第1話 社畜の終焉と異世界の始まり
「佐藤さん、例の件、明日までに何とかしてくれる?」
上司の山田が俺のデスクに肘をついて、いつものように無責任な笑顔を浮かべている。時計は既に午後十一時を回っていた。オフィスに残っているのは俺を含めて三人だけ。蛍光灯の白い光が、山田の薄くなった頭頂部を照らしている。
「承知しました」
俺は画面から目を離さずに答えた。肩が石のように凝り固まり、背筋がピリピリと痛む。指先が冷たくなっているのを感じながら、脳内で即座にタスクが整理される。要件定義二時間。データベース設計一時間。実装四時間。テスト二時間。合計九時間。睡眠時間を削れば、何とかなる。
これで今日は六件目の「明日まで」案件だ。山田が持ち込んだプレゼン資料の修正、営業部からの緊急システム変更、総務からの四半期レポート作成、人事部のマニュアル更新、経理の帳簿システム調整——そして今回の案件。
「助かるよ〜。じゃあお疲れ!」
山田は満足そうに帰っていく。俺の胃が鈍く痙攣し、胸の奥で不安がざわざわと蠢いた。息が浅くなる。いつものことだ。胃の痛みなんて、胃薬で誤魔化せばいい。定時で帰ることが悪だと本気で信じている俺には、体調不良すら甘えに思えてしまう。
「KPI未達の人生でも、愛があれば何とかなるよな」
隣で居眠りする新人の鈴木に小さくつぶやく。彼の結婚式のスピーチも、俺のタスクのひとつだ。「佐藤さんは仕事一筋で結婚もしてないから、愛について語ってください」——新郎からのリクエストが、俺の心臓を的確に撃ち抜いていた。
震える手を無理に押さえつけ、画面の文字を淡々と打ち続ける。キーボードを叩く音が異様に響いて聞こえる。頭では冷静にタスクを整理しているのに、胸の奥では疲労がまるで暗い霧のように心を覆い、逃げ場のない閉塞感を生んでいた。それでも俺は無言のまま、責任を背負い続けるしかなかった。
コーヒーは七杯目。カフェインで誤魔化している心臓の鼓動が、指先の震えとなって現れる。
失敗した部下のミスは上司の責任。それが俺の信念だった。だからこそ、俺は絶対に失敗できない。休むことができない。この狂気じみた責任感こそが、俺を四十年間支えてきた唯一のアイデンティティだった。
でも、今夜は違った。
鏡に映った自分の顔を見た瞬間、俺は震え上がった。そこにいたのは笑っていない自分だった。いや、笑えない自分だった。目の下には深いクマ、頬はこけ、もはや人間というより壊れかけた機械のような表情。
「あ...」
視界がぐらりと揺らぎ、意識が途切れた。
◇
目を開けると、青い空が見えた。
「これは...現実逃避の夢か?」
俺は慌てて身体を起こす。そこは見知らぬ草原だった。遠くに中世風の家々が点在し、煙突から白い煙が立ち上っている。空気が澄んでいて、都市部では嗅いだことのない土と草の匂いがする。鳥のさえずりが聞こえ、風が頬を撫でていく。
だが、何かが妙だった。空気に微かな重圧感がある。まるで見えない何かが、この土地全体を覆っているような——
立ち上がろうとして、違和感に気づいた。身体が軽い。関節の痛みがない。手を見ると、明らかに若返っている。慌てて水たまりに顔を映すと、二十歳頃の自分がそこにいた。
「プロジェクト管理の観点から言えば、これは想定外の仕様変更だな」
俺は冷静に状況を分析しようとした。だが、心の奥底では既に理解していた。これは夢ではない。そして——戻れない。
十分ほど歩くと、石造りの家が並ぶ小さな村に着いた。人々が行き交っているが、表情に統一性がある。諦め、という共通項だ。それだけではない。村人たちの動きがどこかぎこちない。まるで見えない鎖に繋がれているような——
子供の笑い声が聞こえないのも気になる。組織運営に問題あり——俺の職業病が発動する。
