第5話 帳簿の剣と盾
俺は村の工房で、ハーブの加工作業を見守りながら、手元の羊皮紙に数字を書き込んでいた。原価、輸送費、人件費、そして期待利益率。前世のExcelシートを思い出しながら、頭の中で複雑な計算を繰り返す。
「ケンジさん、これで合ってる?」
ミラが手に持った乾燥ハーブの束を見せてくる。彼女の指先は紫がかった汁で染まり、額には汗が浮かんでいた。俺は束を手に取り、重さを確かめる。
「完璧だ。この調子なら、隣町のアルビン商会が求める品質基準を楽々クリアできる」
「やったー!」ミラが両手を上げて喜ぶと、工房にいた他の若者たちも笑顔を見せた。
しかし、表情は浮かない。羊皮紙に書かれた数字を見つめながら、胸に古い傷がちくりと疼く。前世で部下の作った資料の数字が間違っていて、プレゼンで恥をかいた日。「佐藤君の管理が甘いからだ」と人前で叱責された、あの屈辱感。
——完璧に見えても、どこかに見落としがある。絶対にある。
「まだ足りない」小さくそう口にする。
「え?」ミラが首を傾げる。
「いや、何でもない」苦笑いを浮かべて、羊皮紙を丸めた。
だが、ミラの表情には微かな困惑が浮かんでいた。最近は、時々そんな顔をする。まるで自分たちには見えない何かを見ているような。
「私…本当に役に立ってるのかな」ミラは小さくつぶやいた。
俺は手を止めて、ミラの肩に手を置いた。
「君は十分役に立ってる。むしろ、俺の方が君たちに支えられてるんだ」
「本当?」
「本当だ」
◇
その日の夜、酒場はいつもの薄暗さの中に、村人たちの低い声が響いている。以前とは明らかに雰囲気が違っていた。
「おい、ケンジの奴、今度は何を企んでるんだ?」
「加工品だって?そんなもん、誰が買うんだよ」
「あいつ、一体何者なんだ?ああいう計算とか手続きに詳しいって、普通じゃないよな」
胸の奥がちくりと痛むのを感じる。
「お疲れ様」
カウンターからリアの声が聞こえた。彼女は俺の表情を一瞬見て、慣れた様子で首を振った。
「聞きなさいよ、あんた。さっきから村の連中がごちゃごちゃ言ってるけど、気にすることないわよ」
リアはエールを注ぎながら続けた。
「私の父も昔、香料の商売をしてたの。王都近くで小さな店を構えて、地元のハーブを加工してた。でも…」
リアの手が一瞬止まった。
「エルドラントの大手組合に潰されたのよ」
「組合に?」眉をひそめる。
「『品質が劣る』だの『許可が不十分』だの言いがかりをつけられて、取引先を全部奪われた。でもそれだけじゃなかった」
リアの声が低くなる。
「組合は『品質管理のため』と称して、父の店に『査察』を繰り返したの。週に三回も来る日があった。その度に営業を止められて、お客さんは迷惑がって離れて行った。最後は『違法な添加物を使用している疑い』で告発されたけど、証拠は見つからなかった。でも、もう誰も父の香料を買わなくなってた」
息を呑む。
「それで、ここに?」
「借金まみれでね。この辺境村が唯一の逃げ場だった」リアは苦笑いを浮かべた。「父はそれから酒に溺れて、体を壊した。だから分かるの。商売の怖さも、権力の理不尽さも。でも、あんたは父とは違う」
「何が?」
「嘘をついてる顔をしてないもの」
◇
エールを一口飲んだ時、酒場の扉が勢いよく開いた。村の若者トムが血相を変えて飛び込んでくる。
「ケンジ!大変だ!ガルドの手下が来てる!」
店内がざわめいた。立ち上がる。
「どこに?」
「村の入り口!税務調査だって言ってるけど、明らかにハーブの件で来てるぞ!」
頭の中で、前世の記憶が蘇る。税務調査、監査、コンプライアンス。どれも中間管理職の天敵だった。心臓が早鐘を打っているが、表情には出さない。
——リアの父と同じパターンか…。いや、俺には準備がある。
「分かった。トム、俺と一緒に来てくれ」
「ちょっと待ちなさいよ」リアが俺の腕を掴んだ。「あんた一人で行くつもり?」
「大丈夫だ。相手は役人だ。暴力は使わない。知恵で勝負する」
