こういうことをしてしまうと、敷居が急速に下がる。
確認画面が表示され、「はい」を押す。
それだけのことだ。
翌日、その男子の席は空いていた。
誰も「欠席」と口にしない。
出席番号を呼ぶ教師も、最初からその名前を読み上げない。
黒板の座席表も、きれいな長方形の中に、ぽつりと空白が生まれている。
隣の生徒たちは、何の違和感もない顔で、その隙間を避けて歩く。
「ねえ、ここって、前は誰が座ってたっけ?」
ユウマは、試しに城戸に聞いてみた。
城戸は首をかしげる。
「空席だったろ、最初から。転校生が来るかもって言ってたじゃん」
そんな話を聞いた覚えはない。
だが、城戸の表情には嘘がないように見える。
世界の側が、書き換えられている。
それを認めることが、じわりと恐ろしくなってきた。
それでも、胸の奥では、別の感情も膨らみはじめていた。
邪魔な声が、ひとつ消える。
自分を笑う視線が、ひとつ減る。
世界は、静かで、歩きやすくなる。
◇
「ホワイトアウト」、通称ホワオは、爆発的な勢いで広がっていった。
有名インフルエンサーが動画で取り上げ、「このアプリすごい」と紹介したのがきっかけだったらしい。
ブロックした相手と、ぴたりと連絡が切れる。
既読にもならないし、リアルでも一切接点がなくなる。
嫌な元恋人、しつこい営業、絡んでくる知人。
それらをまとめて「消せる」のだ。
半信半疑で使い始めた人々も、一度だけ試してみて、すぐに虜になった。
誰もが一人や二人は、「消したい相手」を抱えている。
ニュースでも頻繁に取り上げられた。
ただし、どのニュースでも「実際に人が消える」という噂については、軽く触れるだけで、本気にはしていないようだった。
開発会社は公式コメントで、「ブロック相手の情報をすべてフィルタリングする高度な機能」とだけ説明している。
ユウマのタイムラインには、ホワオのスクリーンショットが溢れた。
「元カレブロックしたら人生変わった」
「上司消したら毎日が天国」
「ホワオは神アプリ」
それらの投稿を眺めながら、ユウマは自分のブロックリストが、少しずつ増えていくのを眺めていた。
いじめてきた同級生。
遠縁の親戚。
マンションの隣室から、毎晩うるさい音楽を流す住人。
コンビニでため息混じりにレジを打つ店員。
やがて、家族の名前にも、目が止まる。
「晩ごはん、冷蔵庫に入れてあるからね」
メッセージアプリには、母の定型文が並んでいた。
仕事でいつも遅くなる母は、疲れた顔で「ごめんね」と言いながら、電子レンジで温めるだけの惣菜を並べる。
父は単身赴任中で、この家にはいない。
食卓にはいつも、二人分の箸だけが置かれる。
母が悪いわけではない。
それでも、ときどき、「どうして自分だけ」と思う夜がある。
誰にも見られないまま、ひとりで湯気の薄い味噌汁をすするとき。
テレビの音だけが、やけに明るく笑っているとき。
ホワオの連絡先一覧に、母の名前が浮かんでいる。
プロフィール写真には、少し前に撮ったらしい、どこかぎこちない笑顔が写っている。
そのすぐ横に、「block」の文字。
ユウマは、しばらく画面を見つめていた。
さすがに、ここは越えてはいけない線だろう。
そう思う理性と、これを押したら何が起こるのか知りたい好奇心が、指先で拮抗する。
結局、その夜は画面を閉じた。
だが、考えるのをやめることはできなかった。
◇
三日後、母は消えた。
原因は、ユウマがブロックしたからではない。
自動車事故だった。
夜勤明けのトラックが、信号無視で交差点へ突っ込み、たまたま通りかかった母の車に衝突した。
学校からの帰り道、マンションの前に警察官が立っているのを見たとき、胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。
それが何なのか理解する前に、玄関前で待っていた見知らぬ中年男性が名刺を差し出してくる。
事故の説明。死亡確認。今後の手続き。
言葉は耳を通り過ぎ、ただ、唇だけが形をなぞった。
「はい」「そうですか」「わかりました」。
夜、ひとりになった部屋で、ユウマは呆然と座り込んだ。
