第4話 村人の心を掴む
「……三十シルバー」
ミラが小さくつぶやいた数字を聞いて、俺は思わず眉をひそめた。昨日のハーブ交易で手に入れた収益を、酒場の奥の小部屋で分配している最中だった。部屋には薄暗いろうそくの明かりが揺らめき、古い木のテーブルに置かれた銀貨が鈍く光っている。
窓の外では、夕暮れの風が麦畑を撫でていく音が聞こえた。いつもなら心地よいその音も、今は妙にざわめいて聞こえる。まるで嵐の前触れのように。
「え? それだけですか?」
リアが父親の薬代を計算していた手を止める。その表情には、期待と不安が入り混じっていた。彼女の指先が、無意識にテーブルの縁を軽く叩いている。コツ、コツという小さな音が、部屋の緊張感を物語っていた。
——やはり足りないのでしょうか。父さんの薬、一瓶で十五シルバーと聞いていたのに……。
心の中で呟きながら、リア自身も自分の反応に驚いていた。いつの間にか、この得体の知れない男の計画に期待している自分がいる。父親の咳が酷くなってから半年、「王都の薬でないと治らない」と薬草師に言われた時の絶望感を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
「……足りない、ですよね」
リアが小さくため息をつき、視線を落とした。部屋に重い沈黙が降りる。
ろうそくの炎が一度、大きく揺らめいた。
ミラも肩を落とし、グレンは深い皺を刻んで眉をひそめる。
数秒の静寂。
誰もが、現実の厳しさを噛み締めていた。
その時——
「いや、これでも十分すぎるくらいだ」
俺はミラの肩に手を置く。彼女の瞳には、数字以上の輝きがあった。
——胸の奥に、暖かいものが湧き上がってくる。まるで凍てついた心に、初めて陽だまりを見つけたかのような感覚だ。あの頃の俺は、売上表の数字だけを追いかけていた。人の表情なんて、見ようともしなかった。けれど今、この子たちの顔に浮かぶ希望の光を見ていると、数字の向こうにある本当の意味がようやく分かる気がする。
「前の月の村全体の収入が五シルバーだったんだろう? 今回はその六倍だ」
「ろ、六倍!?」
ミラの声が上ずる。計算が苦手な彼女でも、その数字の意味は何となく分かった。手のひらで口を押さえ、信じられないといった表情で俺を見つめている。
——わあ! すっごいじゃん! あたしでも、村の役に立てるじゃん!
胸の奥で、今まで感じたことのない誇らしさが膨らんでいく。普段は畑仕事の手伝いばかりで、村の大事な話になると子供は黙ってろと言われることが多かったのに。
「すっげー! ケンジ、やるじゃん!」
ミラの無邪気で率直な驚きが、部屋の空気を一瞬明るくした。リアの表情にも、希望の光が戻ってくる。
——この瞬間を、俺は忘れないだろう。会議室の冷たい蛍光灯の下で、グラフと数字だけを見つめていた日々とは、まるで別世界だ。人の笑顔がこんなにも美しいものだったなんて、知らなかった。
だが、長老のグレンは腕組みをしたまま、疑念を隠そうとしない。深く刻まれた皺が、ろうそくの光でより深く見える。
「……一度の成功で有頂天になるのは早すぎる」
その一言で、部屋の空気が重くなった。リアの眉がピクリと動く。
——また始まりました。この方は、二十年前の詐欺師の件で、まだ……。
「グレンさま、それは……」
「リア、いいんだ」
俺は彼女を制した。実際、グレンの懸念はもっともだった。
——俺の中にも、同じ不安がある。一時の成功に酔って、足元をすくわれる。そんな失敗を、何度も見てきた。だからこそ、この人たちを同じ目に遭わせるわけにはいかない。俺が背負うべき責任は、思っているより重いのかもしれない。
「グレンさんの言う通りです。これは始まりに過ぎません」