振り返ると、いつもの皮肉めいた笑顔を浮かべた。
「会社員の十八番、『リスク管理』でいくよ」
◇
村の入り口には、立派な馬車と数人の護衛が待っていた。馬車から降りてきたのは、絹の服を着た中年男性。明らかに都市部から来た役人だった。
「私はアルテシア王国税務署のバートン調査官だ」男性は傲慢な口調で言った。「この村で行われている『不正な交易』について調査に来た」
一歩前に出る。内心では冷や汗をかきながらも、声は落ち着いていた。
「ルナス村で交易を担当している者です。不正とは、具体的にどのような?」
バートンは俺を見下すような目つきで言った。
「ハーブの販売について、適切な税の申告がなされていないとの報告を受けている」
「なるほど」頷く。「確かに、最近交易を始めたばかりで、税務処理に不備があったかもしれません。ただし」
懐から羊皮紙を取り出した。手が微かに震えているのを、バートンに気づかれないよう祈った。
「こちらが現在までの全ての取引記録です。収支、原価、そして予定税額まで全て記載されています」
バートンは眉をひそめた。きちんとした帳簿が存在することを予想していなかった。
「ほう…」バートンは羊皮紙を受け取り、目を通す。「確かに詳細だが、この数字が正確かどうか」
「もちろんです」微笑んだ。「隣町のアルビン商会との取引証明書もあります」
バートンはさらに羊皮紙をめくった。そして、ある箇所で眉をひそめる。
「この『予定税額』だが…これは現在の税率よりも高く設定されているではないか」
「どうせそのうち税率上げてくるだろうと思ってね」肩をすくめる。「先回りして損しない仕組みを作ってるだけさ」
「しかし、ここの計算に誤りがあるようだが」バートンが指摘した。
血の気が引いた。やはり…完璧に見えても、どこかにミスが。
——会議室の蛍光灯。紙をめくる音。
「佐藤君の管理が甘いからだ」。
冷たい視線——
一瞬、前世の記憶が鮮明に蘇り、心臓の鼓動が激しくなった。
バートンが指差したのは、輸送費の項目だった。
「この輸送費、距離に対して安すぎるのではないか?隣町まで馬車一台でこの値段は不自然だ。何か隠している取引があるのでは?」
心臓がドクンと跳ねた。
——まずい…確かに最近、トムの兄が無償で手伝ってくれたから、実際の輸送費は下がってる。でもそれを説明したら、村人の協力関係まで疑われる。
数秒の沈黙。バートンの目が鋭くなる。
「答えられないのか?」
深呼吸した。前世の失敗を思い出す。あの時も、数字の矛盾を突かれて、答えに詰まった。でも今度は違う。
——落ち着け…何百件もの監査をさばいてきたんだ。プレゼンでは失敗したが、数字の整合性チェックは俺の得意分野だった。
「申し訳ありません。こちらが正しい数字です」冷静に別の羊皮紙を取り出した。「事前に検算用の資料も用意しておりました。実は、村の若者が交代で輸送を手伝ってくれているため、人件費が抑制されています。もちろん、彼らへの報酬も適切に記録してあります」
三枚目の羊皮紙を見せた。そこには村人一人一人の作業記録と報酬が細かく記載されていた。
「さらに」続けた。「先ほどの計算でも王国には有利になっておりましたが、正確な数字でも税額に問題はございません」
バートンの目が見開かれた。計算ミスを指摘されても動じず、即座に訂正資料を出すなど、聞いたことがない。
「さらに」続けた。「近々、加工品の製造も開始予定です。こちらも適切な税務処理を行う予定で、既に税額の試算も完了しています」
四枚目の羊皮紙を取り出した。完璧に記入された製造業許可申請書。
バートンは完全に面食らっていた。通常なら「不正を暴いて、罰金を取る」はずの調査が、「模範的な納税者の表彰」に変わりつつある。
「君のような対応は珍しい」バートンは調査書類を丁寧に畳みながら、わずかに表情を緩めた。「まったく…頭が痛くなる調査ばかりだったが、今日は少し違うな。率直に言って、好感が持てる」
