第6話 絆の芽生え、そして迫り来る陰謀
俺は朝一番、村の中央広場に立っていた。手には昨夜作った簡単な計算書がある。ハーブの収益を村人にどう分配するか、前世の給与計算の経験を頼りに夜通し考えた結果だ。
だが、胸の奥には妙な違和感があった。
——本当に、これでいいのか?
前世では、他人のために何かをしても裏切られるか、利用されるかのどちらかだった。部下のミスを庇えば上司に怒られ、上司の無茶振りに従えば部下に恨まれる。善意は常に空回りし、最後は一人で倒れた。
——また同じことを繰り返しているだけじゃないか?
そんな疑念が頭をもたげる。だが、俺は首を振った。今度は違う。今度こそ、みんなで成功する。
「みんな、聞いてくれ」
声をかけると、村人たちが三々五々集まってくる。トムが眠そうな目をこすり、長老のオーウェンは杖にもたれながらゆっくりと歩いてきた。リアは酒場の掃除を途中で止めて、濡れた手をエプロンで拭いながら現れる。
「何よ、朝っぱらから」リアが眉をひそめる。「またなんか企んでんの?」
俺は苦笑した。相変わらずの毒舌だが、以前と違って声に敵意はない。むしろ、どこか期待を込めた響きさえある。
「いや、昨日のハーブのことだけどさ。ちょっと面白い話があるんだ」
俺は計算書を掲げた。文字の読めない村人のために、図を多用して作った資料だ。
「隣町での売り上げは金貨十二枚。輸送費と手数料を引いて、純利益は八枚だった」
「おお…」という感嘆の声が漏れる。村人の多くにとって、金貨八枚は月収に匹敵する大金だ。
「で、この利益をどうするかなんだが」俺は一呼吸置いた。「全額、村の皆で分けたいと思う」
静寂が流れた。村人たちが顔を見合わせている。
その時、群衆の後方から渋い声が響いた。
「ちょっと待てよ」
全員が振り返ると、村の古株の一人、グレゴリーが腕組みをして立っていた。六十代の頑固そうな男で、村の伝統を重んじる保守派として知られている。俺が村に来る前は、村長の次に発言力を持つ存在だった。
「グレゴリーさん、どうしたんですか?」俺が聞く。
「どうしたもこうしたもない」グレゴリーは不機嫌そうに前に出てきた。「お前、外から来たばかりの奴が、勝手に村のことを決めていいと思ってるのか?」
村人たちがざわめいた。グレゴリーの発言は予想外だった。
「グレゴリー、何を言ってるんだ」トムが困惑した声で言う。「ケンジが村のために頑張ってくれてるじゃないか」
「頑張ってる?」グレゴリーは鼻で笑った。「昔からのやり方があるんだ。この村を支えてきたのは、俺たち年寄りなんだよ。外の知恵とやらに頼って、恥ずかしくないのか?」
グレゴリーの声には、単なる反対以上の感情がこもっていた。
「それに」グレゴリーは続けた。「ガルド様には昔、凶作の年に助けてもらったこともある。その恩を忘れて、勝手に商売を始めるなんて、筋が通らないじゃないか」
俺の胸に、鈍い痛みが走った。
——拒絶される感覚。この冷たさは知っている。
前世でも同じような経験をした。新しい提案をしても、「前例がない」「リスクが高い」「若造が生意気な」と言われ続けた。そして最後は、孤立して倒れた。
俺は拳を握りしめた。今度は違うはずなのに。
「グレゴリーさん」俺は声を絞り出した。「俺は村のことを思って…」
「村のことを思ってる?」グレゴリーは冷笑した。「お前が思ってるのは自分のことだろう。村で成功して、英雄気取りをしたいだけじゃないのか? 俺たち古参を差し置いて、若者たちを先導して…」
俺の顔が青ざめた。図星だった。確かに、自分の中には承認欲求もある。前世で得られなかった成功体験を、この村で味わいたいという気持ちもある。
「そんなこと…」俺が反論しようとした時、リアが一歩前に出た。