「あんた、見ない顔だな。まーた異世界人か」
男性は俺を見ると、まるで不良品を見るような表情を浮かべる。四十代後半、日焼けした肌、筋肉質だが疲れ切った目をしている。農民だろう。だが、その目の奥に妙な恐れのようなものが宿っているのが気になった。
「魔法でも使えるならまだしも...。何だ、素手か? スキルもなしかよ」
「えっと...」俺は言葉に詰まった。喉が渇いている。「プロジェクト管理くらいしか...できません」
魔法もスキルもない。四十年間積み重ねてきた経験も、この世界では何の意味もない。自分がいかに無力かを、改めて思い知らされる。胸の奥で屈辱感が燻った。
「はあ? 何それ?」男性の顔が更に険しくなる。「結局何もできないってことじゃないか。最近そんなのばっかりなんだよ」
周囲にいた他の村人たちの反応は多様だった。
「また役立たずが来たよ」と鋭い声を上げる男は、拳を固く握りしめていた。怒りが滲み出ているが、その怒りの矛先が俺だけに向けられているわけではないことが分かる。
一方、老婆は肩を震わせて目を逸らす。言葉少なに、静かに悲しみを飲み込んでいるようだった。その震えは寒さからではない。恐怖だ。
少女は俺をじっと見つめ、震える唇でかすかに呟いた。「でも、何もしないよりは、何か変わるかもしれない」十四、五歳だろうか。まだ希望を捨てていない瞳をしているが、その瞳の奥に諦めの影が忍び寄っているのも見える。
背中を丸めた老人は杖にもたれかかり、深くため息をついた。「夢見てる暇なんて、もうないんだよ。『あの夜』から、何もかも変わっちまった」
そして商人風の男が最も現実的な意見を、淡々とした口調で述べる。「税金の足しにでもなってくれればいいんだけど。でなきゃ、また『選定』が——」
「シッ!」老婆が慌てて男を制した。「そんなこと、軽々しく口にするもんじゃない」
『あの夜』『選定』——何か重要な情報が隠されている。俺の分析脳が警告を発した。
最後の言葉に、俺の背筋が凍った。税金の足し? まさか——
当惑している俺の前に、一人の女性が現れた。赤茶色の髪を後ろで束ね、エプロンを着けている。二十歳前後だろうか。美人だが、目に深い影がある。彼女だけは、俺を見る目が違った。哀れみでも軽蔑でもない——理解、に近い何かだった。
「あんた、さっきから村人を困らせてるのは聞いてるわよ」
女性は腰に手を当てて、俺を見上げる。その瞬間、俺は彼女の瞳の奥に何かを見た。諦めと、そして——怒り。だが、それ以上に深い絶望が根を張っている。
「すみません。道に迷って...」
「ふーん。で、何ができるの? まさか『勇者』とか名乗るつもりじゃないでしょうね」
皮肉たっぷりの口調だった。だが、そこには自分自身への皮肉も込められているように感じた。
「勇者なんて、そんな...。ただの会社員です。魔法も使えないし、特別なスキルもない。本当に、何もできない人間で...」
自嘲気味に言った瞬間、女性の表情が微かに変わった。同情ではない。共感に近い何かだった。
「会社員? 何それ、商人?」
「まあ、似たようなものですかね...」
女性は俺をじっと見つめた後、複雑な表情を浮かべる。
「...あんたみたいな『役立たず』見てると、昔の自分を思い出すのよ。私も昔は魔法が使えなくて——」
その言葉には、深い傷が込められていた。
「ついてきなさい。とりあえず話は聞いてあげる。でも期待はしないでよ。期待すると、裏切られるから」
◇
彼女について行くと、「月の雫亭」という看板の酒場に着いた。昼間なので客はほとんどいない。奥の席に座ると、女性は俺の向かいに腰を下ろした。
酒場の中は薄暗く、古い木の匂いがする。だが、どこか陰鬱な雰囲気が漂っている。壁に掛けられた絵の中の人物たちの表情が、妙に暗いのが気になった。