「…分かりました。記録を確認した限り、現時点で問題は見当たりません。ただし、今後も適切な申告を怠らないよう」
「もちろんです」丁寧に頭を下げた。「王国への忠誠と、適切な納税は村民の義務ですから」
◇
バートンが馬車に向かう時、声をかけた。
「調査官殿、一つお聞きしたいことが」
「何だ?」
「エルドラントでの商売について、何かご存知でしたら」
バートンの表情が一瞬硬くなった—少なくともそう見えた。
「エルドラント…」バートンは慎重に言葉を選んだ。「あそこは、真っ当にやってる奴が最初に潰される街だ」
「と、いいますと?」
「香料組合の組合長、ヴィクター・クレインという男がいる。『香料王』と呼ばれているが…」
バートンは周りを見回してから声を潜めた。
「私の知る限り、彼に目をつけられた商人で三ヶ月以上持った者はいない。表向きは全て『業界の健全化』だがな」
背筋に冷たいものが走った。
「具体的には?」
「それ以上は…」バートンは首を振った。「ただ、君のような真面目な商人ほど危険だということだけは覚えておけ。偽物の香料問題で組合は神経質になっている」
バートンは馬車に乗り込みながら振り返った。
「忠告は以上だ。…あとは自分で調べることだな」
馬車が走り出す中、バートンは—おそらく—窓から俺を見つめていたのだろう。——あの男…普通の村人ではない。本当に大丈夫なのか?
◇
村への帰り道、トムが俺に駆け寄った。
「すげぇ!あんなにスラスラと!まるで貴族の商人みたいだったぞ!」
「単なる準備の問題だよ」苦笑いを浮かべる。「ただ、危なかった。一箇所突かれた時は本当に冷や汗をかいた」
内心では冷や汗がどっと出ていた。
——やはり完璧はない。でも、準備で何とかなった。今回は。
「それより、エルドラントの話が気になる」眉をひそめた。「ヴィクター・クレインか…『香料のマフィア』とは」
「ああ、その人知ってる!」トムが興奮して言った。「『香料王』って呼ばれてるんだろ?街の香料取引を全部牛耳ってるって」
「月に一度来る行商人のおじさんが言ってたけど」トムは声を潜めた。「クレインに逆らった商人は、みんな『自主的に』街から出て行くって。でも本当は…」
トムは周りを見回してから続けた。
「脅されてるんだ。家族にまで嫌がらせが及ぶから、みんな諦めて逃げ出すんだって」
深刻な表情になった。
——既得権益の塊か…前世の業界団体よりもっと厳しそうだ。
「それに…」トムの声がさらに小さくなる。「最近は変な噂もあるんだ。クレインに目をつけられた商人の香料に、妙な臭いが混じるようになるって。『狙われた印』だと街の人は言ってる。エルドラントは香料で栄えた街だから、そこを握られたら生きていけないんだよ」
◇
その夜、工房では一人のミラが夜なべをしていた。新しい香りの配合を試している。エルドラントで恥をかかないよう、できる限りのことをしたかった。
「ケンジさんを支えたい」ミラは小さくつぶやいた。「私にもできることがある」
彼女の手には、今まで作ったことのない、独特の香りを放つハーブの束があった。不安は消えないが、それを行動に変えようとしていた。
酒場では、俺の「税務調査退散劇」の話で持ち切りだった。
「それで、調査官の奴はすごすご帰って行ったのか!」
「ケンジの書類を見た時の顔と言ったら!」
だが、村人たちの反応は一枚岩ではなかった。
「しかし、あいつ何者なんだ?」老いた農夫が首をひねる。
「あんな完璧な帳簿、普通の若者が作れるか?」
「それに、『会社員』って何だよ。聞いたことないぞ」
リアは村人たちの会話を聞きながら、カウンターで杯を磨いていた。
「お疲れ様」リアが隣に座った。「今日はよくやったわね。でも、顔色悪いじゃない」
「運が良かっただけだ。相手がそれほど有能じゃなかった。それに…一箇所、本当に危なかった」額の汗を拭った。