「ちょっと待ちなさいよ、グレゴリーさん」
リアの声には、俺が今まで聞いたことのない強さがあった。普段の毒舌とは違う、誰かを守ろうとする意志の強さが込められていた。俺は驚いてリアを見つめた。彼女の横顔は、いつもより凛々しく見えた。
「あんたが何を言おうと勝手だけど、ケンジを悪く言うのは許さない」
——リアが、俺を庇ってくれている…。
その時、俺の胸に小さな感動が芽生えた。前世では、自分を庇ってくれる人など誰もいなかった。いつも一人で戦っていた。
その瞬間、俺は気づいた。
——もう、俺一人の判断じゃないんだ。
リアの必死な横顔を見て、トムの心配そうな表情を見て、ミラの信頼に満ちた瞳を見て。俺の決断が、彼らの人生に直接影響を与える。その重みと、そして彼らが俺を信じてくれているという事実に、胸が詰まった。
「リア、お前まで…」グレゴリーが眉をひそめる。
「あたしのお父さんが病気で倒れた時、薬代を出してくれたのは誰だと思ってるの?」リアは村人たちを見回した。「あんたたちも忘れたの? ハーブで初めて利益が出た時、ケンジが一番先に考えたのは、みんなに分配することだったのよ」
リアの声が微かに震えているのに気づいた。緊張しているのだろう。でも、それでも自分を守ろうとしてくれている。
——こんなに必死になって、俺を庇ってくれる人がいるなんて…。
俺は「ありがとう」と小さく口を動かした。リアは俺の方を一瞬見て、軽く頷いた。その瞬間、リアの頬にかすかな赤みが差したような気がしたが、すぐに真剣な表情に戻る。
ミラも声を上げた。
「そうだよ! ケンジさんは、私たちのことを本当に心配してくれてる!」少女の目には涙が浮かんでいた。「ケンジさんがいなかったら、私、もっと一人ぼっちだった。でも今は…今は家族みたいで嬉しいの!」
ミラの純粋な言葉が、広場に響いた。俺の胸が熱くなる。
「家族…」俺が小さく呟いた。
「グレゴリーさんは意地悪よ!」ミラが涙声で続けた。「みんなで頑張ってるのに、どうして邪魔するの?」
「ミラ、口の利き方に気をつけろ」グレゴリーが睨む。
だが、グレゴリーの表情に変化が見えた。ミラの「家族みたい」という言葉が、彼の心に何かを触れたのかもしれない。
オーウェン長老が杖でトントンと地面を叩いた。
「グレゴリーよ、お前の気持ちも分からんでもない」長老の声は穏やかだった。「だが、ケンジの行いを見てみろ。利益を独り占めせず、村人に分配すると言っている。これのどこが自分勝手だと言うのか?」
「それは…」グレゴリーが口ごもる。
「確かにケンジは外から来た者だ」長老は続けた。「だが、この村のことを本当に思ってくれている。それだけで十分ではないか?」
村人たちが頷く。グレゴリーは不満そうな顔をしたが、これ以上反論できずにいた。
「グレゴリーさん」俺が口を開いた。「あなたの言うことは正しい。俺は確かに外から来た者だ。この村の歴史も伝統も、まだよく知らない」
俺は深く頭を下げた。
「どうか、俺を信じて、一緒に村を良くしていただけませんか?」
長い沈黙が流れた。風が広場を吹き抜け、誰もが固唾を呑んで見守っている。やがて、グレゴリーが重い口を開いた。
「…分かった。とりあえず、様子を見てやる」彼は照れ隠しのように咳払いをした。「だが、村に害をなすようなことがあれば、容赦はせんぞ」
俺は顔を上げて微笑んだ。
「ありがとうございます」
リアが俺の袖を軽く引いた。
「ほら、早く利益の分配の話を続けなさいよ」
リアを見ると、彼女は少し照れたような、でもどこか誇らしげな表情をしていた。俺が頭を下げている間、ずっと心配そうに見ていたのだろう。
俺は計算書を読み上げ、村人一人一人に金貨を配った。皆の顔に笑顔が戻る。