グレンの皺だらけの顔に意外そうな表情が浮かぶ。
——この男、思ったより素直だな……。他の詐欺師たちとは違う何かがある。
「ただし」俺は続けた。「近いうちに、ガルドが増税を発表するでしょう」
その瞬間、三人の表情が一気に曇った。
「やはり……」
リアが小さくため息をつく。
「えー! どんくらい上がるの?」ミラが眉を寄せて尋ねる。子供らしい直球な質問だった。
「おそらく、現在の四倍。つまり、今回の利益なら十二シルバーの税金だ」
「じゅ、十二シルバー!?」
リアが驚愕の声を上げた。せっかくの利益が、ほとんど税金で消えてしまう。
——結局、何も変わらないじゃありませんか……。
「でも、そんなものに怯える必要はありません」
俺は自信を込めて言った。
——ここが正念場だ。あの頃の俺が学んだ全ての知識を、今度は違う目的のために使う。大企業の役員室で囁かれていた秘密の手法を、小さな村の人たちのために。これは復讐ではない。償いだ。
「つまり、村全体で一つの事業としてやるってことです」
「それは……どういう意味でしょうか?」
リアが眉をひそめて尋ねる。慎重で理知的な彼女らしい反応だった。
「例えば、リアさんの酒場の仕入れ費用も、ミラの家の種代も、全部『村の経費』にできる」
俺は指で簡単な計算を空中に描いてみせた。
「売上三十シルバーから、経費二十七シルバーを引く。残りは三シルバー。税金は実質的に大幅減額される」
「経費って……種代とか、お酒の仕入れとか?」
リアが身を乗り出す。
「そう。それだけじゃない。農具の修理費、馬車の維持費、村の道路補修費、みんなの食費の一部まで経費にできる」
「え! ごはん代まで!?」
ミラが目をまん丸くした。子供らしい率直な驚きだった。
「『事業に関わる会食費』として処理する。王都の商人なら当たり前にやってることだ」
——これが、あの冷酷な世界で学んだ唯一の宝物かもしれない。金を稼ぐ技術ではなく、人を守る知恵として。
「実質三シルバーまで下げられる」
「三シルバー!?」
リアが驚いて声を上げた。
——九シルバーも浮きます……。父さんの薬を半年分買えるかもしれません。
リアの心の中で、長い間閉ざされていた希望の扉が、再び開かれようとしていた。
「本当に……そのようなことができるのでしょうか?」
リアの声に、初めて純粋な期待が込められていた。慎ましやかだが、心からの願いが滲んでいる。
「完全に合法です。王都の大商人は皆こうやってる」
「やったー! ケンジ、すっげー!」
ミラが手を叩いて喜んだ。その純粋な喜びが、部屋を明るくする。
グレンが深く考え込んでいる。
——本当にそんなことが可能なのか……。だが、この男は他の詐欺師とは違う。具体的な数字を出し、理屈も通っている。
「しかし」グレンが慎重に口を開く。「それが、ガルド様に見つかったら……」
「見つかる?」俺は微笑んだ。「いえ、むしろこちらから正式に申請します」
三人が同時に俺を見つめた。
「『村全体の共同事業化』を、正式な書類として提出する。これで完全に合法化される」
——これが俺の切り札だ。隠れて節税するのではなく、堂々と法の抜け道を利用する。正面突破こそが、最も安全な方法だということを、あの世界で学んだ。
その時、外から馬の蹄の音が聞こえてきた。
パカラ、パカラ、パカラ……
複数の馬だ。そして、その音は酒場に向かって近づいてくる。
「……もう来たか」
俺は苦笑いを浮かべた。
——まるで舞台の幕が上がるタイミングを知っているかのようだ。この世界でも、権力者の動きは読みやすい。
「え?」
三人が同時に振り返る。
酒場の扉が乱暴に開かれ、見慣れない男が入ってきた。ガルドの紋章をつけた、中年の男だった。その冷たい目は、まるで獲物を狙う鷹のようだ。後ろには書記と武装した兵士が二人、村人たちを睨みつけている。