「私はリア。この酒場の娘よ。まあ、今はね」
「佐藤...いえ、ケンジです」
「ケンジね。で、本当に何もできないの? 魔法とか、特殊な武器とか」
俺は首を振る。リアの表情に、一瞬だけ安堵のようなものが浮かんだ。
「そう...また厄介な奴が来たわね。この村、そんな余裕ないのよ。税金さえなければ...! そしたらあの人だって——」
リアは言いかけて、口を閉ざした。だが、その一瞬の表情に、俺は大きな喪失感を見た。深い愛情と、それを奪われた怒りが混在している。
「税金って?」
「見て分からない? この村、もう終わりかけてるのよ」
リアは窓の外を指した。確かに、村人たちの表情は暗く、建物も古びている。よく見ると、空き家も多い。人口流出の典型的なパターンだ。
「ガルド様の税金がきつくてね」
リアの声に苦々しさが滲む。
「毎年上がってるの。三年前は銀貨五十枚だった。去年は金貨三枚。今年は金貨五枚よ」
「それに加えて交易路も封鎖された。物も売れない。若い奴はみんな村を出て行く」
税収管理の基本ができていない。俺の分析脳が自動的に判断する。適正な税率を超えた徴収は、最終的に税収の減少を招く。経済学の初歩だ。
「でも、それだけじゃない」リアの声が更に低くなった。「三年前の『あの夜』から、この村には呪いがかかってるの」
「呪い?」
「昔からこの村には守護霊がいたのよ。村を豊かにしてくれる精霊が。でも三年前、ガルド様が無理やりその精霊を封印した。それ以来、村は衰退の一途を辿ってる」
俺の現代的な合理主義が反発する。呪いなど科学的根拠がない。だが、この異世界では魔法が存在する。もしかすると——
「そして毎年、『選定』が行われる。村から一人を選んで、ガルド様に差し出すの。税金の代わりにね」
選定。先ほど村人が口にしていた言葉だ。
「ガルドって?」
「この辺りを治める貴族様よ。でも最近は変わった。昔はもう少しまともだったのに、三年前から急に強欲になって...。まるで何かに憑かれたみたいに」
全てが三年前に集約される。精霊の封印、税金の急増、ガルドの�豹変——偶然にしては出来すぎている。
その時、酒場の扉が勢いよく開いた。茶色の髪をツインテールにした少女が駆け込んでくる。十六歳くらいだろうか。息を切らしており、頬が赤い。
「リアお姉ちゃん! 大変! また税金の取立てが来てる!」
「え? もう? 今月払ったばかりなのに...」
リアの顔が青ざめる。血の気が引いていくのが分かる。少女はその時、俺に気づいた。
「あ、この人誰? 見ない顔だけど」
「ミラ、この人はケンジ。また異世界から来た人よ」
「えー、また? 最近ほんとに多いね...」
ミラは少し表情を和らげた。
「でも、魔法が使えないってだけで追い出されたの、私だけじゃないんだ…。なんか、それだけで、少し救われた気がする」
ミラは明るく笑いながら言ったが、その笑顔は少し歪んでいた。承認欲求の発露。俺の分析脳が即座に判断した。だが、それを責める気にはなれなかった。
「でも、リアお姉ちゃんに拾ってもらったから、もう離れたくないの! だから頑張る!」
依存関係の形成。俺は心の中でメモを取る。
「で、税金の件、どうなってるの?」
「それが...今度は『特別税』だって。村の維持費とか何とか言って、また金貨十枚要求してるの。そして——」
ミラが震え声で続ける。
「今度の『選定』の候補者リストも渡された。私の名前も...入ってた」
酒場の空気が凍りつく。リアの顔が真っ青になった。
「十枚?! そんな金、どこにあるのよ!」
リアが椅子から立ち上がる。酒場の他の客たちも、ざわめき始めた。
「また税金上がったのか...」ある男が頭を抱える。声が震えている。
