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第3話 小さな一歩、大きな希望

 夜明け前の冷たい空気が頬を刺す中、俺は既にハーブ畑に立っていた。昨夜は興奮と不安で一睡もできず、結局こんな時間に起きてしまった。


『また失敗するんじゃないか』——その声が頭から離れない。


 前世でも何度も大きな勝負をしてきた。でも成功の保証なんてどこにもなかった。むしろ、裏切られた記憶のほうが濃い。部下の笑顔の裏にあった冷たい計算、信じていた同僚が準備していた足の引っ張り合い。あの時の胃をえぐるような不快感が、今また蘇ってくる。


「あれ、ケンジさん?もうこんな時間から?」


 背後から聞こえた声に振り返ると、ミラが驚いた顔で立っていた。手には弟妹の朝食用なのか、小さなパンの包みを持っている。いつもより顔色が良い。


「おはよう、ミラ。早いな」


「私、下の子たちのお世話があるから、いつも早起きなの。でも、マルの熱、昨日ケンジさんがくれたハーブティーですっかり良くなったの!」


 ミラの表情に喜びの色が踊っている。小さな肩から、いつもの重荷が少しだけ軽くなったように見えた。


「本当か?良かった」


「うん!だから今朝はお礼に…これ、よかったら」


 ミラが差し出すパンは小さくて少し焦げていたが、彼女の温かい気持ちがそのまま伝わってきた。前世では、こんな風に純粋な善意を受け取ることがあっただろうか。


「…ありがとう。助かる」


 俺がパンを受け取ると、ミラがほっとしたような笑顔を見せた。その瞬間、夜明けの光が彼女の顔を優しく照らす。


 朝霧が静かに畑を包んでいる。遠くで鳥が一声鳴いた。


「心配?ケンジさんでも心配するんだ」


「俺だって人間だ。失敗したらどうしようって考えると…正直、怖い」


 俺は弱音を吐いた。彼女の前では、強がる必要がないような気がした。


「でも、きっとうまくいく。ケンジさんのハーブは、もう魔法みたいなんだから」


 ミラの無邪気な励ましに、俺の緊張が和らいでいく。この子の前向きさには、いつも救われる。前世で失った何かを、彼女が思い出させてくれるような気がした。


 ◇


 やがて、他の仲間たちも集まってきた。トムは父親の農作業を手伝ってから来たのか、手に土が付いている。彼の真摯な働きぶりを見ていると、責任の重さを改めて感じる。ロイドは元猟師らしく、既に完全に目が覚めている様子だ。


