第8話 試される信頼
俺の名前は佐藤健司。いや、今はケンジと呼ばれている。四十歳で過労死した社畜が、二十歳に若返って異世界に放り込まれて約二ヶ月。ルナス村の改革は順調に進んでいたはずだった。
だが、今朝から空気が変わっている。
「ケンジさん、大変です!」
酒場の扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、村の若者トムだった。息を切らしながら、青ざめた顔でこちらを見つめている。
「どうした? 落ち着いて話せ」
俺は前世の部下の失敗報告を聞く時のように、冷静に対応した。だが、トムの次の言葉で、血の気が引いた。
「ガルド様の兵士が、村の入り口に五十人も来てるんです! 完全武装で!」
酒場にいた村人たちがざわめき始める。リアが手を止めて振り返り、ミラが「えー、マジで?」と声を上げた。
俺は立ち上がって窓から外を見る。確かに、村の入り口に騎馬隊と歩兵の列が見えた。ガルドの紋章を掲げた旗がはためいている。
「あいつ、ついに本気で来たか」
俺は舌打ちした。昨日、ミラが奪ってきたガルドの土地売却書類を基に、王都への告発状を準備していたところだった。だが、向こうも俺たちの動きを察知していたらしい。
「ケンジ、どうするの?」
リアが不安そうに俺を見つめる。彼女の瞳には、いつもの毒舌を隠した優しさと、俺への信頼が宿っていた。だが、同時に恐怖も見えた。
「まずは村人を集めよう。パニックになっては相手の思うつぼだ」
俺はそう言いながらも、心の奥で不安がよぎっていた。前世でも、大きなプロジェクトの最終段階で上司に潰されたことがある。あの時と同じ、胃がキュッと締め付けられる感覚だった。
三十分後、村の中央広場に村人たちが集まった。だが、その表情は俺が期待していたものとは違っていた。
「ケンジ、本当に大丈夫なのか?」
長老のエルバートが重々しい口調で言った。彼は最初から俺の改革に懐疑的だったが、ハーブ交易の成功で少しずつ支持に回っていたはずだった。
「兵士が五十人も来てるんだぞ? 俺たちは農民だ。戦えるわけがない」
「そうだそうだ」
「ケンジの計画についていったせいで、こんなことになった」
村人たちの間から、そんな声が上がり始めた。俺の胸に、鋭い痛みが走った。
前世を思い出す。部下のミスをカバーしようとした時、上司に「佐藤のせいで部署全体が迷惑している」と言われた。その時の屈辱感と孤独感が、一気に蘇ってきた。
「みんな、落ち着いて」
俺は声を大きくした。だが、村人たちの不安は高まるばかりだった。
「ケンジ、あんたは若いからいいよ」
パン職人のハンスが吐き捨てるように言った。
「でも俺たちには家族がいるんだ。子供もいる。ガルド様に逆らって、どうなるかわからないだろう」
「そうだ! あんたのせいで村が滅茶苦茶になる!」
別の村人が叫んだ。俺は言葉を失った。
ハーブ交易で利益を上げ、村人の生活が少しずつ改善されてきたのは事実だった。だが、同時にガルドとの対立も深刻化していた。俺は論理的に正しい判断をしているつもりだったが、村人たちの感情は違った。
「ケンジさん…」
ミラが俺の袖を引っ張った。いつもの明るい笑顔は消え、不安そうな表情を浮かべている。
「みんな、怖がってるね」
その時、群衆の中から一人の男性が歩み出た。靴職人のウィルだった。彼は俺が来てから最も協力的だった村人の一人だった。だが、その表情は硬い。
「ケンジ、正直に言ってくれ」
ウィルが俺を見据えた。
「あんたは本当に、俺たちのことを考えているのか? それとも、自分の満足のために俺たちを利用しているだけなのか?」
その言葉が、俺の心臓を直撃した。
前世で、部下の田中に言われた言葉だった。「佐藤さんは、本当は自分が認められたいだけでしょう?」
俺は答えられずにいた。本当に、村人のためだけに動いているのか? 前世でうまくいかなかった自分の人生のやり直しのために、彼らを巻き込んでいるだけなのか?