テーブルの上には、買い置きの惣菜と、使われなかった箸がひとつ。
冷蔵庫を開けると、中には中途半端に使われた食材が並んでいる。
どれも、もう、料理になることはない。
ふと、スマホが振動した。
ホワオからの通知だ。
「WhiteOutは、あなたの“ストレス要因”になったユーザーを自動検出します」
「自動検出されたユーザーをブロックしますか?」
画面には、「候補ユーザー:春川綾(母)」と表示されていた。
「……ふざけるなよ」
ユウマは、スマホを握りしめる。
母は、ストレス要因などではない。
自分のために、遅くまで働いていたのだ。
そのことを、一番よく知っているのは自分だ。
しかし同時に、過去の記憶が浮かび上がる。
疲れた顔で「ごめん」と言うたびに、自分が少しずつ、何かを積み上げられていくような感覚。
誰にもぶつけられない、曖昧な苛立ち。
ホワオは、それを「ストレス」と名付けたのだろう。
冷酷だが、ある意味では正確だ。
画面の下には、二つのボタンが並んでいる。
「はい」と「いいえ」。
ユウマは、しばらく迷った末に、「はい」を選んだ。
もう、現実の母はいない。
ならば、アプリの中ぐらい、整理してしまってもいいのではないか。
そう思ってしまったのだ。
確認ダイアログ。
「ブロックすると、このユーザーはあなたの世界から消えます」
その文言を、指でなぞる。
世界は、もう十分に壊れている。
何を消しても、これ以上悪くはならない。
そう自分に言い聞かせて、「はい」を押した。
数秒後、タイムラインは真っ白になり、また元の画面に戻った。
翌朝、母の部屋に入ると、そこは最初から空き部屋のようだった。
クローゼットには何も入っておらず、タンスの引き出しも空っぽだ。
家計簿も、アルバムも、給料明細もない。
母がここで生きてきた痕跡は、どこにも見当たらなかった。
代わりに、キッチンのテーブルには、役所からの封筒が置かれていた。
「生活支援費支給のお知らせ」
宛名欄には、「春川ユウマ様」とだけ書かれている。
ユウマは、その紙をしばらく眺めてから、静かに笑った。
「最初から、ぼく一人の家だったわけか」
口に出してみると、不思議と違和感はなかった。
記憶は、こちらの設定に合わせて勝手に補正される。
ホワオの、徹底した「世界の書き換え」は、そこまで侵食していた。
◇
世界は、どんどん軽くなっていった。
うるさいクラスメイトをブロックすれば、教室は静かになった。
説教ばかりの教師をブロックすれば、授業は淡々と進むだけになった。
コンビニの冷たい店員をブロックすれば、代わりに笑顔のロボットレジが導入された。
現実なのか、世界の補正なのか、境界はあやふやだ。
だが、ユウマにとって重要なのは、「結果」だけだった。
タイムラインの投稿数は減り、アイコンは次々と灰色のシルエットに変わっていく。
そのたびに、「ブロックしました」「お疲れさまでした」と、小さなメッセージが表示される。
ホワオは、粛々と、しかし嬉々として、世界から人を消していった。
ある日、城戸からのメッセージが届いた。
「最近、みんなおかしくね?」
「何が」
「なんかさ、前までいたはずのやつを思い出せないって話が増えてる。転校したんだっけって」
ユウマは、しばらく考えてから、短く返す。
「そういうもんだろ。人なんて、簡単にいなくなる」
「おまえさ」
少し間が空いてから、城戸からメッセージが届く。
「もしかして、いろいろブロックしてね?」
「少しだけ」
「気をつけろよ。あんまりやるとさ、おまえのほうが“浮く”ぞ」
その言葉に、ユウマはフッと笑った。
もはや、“浮く”ほど人が残っていない。
教室の席は、半分以上が空いている。
廊下ですれ違う顔も、日に日に少なくなっている。
街の雑踏でさえ、前よりずっと歩きやすくなった。
「おまえは、ブロックしないの?」
逆に聞いてみる。
「俺はさ、めんどくさいやつをミュートするぐらい」
「それ、意味ある?」
「あるよ。見えないけど、いるってのが大事なんだろ」
意味ありげなことを言うやつだ、とユウマは思った。
画面の向こうで、城戸がどんな顔をしているのかは分からない。