だが、その和やかな雰囲気は、馬の蹄の音によって破られた。
村の入り口から、立派な馬に乗った男が一人、村に入ってくる。服装は商人風だが、どこか威圧的な雰囲気を纏っている。
「あれは…」リアの顔が強張った。「ガルド様の使いの人よ」
俺の表情も険しくなる。タイミングが悪すぎる。村人たちの間に不安の色が広がった。
男は馬から降りると、硬い革靴の音を響かせながら広場の中央まで歩いてくる。空気が一瞬にして張り詰めた。
「ルナス村の者たちよ」男の声は冷たく響いた。「我が主、ガルド様よりお達しである」
俺は一歩前に出た。
「俺はケンジ。この村の住人だ。用件を聞こう」
男は俺を値踏みするような目で見つめた。
「噂に聞く転生者か。まあいい」男は懐から羊皮紙を取り出す。「ガルド様は、この度の無許可交易を重く見ておられる。今後、村外との商取引は一切禁止する」
村人たちがざわめいた。
「待ってくれ」俺が手を上げる。「交易に許可など必要なのか? 今まで制限はなかったはずだが」
「法が変わったのだ」男は薄く笑う。「つい先日、エルドラント公国で商取引規制令が制定された。領内の全ての商取引は、領主の許可を得る必要がある」
俺の脳裏に、前世の法務部時代の記憶がよみがえる。急に制定される法律には、必ず裏がある。しかも「エルドラント公国」という名前が出てきたことで、俺は直感的に大きな陰謀の存在を感じ取った。
——エルドラント…確か、この地域最大の商業都市がある公国だ。なぜそこの法律が、この辺境の村に関係してくる?
「その法律、施行はいつからだ?」
「今月の初めからである」
「昨日の交易は問題ないということか」
男の表情が一瞬曇った。俺の指摘は的確だった。
「まあ、それはそうだが…」
「なら、正式な手続きを踏んで許可を申請する。窓口はどこだ?」
「それは…ガルド様の館で…」
俺は内心で舌打ちした。つまり、ガルドが許可権者ということだ。承認するかどうかは、彼の気分次第ということになる。
「分かった。近日中に伺わせてもらう」俺は冷静に答えた。「それまでの間、交易は自粛するとしよう」
男は拍子抜けしたような顔をした。もっと抵抗されると思っていたのだろう。
「そ、そうか。では、そのように…」
男は馬に跨り、そそくさと村を去って行く。
◇
使者が去った後、村人たちの表情は暗かった。せっかくの希望の光が、急に消されてしまったような感覚だった。
「結局、ガルドには勝てないのか…」誰かが小さくつぶやいた。
俺は村人たちの失望した顔を見回しながら、前世の記憶と照らし合わせて状況を分析していた。
——エルドラント公国の商取引規制令…タイミングが良すぎる。これは明らかに、俺たちの動きを封じるために急遽制定されたものだ。でも、なぜエルドラント? ガルドにそこまでの政治力があるとは思えない。誰か、もっと大きな存在が背後にいる。
村人たちが俺を取り囲んだ。
「ケンジ、どうするんだ?」トムが不安そうに聞く。
「ガルドの許可なんて、もらえるわけないじゃない」リアが苛立った声で言う。
その時、リアは俺の近くに立って、小さな声で付け加えた。
「でも、あんたならきっと何とかしてくれるのよね?」
俺はリアを見つめた。彼女の瞳には不安と、それでも俺への信頼が混在していた。そんなリアの表情を見て、俺の胸に改めて責任感が湧いてくる。
「みんな、心配するな」俺は村人たちを見回した。「法律があるなら、その抜け道も必ずある。俺に任せてくれ」
だが、心の奥では不安が渦巻いていた。相手の規模が想像以上に大きい。前世の記憶が蘇る。大企業を相手にした無謀な交渉で、完膚なきまでに叩きのめされた苦い経験。
——また同じ結果になるのか?