兵士たちの鎧は磨き上げられ、剣の柄には宝石があしらわれている。明らかに、ただの徴税官ではない。ガルドの直属部隊だった。
調査官の顔には、貴族特有の傲慢さが刻まれている。恐らく、ガルドの親戚か側近だろう。彼の纏う威圧感は、生まれながらにして他人を見下すことを覚えた男のものだった。
「税務調査だ」
男の声は氷のように冷たく、有無を言わせない威圧感があった。村人たちがざわめき、何人かは震え上がっている。
「この村で不審な商取引があったという報告を受けている。全ての帳簿を提出してもらう」
兵士の一人が剣の柄に手を置く。明らかな威嚇だった。その剣は実戦で使われたものらしく、柄の部分に小さな傷がいくつも刻まれている。
村人たちの間に、恐怖の波が走った。子供を抱えた母親が慌てて家の中に逃げ込み、老人たちは震え声で何かを囁き交わしている。だが、酒場の近くにいた何人かの村人は、俺たちの方をちらりと見た。まるで、僅かな希望の光を求めるように。
「きっと大丈夫です……ケンジさんが何とかしてくださいます」
誰かが小声でつぶやいた声が、震える空気に混じった。
——来やがったか。予想より早い。
俺とリアの目が合った。
「タイミングが良すぎますね」
リアが小声でつぶやく。その声には怒りが込められていた。理知的な彼女らしく、状況を冷静に分析している。
——昨日の取引を知っている。誰かが密告したのでしょう。
「ああ、偶然じゃないな」
俺も小声で返しながら、ポケットの中の羊皮紙に手を触れた。昨夜、こうなることを想定して準備した書類だった。
——戦場は既に決まっていた。俺がこの村に来た時から、この瞬間は避けられなかった。だが今度は、守るべきものがある。この村の人たちを、絶対に見捨てない。
「でも、準備はできています」
リアが微笑んだ。その笑顔には、恐れよりも闘志が宿っていた。慎ましやかだが、芯の強さを感じさせる表情だった。
——この方についていけば、何かが変わるかもしれません。
「ケンジー……」
ミラが不安そうに俺の袖を引っ張る。子供らしい素直な不安が、その声に込められていた。
「大丈夫だ。想定内だから」
俺はミラの頭を軽く撫でた。
「みんな、今から俺が教えた通りにやろう」
グレンが立ち上がる。
「……わしも、協力させてもらおう」
その瞬間、長老の威厳が戻ってきた。長年この村を守ってきた男の、最後の意地だった。
——この若者に賭けてみるか。
税務調査官が威圧的に村人たちを見回している。村人たちは怯えているが、俺たちだけは違った。
「……例の書類は持ってきてるな?」
「もちろん。想定内です」
俺はポケットから羊皮紙を取り出した。
——こういう威圧的な奴には、逆に堂々と行くのが一番効果的だ。プレゼンの鉄則は、相手のペースに巻き込まれないこと。
調査官に向かって歩く。
一歩、また一歩。
酒場の空気が、ぴたりと凍りつく。
村人たちの息遣いさえ止まったかのような静寂。
俺の足音だけが、石床に響いた。
調査官の冷たい目が、俺を値踏みするように見つめている。
「村の共同事業に関する正式な申請書類です」
沈黙。
一呼吸。
そして——
「パン!」
羊皮紙の角が、調査官の前の机に鋭く打ちつけられた。
乾いた音が酒場に響く。
調査官が目を細めて書類を覗き込む。その瞳に、初めて動揺の色が浮かんだ。
「ご確認ください」
俺の声は、静かだが確信に満ちていた。
調査官の指が、書類の文字を追っている。その指先が、微かに震えているのが見えた。
——全てはここからだ。あの冷徹な世界で培った全ての技術を、今度は人を守るために使う。
長い戦いの、本当の始まりだった。