「もう払えないよ」女性が小さくすすり泣く。手で顔を覆っている。
「村長はどうするつもりなんだ」老人が杖を強く握りしめる。指の関節が白くなっている。
「いっそ、誰かを身代わりに差し出すか...」
最後の言葉を口にした男の表情は、既に人間性を失いかけていた。目が死んでいる。
俺の胸の奥で、怒りがゆっくりと煮えたぎり始める。現代でも、異世界でも、結局は同じか。弱い者が踏みにじられ、強い者がそれを当然のように受け入れる。心臓の鼓動が早くなり、手のひらが汗ばむ。
「ほら、現実よ」リアが俺を睨んだ。「あんたの『商売』とやらで、この状況を何とかできるの? それとも、次の『贄』になる?」
深呼吸をしようとした。落ち着こうとした。冷静に分析しようとした。
だが、胸の奥の怒りが制御を振り切った。頭が熱くなり、視界が狭まった。言葉が喉に詰まって、呼吸が荒くなるのを感じた。
俺は拳を強く握り締めた。手が震える。呼吸を整えようとするが、心臓が激しく鼓動している。もう止められない。
「ふざけるな!」
俺は勢いよく立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、大きな音を立てる。
「贄だと? 身代わりだと?!」
酒場は静まり返り、全員が俺を見つめた。
「俺は...もう、誰かの犠牲の上に成り立つ世界にうんざりなんだよ! 現代でも、異世界でも、結局弱い奴が踏みにじられる! こんな腐った仕組み、全部潰してやる!」
声が震えていた。四十年間溜め込んできた、全ての憤りが噴き出していた。
リアとミラが目を丸くしている。他の客たちも呆然としていた。
「あんた...本気で言ってるの?」
リアの声が震えていた。
「当たり前だ。俺は四十年間、失敗した部下のミスは上司の責任だと信じて働いてきた。責任から逃げたことは一度もない。だから今度も、絶対に逃げない」
◇
俺は酒場を出て、村を歩いた。夕日が村を赤く染めている。子供の泣き声が聞こえるが、今度は違って聞こえた。これは絶望の泣き声だ。
ふと、道端に群生している植物が目に入った。見覚えのある葉の形。香りを嗅いでみると、確かにハーブだった。
「これは...高級ハーブじゃないか」
香り、形状、育成環境——どれも一級品だ。だが、不思議なことに村人たちは誰もこのハーブに気づいていない。いや、気づけないのかもしれない。
俺はハーブの葉を手に取り、香りを確かめながら頭の中で販路をシミュレーションした。
まず現状分析。都市の市場は貴族の税が高くて使えない。
次に代替案。隣村の商人に直接売り込む。付加価値をつけて香料や薬草として売る。高値が期待できる。
さらなる展開。地元の薬草医や調味料職人に協力を求める。ブランド化も視野に入れる。
物流戦略。税負担の少ないルートで運ぶ。迂回ルートを確保する。
このハーブ一つとっても、戦略次第では村の経済を根本から変えられる。
だが、問題がある。この世界で現代の商売手法を使うことは、もしかすると何かの禁忌に触れるかもしれない。リアが言っていた呪い、精霊の封印——全てが絡み合っている可能性がある。
俺は夜空を見上げた。見たことのない星座が静かに瞬いていた。この空の下で、俺は本当に一人なんだ。
これで、村は救えるのか? それともまた、俺は"誰か"を見殺しにしてしまうのか。
四十年間磨き上げた責任感が、この異世界で通用するかどうか——それを、試す時が来た。
だが、現代の合理的な方法が、この村の伝統や人々の心を傷つけてしまう可能性もある。効率と人情、論理と感情——その狭間で俺は揺れていた。
これは俺の、社会人としてのラストプロジェクトだ。この村の再建。それが完了するまで、俺は絶対に倒れない。
たとえ、その道のりが想像以上に険しく、複雑なものであったとしても——