沈黙が広場を支配した。村人たちの視線が、俺に集中している。疑念、不安、そして失望。それらが混じった視線だった。
「あのさ」
突然、リアが前に出た。酒場での仕事着のままだったが、その背中には凛とした強さがあった。
「みんな、ちょっと落ち着きなよ」
リアの声は、いつもの毒舌とは違う、真剣なトーンだった。
「最初はあたしもバカだと思った。ケンジの計画なんて、夢見がちな若造の戯言だって」
村人たちがリアに注目した。
「だけど…あいつの努力を見てた。酒場で夜遅くまで帳簿とにらめっこして、村人一人一人の顔を思い浮かべながら計画を練ってる姿を」
リアの声に、わずかな震えが混じった。
「父さんの薬が買えるようになって、初めて"明日"を信じられた。この二ヶ月で、子供たちが笑うようになった。希望ってものを、久しぶりに感じるようになった」
「でも、兵士が…」
ハンスが口を挟もうとしたが、リアが振り返った。
「今さらガルドに頭を下げたって、明るい未来は来ない。あいつはあたしたちを物としか見てない。じわじわと殺されるか、一気に殺されるかの違いでしかないのよ」
彼女は群衆を見回し、挑戦的な眼差しを向けた。
「…それでもまだ、あたしを"夢見てるだけの娘"って笑うの? ケンジの計画を"若者の無謀"って片付けるの?」
リアは俺の方を見た。その瞳には、温かい光と確固たる意志が宿っていた。
「私は、ケンジを信じる。あいつの計画についていく。みんなはどうする?」
広場に静寂が降りた。村人たちは互いに顔を見合わせている。俺は固唾を飲んで待った。
最初に動いたのは、ミラだった。
「私もケンジさんについていく!」
彼女は俺の隣に立った。いつもの無邪気な笑顔ではなく、決意に満ちた表情だった。
「ケンジさんが来てから、村が楽しくなった。みんなが夢を語るようになった。それって、すごいことだと思う」
次に動いたのは、意外にも長老のエルバートだった。
「…わしも、ケンジについていこう」
彼は重いため息をついた。
「もう年だからな。どうせなら、希望のある方に賭けてみたい」
そして、ハンスがゆっくりと歩み出た。
「……俺の娘が、最近よく笑うようになった」
彼の声は震えていた。
「あんたが来る前は、毎日泣いてたんだ。食べ物が足りなくて、将来に希望が持てなくて。そのことだけで、もう十分だよ。ついていくぜ、ケンジ」
別の農民、マルクも重い口を開いた。
「正直、怖い。でも……もう目を背けてちゃダメなんだろうな。子供に誇れる背中を見せたいから……俺も、立つよ」
一人、また一人と、俺の周りに村人が集まってきた。だが、全員ではなかった。四分の一ほどの村人は、まだ迷っているようだった。
その時、村の入り口から馬蹄の音が響いてきた。ガルドの兵士たちが、村に入ってくるのだった。
「全員、武器を捨てて跪け!」
先頭の騎士が叫んだ。ガルドが馬上から村人たちを見下ろしている。その表情には、勝利への確信が浮かんでいた。
「ルナス村の愚民どもよ。私に逆らった罪は重い」
ガルドの声が広場に響いた。
「だが、慈悲深い私は、反省の機会を与えてやろう。このケンジという男を差し出せば、他の者は許してやる」
村人たちの間に動揺が走った。俺に視線を向ける者もいれば、ガルドを恐れて震える者もいた。
俺は前に出た。
「俺がケンジだ」
「ほう、自分から名乗り出るとは」
ガルドが薄笑いを浮かべた。
「では、この場で跪いて、私に許しを請え。そうすれば、命だけは助けてやろう」
「その前に聞かせてくれ、ガルド」
俺は静かに言った。
「お前は本当に、村を守っているつもりなのか?」
ガルドの表情が変わった。
「当然だ! 私は村を守っていたのだ。税を納めることで、他の略奪者から守っていた。お前たちに自由を与えれば、結局お前たち自身が争いを始めるだけだ!」
ガルドの目には、ゆがんだ信念が宿っていた。
「父から受け継いだこの土地を、私は必死に守ってきた。だが、お前のような部外者が現れて、全てを台無しにしようとしている!」
俺は首を振った。
「お前の守っているのは、村じゃない。自分の利益だけだ」
「何だと?」
「証拠がある」
俺は懐から書類を取り出した。ミラが奪ってきた、ガルドの土地売却に関する証拠だった。