「おはよう、みんな。今日は大事な日だ」


「ああ、分かってる。でも…」


 トムが言いかけて口をつぐんだ。彼の手が微かに震えているのが見えた。


 風が吹いて、ハーブの葉がさやさやと音を立てる。


「失敗を恐れる気持ちは分かる。俺も同じだ」


 俺は正直な気持ちを話した。嘘をついても、きっと見抜かれてしまう。


「でも、何もしないで諦めるよりは、挑戦した方がいい」


「前の世界でも、こういうことやってたの?」


 ロイドが興味深そうに聞いてきた。その目には警戒心もあるが、俺を理解しようとする意欲も感じられた。


「似たようなことはやってた。でも、正直言うと、失敗も多かった」


「失敗って?」


「仲間を信じすぎて、裏切られたことがある」


 俺の声が少し低くなった。あの日の記憶が鮮明に蘇る。


「その時は…正直、人を信じることが怖くなった。でも、今は違う気がするんだ」


「どう違うの?」


 ミラが素直に聞いてくる。その純粋さが、俺の心を少しずつ癒していく。


「君たちは、自分の利益のためじゃなく、村のために動いている。それに…君たちと一緒にいると、また人を信じてみたくなる」


 ……。


 静寂が畑を包んだ。朝霧の中で、四人だけの大切な時間が流れる。


「よし、始めよう」


 ロイドが最初に動き出した。その決意に満ちた表情を見て、俺の胸にも勇気が湧いてくる。


「ああ、やろう」


 トムも決意を固めたようだ。


 ハーブの収穫作業を始めて間もなく、見知らぬ男性が現れた。身なりは村人にしては上品で、靴も泥で汚れていない。だが、その目つきには何か冷たいものがある。


「おはようございます。素晴らしい朝ですね」


 男性の声は丁寧だが、どこか探るような響きがある。俺の背筋に冷たいものが走った。


「おはようございます。どちら様でしょうか?」


「マーカスと申します。隣村から来た商人です」


 男はそう言いながら、指先で懐の小袋を弄んでいる。金貨の音が小さく響いた。金に慣れ親しんだ者の癖だ。


「この辺りでハーブの収穫をしているという話を聞きまして」


 商人か。だが、その表情には商人らしい人懐っこさがない。むしろ、獲物を狙う狩人のような鋭さがある。


「そうですか。どのような話を?」


「ルナス村で新しい交易を始めるという噂を小耳に挟みまして。私も薬草の取引をしているものですから、興味深くて」


 マーカスの目が、俺たちの作業を注意深く観察している。特に、ハーブの品質や収穫方法に関心があるようだ。しかし、それ以上に俺たちの人数や動きを把握しようとしているのが分かる。