「でも、エルドラントの話は本気なの?」リアの表情が急に暗くなった。「私、父のことを話したでしょ?あの街は…」
「ああ」真剣な表情になった。「でも、隣町のアルビン商会だけでは限界がある。もっと大きな市場を見つけないと、いずれ行き詰まる」
「ヴィクター・クレイン…」リアは拳を握りしめた。「あいつが父の店を潰したのよ。直接手は下さないけど、組合の権力を使って取引先を脅して、査察を繰り返して…父は最後まで『自分の香料に問題はない』って言ってた。でも、誰も信じてくれなくなった」
リアの目に、一瞬遠い記憶の影が宿る。「父のことを思い出すたびに、悔しくて眠れない夜があった。だけど、私は…復讐じゃなく、証明がしたいの。父の香料が間違ってなかったって」
リアの横顔を見つめた。その目には、父への愛情と、失ったものへの怒りが混在していた。
「だからこそ、行かなければならない」静かに言った。「このままでは、君の父さんと同じ道をたどることになる」
「でも…」
「俺は君の父さんとは違う」微笑んだ。「一人じゃないからな」
リアは俺の言葉の奥にある決意を感じ取った。
「交易の許可証の更新手続きはどうするの?エルドラントに行ってる間に期限が切れたりしない?」
顔が青ざめた。
「……それは盲点だった」
「確か、来月末だったかしら。急げば間に合うけど、余裕はないわね」
「そうか…ありがとう、リア」深く息を吐いた。「君がいなかったら、また同じ失敗をするところだった」
——俺は決して完璧じゃない。でも、それでいいんだ。完璧を目指すより、仲間と支え合う方が大切だ。
翌朝、工房でミラに提案を持ちかけた時、彼女の目には前夜とは違う光があった。
「エルドラント…ですか」ミラの声にはまだ緊張があったが、以前より確信が感じられた。
「君がいないと困るんだ。加工技術を一番よく理解しているのは君だからな」
「実は…」ミラは手に持った小さな袋を差し出した。「昨夜、新しい配合を試してみたんです。これ、どうでしょうか?」
袋を開け、香りを確かめた。目を見開く。
「これは…」
まるで雨上がりの森で、湿った土の香りに花の甘さがそっと重なったような、今まで嗅いだことのない複雑で上品な香り。既存の香料が『色のない単調な音』だとしたら、これは『何重にも響く美しい和音』だった。市場にある一次元的な香りとは全く違う、まさに芸術作品のような深みと奥行きがある。
「どうやって…?」
「いろいろ試行錯誤して」ミラは照れながら答えた。「実は…母が昔、小さな香りの調合をしてたんです。亡くなる前に、少しだけ教えてもらったことがあって。でも、村の人たちみんなが頑張ってるから、私もその知識を活かして何かしたくて。ヴィクター・クレインって人に負けないものを作りたかったんです」
ミラは小さく息をついてから続けた。「この配合、季節によって香りが少しずつ変化するんです。春なら若葉の香りが強く、秋なら深い土の香りが前に出る。組合の香料って、いつも同じ香りでしょう?でも自然って、そうじゃないから」
ミラの肩に手を置いた。
「君は俺が思ってる以上に優秀だよ」
今度は、ミラの表情に不安はなかった。代わりに、静かな決意が宿っていた。
◇
夜空には星が瞬いている。前世では、残業で星を見上げる余裕すらなかった。
「エルドラント、か」
そう口にする。
香りが富を呼ぶ都市、そして絶対的な権力を持つ男が待っている。
「香料王」ヴィクター・クレイン。リアの父を破滅させた男。新参者を決して許さない、エルドラントの支配者。
だが、今度は一人ではない。ミラの新しい配合、リアの的確な助言、そして村人たちの期待。
拳を握りしめた。
「完璧じゃなくていい。仲間と、準備で、俺はやり抜く」
完璧な計画も、完璧な商品も、完璧な自分も必要ない。
大切なのは、信じ合える人たちと共に歩むこと。
商人の激戦区エルドラントで、果たして村のハーブは「香料王」に認められるのか。
全ての答えは、これから始まる旅路の中にある。
不完全だからこそ、美しい。