その時、トムが一歩前に出た。
「ケンジ、俺たちも何かできることはないか?」
俺はハッとした。トムの表情には、俺が今まで見たことのない決意が宿っていた。そして、他の村人たちも同じような顔をしている。
——違う。今度は一人じゃない。
「みんな…」
「あたしたちも一緒に戦うわよ」リアが強い声で言った。「あんた一人に背負わせるつもりはないんだから」
俺の胸に、温かいものが広がった。前世では、困難な状況になると誰もが逃げていった。だが今は…
「分かった」俺は頷いた。「みんなの力を借りる。でも、まずは情報収集だ」
◇
その夜、俺たちは村外れの古い納屋に集まっていた。リア、ミラ、トム、そして数人の若い村人が輪になって座っている。
風が納屋の隙間から吹き抜け、古い梁がぎしりと音を立てた。誰も口を開かず、ただ冷たい空気だけが場を支配している。
「まず、状況を整理しよう」俺が口を開いた。ランプの明かりが皆の顔を不安げに照らしている。「エルドラント公国の商取引規制令。これが鍵だ」
トムが手を上げた。
「でも、エルドラントって遠いだろ? なんで向こうの法律が俺たちに関係するんだ?」
「それが問題なんだ」俺は深いため息をついた。「普通は関係ない。でも、ガルドに政治的な後ろ盾がいるとしたら話は別だ」
その時、納屋の扉がそっと開いた。
「すまない、遅れた」
現れたのは、意外な人物だった。村で雑貨商を営む中年男性、コレットだ。普段は目立たない存在だが、今夜の彼は何か違った雰囲気を纏っていた。
「コレットさん?」リアが驚いた声を上げる。
コレットは皆を見回してから、重い口を開いた。
「実は…話があるんだ。ガルドのことで」
俺は身を乗り出した。
「何を知ってるんですか?」
コレットは一瞬躊躇してから、決意を固めたように頷いた。
「私の正体は、かつてこの領地を治めていた家の息子だ」
一瞬、空気が止まった。
「じゃあ、なんで今は……?」ミラが口を挟む。
「……追放されたからだ」コレットの声は苦々しかった。「理由は――後で話す。今、急がねばならないのは、ガルドの真の狙いについてだ」
俺は混乱していた。コレットの告白を聞いたとき、胸の奥がざらついた。「信じてほしい」という言葉が、果たしてどれほどの重みを持つのか。
——また騙されるのか? 前世のように、信頼した相手に裏切られるのか?
だが、トムの表情を見たとき、俺は気づいた。もう、俺一人の判断じゃない。皆で決めるんだ。
「続けてください」俺は慎重に言った。
「ガルドは単なる田舎領主ではない」コレットは続けた。「エルドラントの商業ギルドと深いつながりがある。そして今回の法律改正も、彼が裏で糸を引いている」
「商業ギルド?」リアが聞く。
「エルドラントで商取引を行うには、必ずギルドの許可が必要だ。そして、ギルドを牛耳っているのは一握りの大商人たち。ガルドは、彼らの代理人として動いている」
俺の脳裏に、前世の記憶が蘇った。大企業による中小企業の吸収合併。まず競合他社の資金繰りを悪化させ、経営難に追い込んでから安く買い叩く手法だ。
「つまり、村を経済的に干上がらせて、土地を安く買い取るつもりか」
「その通りだ」コレットは重く頷いた。「そして、エルドラントの大商人たちは、この一帯を一大商業拠点にする計画を立てている。村々を買い占めて、巨大な交易路を建設するつもりだ」
沈黙が流れた。予想以上に大きな陰謀だった。
「でも」ミラが小さく言った。「どうしてコレットさんがそんなことを知ってるの?」
コレットは苦笑した。
「私は…ガルドの内通者だからだ」
再び、静寂が納屋を支配した。外で風が唸り、古い木材がきしむ音だけが響いている。
「内通者?」トムが驚愕の声を上げた。
「待ってくれ」俺が手を上げる。「なぜそれを俺たちに話すんですか?」
コレットは深いため息をついた。