「この書類には、ガルドが王都に無断で村の土地を売却しようとした証拠が記されている。これは王国への反逆罪に当たる」
ガルドの顔が青ざめた。
「それは…どこで手に入れた?」
俺の心臓は激しく鼓動していた。賭けだ。だが、これに賭けるしかない。
「王都の役人にこれを送れば、お前は処刑台に送られるだろう」
兵士たちの間にざわめきが起こった。
「……おい、これ本物か?」
ガルドの背後に控えていた若い兵士が、隣の騎士に耳打ちする。
「知らん。だが、もし本当に王都に送られてたら、俺たちまで罪に問われるかもしれんぞ……」
数人の兵士がざわめき始め、誰からともなく剣を下ろし始めた。
ガルドが激怒した。
「愚かな…! 私に逆らうとは愚か者め…!」
彼は兵士たちに向かって叫んだ。
「兵士よ、全員捕らえろ! 命令だ!」
騎士たちが剣を抜いたが、その動きは鈍かった。ガルドの顔が赤くなった。
「な、なぜ兵士が動かん!? 貴様ら、命が惜しくはないのか! 私はガルド伯爵だぞ!」
声が裏返っていた。威厳を保とうとしながらも、明らかに動揺していた。
だが、俺は慌てなかった。
「待て」
俺は大声で叫んだ。
「ガルド、お前の兵士たちにも家族がいるだろう? 王国に反逆した貴族の配下として処刑されたいのか?」
騎士たちの動きが完全に止まった。彼らの表情に迷いが浮かんでいる。
「この書類は既に王都に送る手配を済ませている。今更俺たちを殺したところで、お前の罪は消えない」
これは嘘だった。まだ書類は手元にある。だが、ガルドにはそれがわからない。
一人の老騎士が剣を鞘に納めた。
「ガルド様、申し訳ございませんが…」
彼は馬から降りた。
「私には孫がおります。王国への反逆者として処刑されるわけには…」
「き、貴様! 裏切るのか!」
ガルドが叫んだが、他の兵士たちも次々と武器を下ろしていく。
「む、無茶苦茶だ…!」
ガルドが狼狽した。
「お前たちは…私の言うことを聞いていれば良かったものを…!」
「もう終わりだ、ガルド」
俺は静かに言った。
「お前の時代は終わった」
その時、リアが俺の隣に歩み寄ってきた。
「ケンジ」
彼女は小さく呟いた。
「信じてる」
リアが差し出した手を、俺は握った。
前の世界では、誰も俺の手を握ってくれなかった。孤独な戦いの中で、俺はただ成果だけを求められ、心を置き去りにしてきた。だが今、リアの手が、温かく俺を支えてくれている。
その温かさが、俺の心に深く染み入った。
前世では味わえなかった、本当の信頼と絆。それがここにあった。
「ありがとう、リア」
俺は彼女に微笑みかけた。
「みんな、ありがとう」
俺は村人たちを見回った。
「俺は凡人だ。一人じゃ何もできない。でも、ミラが動いてくれた。リアが支えてくれた。ウィルたちが信じてくれた。だから、ここまで来られたんだ」
俺の声が震えた。
「前世の俺は、誰も信じることができなかった。でも、今は違う。みんながいるから強くなれる」
村人たちも、俺たちを取り囲むように集まってきた。ミラが「ケンジさん、かっこいい!」と声を上げ、エルバート長老が深く頷いた。
ガルドは完全に孤立していた。兵士たちも、もはや彼に従う意志を失っていた。
「くそ…覚えていろ…!」
ガルドは捨て台詞を残して、馬で逃げ去った。残った兵士たちも、慌ててその後を追った。
広場に平和が戻った。村人たちから歓声が上がった。
「やったな、ケンジ!」
「すごいぞ!」
「みんなで勝ったんだ!」
俺は安堵のため息をついた。だが、同時に身が引き締まる思いもあった。これは終わりではない。むしろ、本当の戦いの始まりなのだ。
「リア」
俺は彼女を見つめた。
「これからが本当の勝負だ。王都への告発、ガルドの処罰、そして村の自立。やることは山積みだ」
リアは微笑んだ。
「大丈夫よ。みんなでやれば、何でもできる」
彼女は俺の手を握ったまま、離さなかった。
「それに、あんたがいるしね」
俺の胸が熱くなった。前世では決して得られなかった、心の底からの信頼関係。それがここにあった。
「ああ、そうだな」
俺は村人たちを見回した。みんな、希望に満ちた表情をしている。
「みんなでやろう。新しいルナス村を作るために」
夕日が村を照らしていた。長い戦いの終わりと、新たな始まりを告げる、美しい光だった。