「まだ始めたばかりですから、大したことはしていません」


「謙遜されますね。隣町でも需要があるでしょう。最近は金貨五枚前後で取引されていますからね」


 正確すぎる数字だ。これは俺が昨日の会議で言った数字と同じ。偶然にしては出来すぎている。


 俺の隣で、ロイドが微かに身を固くしたのが分かった。元猟師の勘が、何かを察知したのだろう。


 その時、マーカスの視線がミラに向いた。彼女の無邪気な表情を見て、何かを企んでいるような笑みを浮かべる。


「お嬢さんは村の方ですか?」


「はい!私、ミラです」


 ミラが人懐っこく答えた瞬間、俺の胸に嫌な予感が走った。


「ケンジさん、この辺りの収穫は終わったよ」


 トムが絶好のタイミングで声をかけてくれた。


「ありがとう。じゃあ、加工作業に移ろう。マーカスさん、申し訳ありませんが、これから村の内部作業になりますので」


「ああ、もちろんです。お邪魔しました」


 マーカスは丁寧に頭を下げて立ち去っていく。しかし、その背中には勝ち誇ったような雰囲気があった。


 ◇


 村の共同作業場に移動し、ハーブの乾燥と包装作業を始めた。しかし、先ほどの出来事で全員の表情が硬い。


 そんな時、ミラがそっと温かい紅茶を差し出してくれた。


「これ、家で少しだけ採れたハーブよ」


 湯気に包まれる香りが、焦燥した心を少しだけ落ち着けた。


「あの人、なんか変だった。でも大丈夫!ちゃんと偽の情報を教えといたから!」


 ミラが得意げに言った。その表情に不安は見えない。


「どんな情報を?」


「来週の金曜日に、東の道を通って大量のハーブを運ぶって!本当は明後日、南の道よね?」


「よくやった」


 ミラの機転に、俺は内心で安堵した。彼女の純粋さは武器にもなる。


 品質チェックの作業を進めていると、サラが現れた。村の記録係をしている女性で、普段は大人しいが、実は村の歴史に詳しい。


「ケンジさん、昨夜から村の古い記録を調べていたんです」


 サラは持参した古い帳簿を広げた。その丁寧な字体から、彼女の几帳面さが伝わってくる。


「十五年前まで、ルナス村の税率は収穫量の二割でした。でも、ガルドが管理するようになってから、段階的に上がって、今は四割になっています」


「倍になっているのか…」


 数字の重みが、空気を重くした。


「それだけではありません。十五年前の記録には、村の人口が今より三割多かったことも書かれています」


 つまり、ガルドの搾取によって、村の人口まで減少したということだ。


 昼頃になって、酒場からリアがやってきた。しかし、その表情はいつもより険しい。


「お疲れさん。昼飯持ってきたわよ」


 リアが持参した食事を受け取りながら、俺は彼女の顔色が良くないことに気づいた。


「リア、何かあったのか?」


「…別に。ただ、昨夜考えてたのよ」


 彼女の声に、普段にない重さがあった。


「十五年前のこと?」


「そう。あの時も、外から商人が来てね。『村を豊かにしてやる』って甘い言葉で」


 リアの目が遠くを見つめている。


「最初はうまくいってた。新しい作物、新しい交易。みんな希望に満ちてた。私も…信じてた」


「でも?」


「でも、ある日突然消えたのよ。持ち逃げ。前金で渡した金貨五十枚、全部」


 金貨五十枚。それは村にとって大金だっただろう。


「その後、村の人たちの私を見る目が変わった。『リアが商人を連れてきたせいだ』って」


 彼女の声が震えていた。


「だから…あんたのことも、信じたいけど怖い。もし失敗したら、また私のせいになるかもしれない」


 …。


 しばらく誰も言葉を発しなかった。風が作業場を通り抜けていく。


「リア」


 俺は彼女の目を真っ直ぐ見た。


「俺は逃げない。たとえ失敗しても、最後まで責任を取る」


「そんなこと、誰でも言えるわ」


「ああ、誰でも言える。でも、俺は君たちと一緒にいることを選んだ」


 リアの表情が少しずつ変わっていく。


「前の世界で、俺は一人で全部背負い込んで失敗した。でも今は違う。君たちがいる」


 彼女の頬が、わずかに赤く染まった。


「…バカね。そういうこと、最初から言いなさいよ」


「すまない」


「でも、約束よ。本当に責任を取るのよ」


「ああ、約束する」


 ◇


 翌朝、俺たちは予定通り隣町に向かった。ハーブを詰めた荷車を引きながら、未舗装の道を歩いていく。


 朝の空気は清々しく、俺の心にも希望が満ちていた。しかし—


「あれ?荷車が軽くない?」


 ロイドが首をかしげた。


 俺たちが荷車を確認すると、包装されたハーブの一部がない。


「盗まれた?」


 俺は荷車の底を調べた。そこには小さな穴が開いている。さらに、荷車を固定していた縄の結び目が、俺たちが使った結び方とは違っていた。


「これは…わざと穴を開けられたな。しかも、荷車の鍵の位置を正確に知っている者の仕業だ」


 俺は血の気が引くのを感じた。


 その時、俺は昨日の作業を思い返した。サミュエルという村人が、やけに荷車の構造に詳しかった。「初めて見る」と言いながら、手慣れた様子で縄を結んでいたのを思い出す。


「内部の人間が…?」


「可能性が高い。でも、まだ取引はできる」


 風が冷たく頬を撫でていく。