「最初は、ガルドに脅されて仕方なく情報を流していた。だが、君たちを見ていて…特にミラの純粋さや、ケンジの村への献身を見ていて、考えが変わった」
コレットはミラの方を見た。
「君のような子供が、大人の汚い政治に巻き込まれるのを見ていられなくなったんだ」
ミラは複雑な表情でコレットを見つめていた。
「私は、どうすべきでしょうか?」俺が率直に聞いた。
「エルドラントに行くべきだ」コレットは即答した。「ガルドや商業ギルドの裏をかいて、直接市場に参入する。そして、彼らの計画を内部から崩す」
「でも、素人の俺たちが都市で成功する保証はない」
「確かにそうだ」コレットは認めた。「だが、私が手伝う。元領主の息子として培った人脈と知識がある。完全ではないが、君たちの力になれるはずだ」
俺は悩んだ。コレットを信じるべきか、それとも…
その時、リアが口を開いた。
「コレットさん、一つ聞きたいことがあるの」
「何だ?」
「どうして今まで黙ってたの? 村のためを思うなら、もっと早く教えてくれてもよかったじゃない」
コレットは困ったような表情を浮かべた。
「それは…恥ずかしながら、自分の身が可愛かったからだ。ガルドを裏切れば、今度は私が追放されるか、もっと酷い目に遭う。だから、見て見ぬふりをしていた」
リアは納得したような顔をした。
「正直でいいじゃない。人間らしいわよ」
俺も同感だった。完璧すぎる申し出よりも、人間的な弱さを見せる方が信頼できる。
「分かりました」俺は決断した。「コレットさんの協力を受けて、エルドラント進出を実行します」
トムが不安そうに聞く。
「本当に大丈夫なのか? 相手は大商人だぞ」
「大丈夫じゃないかもしれない」俺は正直に答えた。「でも、何もしなければ確実に負ける。ならば、リスクを取って戦う価値はある」
ミラが手を上げた。
「私も一緒に行く! エルドラントに!」
「ミラ、都市は危険だ」俺が心配そうに言う。
「でも、私がいれば、きっと役に立てる! 薬草の知識だって覚えたし、計算もできるもん」
リアが苦笑した。
「この子、案外頑固なのよね。決めたら絶対に譲らない」
「それに」ミラは続けた。「みんなで一緒だから頑張れるの。一人だけ村に残されるのは嫌」
俺は考え込んだ。確かに、ミラの薬草知識は貴重だ。そして、何より彼女の純粋さが、交渉の場で相手の心を動かす可能性もある。
「分かった。でも、絶対に無理はするな」
「約束する!」ミラが嬉しそうに笑った。
コレットが立ち上がった。
「では、具体的な準備に入ろう。まず必要なのは資金だ。エルドラントでの滞在費、商談のための接待費、保証金…最低でも金貨五十枚は必要だろう」
「五十枚?」トムが驚いた。「そんな大金、どこで調達するんだ?」
俺は考えた。
「ハーブの加工を本格化する。短期間で利益を上げて、必要な資金を作る」
「でも、交易禁止令があるだろ?」
「村に買い手を呼ぶんだ」俺は微笑んだ。「技術的には、こちらから売りに行くわけじゃない」
コレットが感心したような顔をした。
「なるほど、法の抜け道を突くわけか。前世での知識が活きているな」
「ただし」俺は表情を引き締めた。「時間は限られている。ガルドが次の手を打ってくる前に、必要な準備を整えなければならない」
納屋の外で、再び風が唸った。今度は、嵐の前触れのような不穏な響きを含んでいた。
「皆、覚悟はいいか?」俺が最後に確認した。
全員が頷く。その表情には不安もあったが、同時に強い決意も宿っていた。
「よし、明日から本格的に動く」俺は立ち上がった。「エルドラント進出の準備だ」
◇
その頃、村から数キロ離れた森の中で、二つの影が密談を交わしていた。
「コレットが寝返ったようだな」一人がささやく。
「予想していたことだ」もう一人が答える。「あの男の心の弱さは、ガルド様も承知しておられる」
「それにしても、転生者の影響力は予想以上だ。村人たちが完全に心服している」