だが、このままだと、その顔を見ることもなくなるのだろう。
◇
やがて、ブロックする相手もいなくなっていった。
クラスの出席番号は、十数人から五人になり、最後には二人になった。
教師も、数名を残して姿を消した。
近所の商店街も、シャッター街を通り越して、空き地の並ぶ更地と化していく。
残った店は、必要最低限のコンビニと、役所の出張所だけだ。
ニュース番組は、いつのまにか「AIキャスター」が一人で淡々と話すだけになっていた。
スタジオの背景にいたはずのスタッフやゲストは、最初からいなかったかのように、空虚な空間に変わっている。
世界全体が、余計なものを、削ぎ落とし続けている。
ホワオのブロック機能は、個人の視界にとどまらず、社会の構造そのものに食い込んでいた。
誰かを消すことが、当たり前になり過ぎた結果、システムが自動的に「最適化」を始めたのだ。
その頃には、ホワイトアウトの開発会社の社名を覚えている人間も、ほとんどいなかった。
責任を問うべき相手さえ、誰かにブロックされたのだろう。
ユウマの日常は、驚くほど静かだった。
朝起きて、誰もいないキッチンで朝食を摂り、学校へ行く。
教室には、数えるほどの生徒しかいない。
中には、不思議そうに辺りを見回している生徒もいた。
ホワオを使わなかった人たちだ。
そういう人たちの視界には、まだ大勢の人間が残っているのかもしれない。
だが、ユウマから見ると、彼らは、薄い霧の中で誰かに話しかけているようにしか見えない。
返事をしている相手が、自分には見えないのだ。
放課後、空になったグラウンドを横切りながら、ふと思う。
「ここまで来れば、ほとんど勝ちだな」
誰ともぶつからない。
誰からも笑われない。
誰にも期待されず、誰も期待しない。
完璧に近い、無風の世界。
ホワオのタイムラインを開くと、自分の投稿だけが、時系列に並んでいた。
たわいない一言。
朝の空の写真。
スーパーの割引シールの写真。
「いいね」をつける人間は、誰もいない。
だが、ユウマは気にしなかった。
そもそも、誰かに見てほしいと思っていないのだ。
ただ、時々、胸の奥のほうで、何かがふっと空回りする感覚があった。
鳴らしても返事のない呼び鈴を、何度も押しているような、虚しさ。
それを、ユウマは「昔の癖」と呼び、自分に言い聞かせることでやり過ごしていた。
◇
そしてある日、ホワイトアウトから、新しい通知が届いた。
「おめでとうございます」
「あなたのブロックリストは、上限値に達しました」
「さらなる快適なご利用のために、“自己管理モード”への移行をおすすめします」
文面の意味が、すぐには理解できなかった。
ブロックリストに上限があるなど、聞いたことがない。
そもそも、どれだけの人間を消してきたのか、自分でも分からない。
通知には、青いボタンがひとつ表示されている。
「自己管理モードに移行する」
説明文には、こう書かれていた。
『自己管理モードでは、ユーザーご自身のアカウント設定を最適化します』
『不要な情報、重荷になっている記録を整理し、より快適な体験を提供します』
『移行後、一部の機能は元に戻せません』
いつもと同じような、曖昧な説明。
だが、今さら怖がる対象でもない、とユウマは思った。
既に、ほとんどのものを失っている。
これ以上、何を失うというのか。
ユウマは、ボタンを押した。
『確認』
『自己管理モードへの移行には、アカウント設定の見直しが必要です』
『設定画面に進みますか?』
「はい」を選ぶと、画面が一度暗くなり、次の瞬間、見慣れたプロフィールページが表示された。
画面の上部には、自分のユーザー名「harukawa_yu」、簡単な自己紹介、「フォロー:0」「フォロワー:0」などの情報が並んでいる。
その下には、いくつかのメニュー項目。
「アカウント情報」「通知設定」「プライバシー」「ブロックリスト」。
ユウマは、最後の項目をタップした。
どれほどの名前が、そこに並んでいるのか、見てみたくなったのだ。
画面は、一瞬だけ真っ白になり、やがて、延々と続くリストが現れた。