 隣町に着くと、市場は既に活気に満ちていた。商人たちの声、荷車の音、そして様々な匂いが混じり合っている。


 リアの紹介で薬草店を回り、商品を売り歩く。


 最初の店では、店主が俺たちのハーブを手に取り、じっくりと品質を確認した。


「おお…これは良い香りだ。色も申し分ない」


 店主が感心したように呟く。俺の心臓が高鳴った。


「これなら金貨三枚で買い取ろう」


「ありがとうございます!」


 その瞬間、俺の胸に熱いものが込み上げた。初めて、自分たちの努力が形になった瞬間だった。


 二軒目の店では—


「この品質なら、うちでも扱いたい。金貨四枚でどうだ?」


 三軒目では—


「素晴らしい。金貨三枚で」


 最終的に、金貨十枚の売り上げを得ることができた。


「やった…やったぞ!」


 トムが小さく叫んだ。リアも、ロイドも、みんな顔を輝かせている。


「十枚枚か…」


「予定より少ないけど、でも—」


「いや、これは大成功だ」


 俺はみんなを見回した。


「初回でこれだけ売れたということは、品質が認められたということだ。次はもっとうまくいく」


 帰り道、夕日が俺たちの影を長く伸ばしていた。みんなの足取りが軽い。


 村に戻ると、ミラが手を振りながら駆け寄ってきた。


「おかえりー!どうだった?」


「成功だ。金貨十枚」


「やったー!」


 ミラが跳び上がって喜んだ。その純粋な喜びが、俺の心を温かくした。


 その夜、酒場では小さな祝賀会が開かれた。


「本当に金貨十枚も?」


「信じられない…」


「これで税金も少しは楽になる」


「子供たちにも、久しぶりに良い服を買ってやれる」


 村人たちの表情が、久しぶりに明るい。子供たちも嬉しそうに走り回っている。


「ケンジさんのおかげだ」


「いや、みんなのおかげだ」


 俺は村人たちを見回した。


「これはまだ始まりに過ぎない。みんなで力を合わせれば、もっと大きなことができる」


 拍手が響いた。温かい拍手が。


 夜が更けて、一人になった俺は酒場の二階の部屋で窓の外を見つめていた。


 星空が美しい。


『前世では、何をやってもうまくいかなかった。努力しても、報われることは少なかった。一人で全部背負い込んで、結局は失敗ばかり』


 胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。


『でも今は違う。仲間がいる。一人じゃない。だから、今度こそ…みんなで幸せになれる』


 涙がこみ上げそうになったが、俺はそれを抑えた。まだ始まったばかりだ。


 ◇


 石造りの重厚な館の奥で、ガルドは暖炉の前に座っていた。手には赤ワインのグラス、そして机の上には魔法の鏡が置かれている。


『報告します』


 鏡からマーカスの声が響いた。


「で、どうだった?」


『予想以上に組織的です。しかし、小細工で商品の一部を奪うことには成功しました。それに、村の内部に協力者を確保できました』


「ほう…それで連中はどんな反応を?」


『動揺した様子はありませんでした。むしろ、予想していたかのような冷静さで』


 ガルドの目が細くなった。彼は立ち上がり、窓の外に広がる自分の領地を見つめた。


「つまらん連中が、少しは学習したか」


 彼の脳裏に、八年前のことが蘇った。隣の谷間の村が、彼の支配に逆らって独自の交易を始めた。結果は…全焼した村と、路頭に迷った村民たち。


 だが、今回は違う手を使ってもいい。


「マーカス、ルナス村周辺の土地の権利書を調べろ。それと、隣町の商会に話をつけておけ」


『と、申しますと?』


「奴らの商品を買い取る店を、すべて我々の傘下に置く。合法的にな」


 ガルドの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


「村を焼くのは簡単だが、希望を与えておいてから奪い取る方が、はるかに効果的だ。絶望の味を、じっくりと教えてやろう」


『なるほど…さすがです』


「それに、ルナス村が失敗すれば、他の村も『やっぱり無理だった』と諦める。見せしめとしては完璧だ」


 鏡の光が消えると、館には再び静寂が戻った。ガルドは再びワインを口に含み、暖炉の炎を見つめた。


「楽しくなってきた…小さな希望を育てて、それを完全に粉砕する。これこそが真の支配だ」


 ◇


 翌朝、俺は早起きして村を見回っていた。昨夜の成功の余韻はあるが、同時に新たな脅威への警戒も怠れない。


 村の入り口近くで、見慣れない馬の蹄跡を発見した。しかも、複数頭分だ。


『昨夜、誰かが村に近づいていた…?』


 背筋に冷たいものが走った。マーカスの小細工だけでは終わらない。ガルドは、もっと本格的な手段を準備しているかもしれない。


 そして、村の中にも敵がいる。


 でも、俺はもう一人じゃない。仲間がいる。村のみんながいる。


 俺の心に、新たな戦いへの覚悟が芽生えた。小さな一歩は踏み出せた。本当の勝負はここからだ。


 村に希望の光が灯り始めた今、それを守り抜かなければならない。たとえ相手がどんな手段を使ってきても。


 朝日が村を照らす中、俺は拳を握りしめた。希望という名の光を、絶対に消させはしない。

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