「だからこそ、エルドラントで完全に潰す必要がある」最初の男が冷笑した。「田舎では予想外の抵抗を見せているが、都市は我々の庭だ」
「商業ギルドの根回しは完了している」
「ああ。バートン様が既に手を回しておられる。転生者がエルドラントに現れた瞬間、適切に『指導』されるはずだ」
「コレットの裏切りについては?」
「放置しておけ」男は薄く笑った。「どうせ、元領主の息子という過去がバレれば、エルドラントでは信用を失う。むしろ、転生者の足を引っ張ってくれるだろう」
「恐ろしい計算だ…」
「ガルド様の指示は明確だ。『転生者を完全に破滅させ、二度と立ち上がれないようにしろ』とのことだった」
二人の影は、薄気味悪い笑いを浮かべながら闇の中に消えていった。
◇
翌朝、俺は早起きして村の周辺を歩いていた。朝靄が立ち込める中、昨夜の決断を改めて反芻していた。
エルドラント進出。前世の知識を総動員しても、成功の保証はない。むしろ、失敗の可能性の方が高いかもしれない。
——それでも、やるしかない。
足音が近づいてきた。振り返ると、リアが小走りで追いかけてくる。
「朝から何してるのよ」リアが息を切らせながら言った。
「考え事だ」俺は苦笑した。「昨夜の決断が正しかったのか、不安になってな」
リアは俺の隣に並んで歩き始めた。
「不安なのは当たり前よ。でも」リアは俺を見上げた。「あんたが決めたことなら、私は信じる」
「なぜそこまで俺を信じられるんだ?」俺が率直に聞いた。
リアは少し考えてから答えた。
「あんたが村に来てから、みんなの顔が明るくなったの。特にミラなんて、以前は一人でいることが多かったのに、今は生き生きしてる」
リアは足を止めて、村の方を振り返った。
「それに」リアは小さく微笑んだ。「あんたは、失敗を恐れずに行動する。前世で辛い経験をしたって聞いたけど、それでも諦めないでいる。そういう人を、信じたいと思うの」
俺の胸に、温かいものが広がった。
「リア…」
「べ、別に変な意味じゃないからね!」リアは慌てて顔を逸らした。「ただ、村のリーダーとして信頼してるってだけよ!」
俺は笑った。リアの照れ隠しが可愛らしく見える。
「分かった。期待に応えるよう頑張る」
二人が村に戻ると、既にミラとコレットが俺の家の前で待っていた。
「ケンジさん!」ミラが手を振る。「準備はどうする?」
コレットも真剣な表情で言った。
「エルドラントまでの道のりは約一週間。途中で商人の隊商に合流できれば安全だが、単独での移動はリスクが高い」
「隊商に合流する方法はあるのか?」俺が聞く。
「隣町で定期的に隊商が編成される。次の出発は三日後だ」コレットが答えた。「それまでに、必要な資金と商品を準備しなければならない」
俺は頷いた。
「分かった。今日からハーブの加工を本格化する。リア、酒場で情報収集を頼む。どんな商品が都市で求められているか、詳しく調べてくれ」
「任せなさい」リアが力強く答えた。
「ミラは引き続き薬草の勉強を。エルドラントでは、専門知識が武器になる」
「頑張る!」ミラが元気よく返事した。
コレットが付け加えた。
「私は隊商の手配と、エルドラントでの宿の予約を行う。元領主の息子という立場は、まだ多少は役に立つはずだ」
俺は皆を見回した。それぞれが自分の役割を理解し、やる気に満ちている。
——こんな仲間がいれば、きっと成功できる。
「よし、三日後の出発を目標に、全力で準備を進めよう」
村に新たな活気が生まれていた。だが同時に、見えない敵の影も確実に迫っていた。
エルドラントでの戦いは、想像以上に過酷なものになるだろう。だが俺には、信頼できる仲間がいる。そして、前世で培った知識と経験もある。
——今度こそ、必ず勝つ。
朝日が村を照らし、新しい一日が始まった。運命を賭けた戦いの序章が、静かに幕を開けようとしていた。