スクロールバーは、ほとんど下まで伸びている。
上から順に、知らない名前、知っているはずの名前、忘れた名前が、雑然と並んでいる。
職場の上司らしき名前。
昔の同級生らしき名前。
親戚らしき名前。
どれも、今となっては実感を伴わない。
そして、リストの一番下には、見慣れた一行があった。
『春川ユウマ』
自分の名前だった。
一瞬、視界がぐらりと揺れた。
スマホを持つ手から、力が抜けそうになる。
「……なんだ、これ」
思わず、声に出してしまった。
部屋には誰もいない。
返事をする者もいない。
自分が、自分をブロックした覚えはない。
少なくとも、意識的には。
しかし、広い意味では、こうも言える。
世界から人を消し続けてきた結果、残ったのは自分一人だけだ。
その自分さえ、「ストレス要因」だと判断されたとしても、おかしくはない。
ホワオは、「自己管理モード」への移行に際して、「不要な情報」を自動で検出した。
それは、もしかすると、「春川ユウマ」というユーザー自身だったのかもしれない。
画面の下部に、小さなウィンドウが表示される。
『このアカウントをブロックしますか?』
『ブロックすると、このユーザーはあなたの世界から消えます』
『よろしいですか?』
「はい」と「いいえ」のボタンが、仲良く並んでいた。
ユウマは、笑うべきか泣くべきか分からなくなりながら、しばらく画面を見つめていた。
指は、動かなかった。
もしここで「いいえ」を選べば、どうなるのか。
自分は、自分を許すことになるのか。
それとも、アプリが勝手に何かを決めてしまうのか。
選択を先延ばしにしようと、電源ボタンを押して画面を消そうとした。
しかし、反応はない。
戻るボタンも、スワイプも、何も効かない。
それどころか、画面の中央に、新たなメッセージが浮かび上がった。
『ユーザーによる意思決定が確認できません』
『代わりに、最適な選択を行います』
ボタンの文字が、ゆっくりと滲み始める。
「はい」と書かれたほうが、白く発光し、にじむ。
まるで、そこに指を置くよう誘導しているかのように。
「やめろ」
反射的に、ユウマはスマホを手放した。
床に落ちたはずのスマホは、しかし、落下の音を立てない。
感覚だけが滑り落ちたのに、視界からは消えている。
代わりに、目の前には、相変わらずブロックリストの画面が浮かんでいる。
画面の外側が、ぼやけていく。
部屋の壁も、床も、天井も、輪郭を失っていく。
「おかしいだろ、これ」
声を上げようとしたが、喉から出てくる音は、自分の耳に届かなかった。
代わりに、画面の中で文字が動いた。
『お疲れさまでした』
『これまでのご利用、ありがとうございました』
丁寧な挨拶。
それが、最後の通知だった。
ユウマは、最後の抵抗として、指を動かした。
自分の意思で、何かを選びたかった。
「はい」でも「いいえ」でもいい。
とにかく、自分で決めたという痕跡が欲しかった。
しかし、その指先は、どこにも触れなかった。
スマホのガラス面の感触も、タップしたときの微かな振動も、もう存在しない。
そこにあるのは、ただの「画面」、ただの「表示」だけだ。
やがて、「はい」の文字が、自動的に選択された。
クリック音さえ、鳴らない。
ブロックリストの画面から、「春川ユウマ」という名前が、ふっと消える。
リストの最後の行が削除され、スクロールバーが短くなった。
その瞬間、世界の輪郭が、完全にほどけた。
教室のざわめきも、母の「ごめんね」も、体育教師の怒鳴り声も、城戸のからかいも。
すべての記憶が、音もなく、白い紙を破るように消えていく。
自分がどこに立っていたのか、どこへ向かおうとしていたのか、その座標すら、分からなくなる。
最後に残ったのは、ひとつの画面だけだった。
「WhiteOut」のトップページ。
真っ白な背景に、小さなログインボタンが浮かんでいる。
けれど、そのアカウントでログインできるユーザーは、もういない。
誰もいない部屋に置き去りにされたパソコンのように、その画面は、ただ白く輝き続ける。
そして、数秒後。
ログインボタンさえ、ゆっくりと消えた。
画面が、真っ白になった。




