第27話「日常㊶(眞原井 アリス他)」
◆
市ヶ谷は岩戸町、救世会本部ビル、七階、情報分析室。
壁一面には紫色の天蓋に閉ざされた東京の地図が広げられている。その上には無数のピンや付箋が貼られ、手書きのメモが書き込まれていた。
赤い点は異常領域の発生報告地点。黄色は小規模な衝突や事件。そして黒は──消息不明、あるいは死亡が確認された地点を示していた。
救世会の情報分析官である佐々木真一はデスクで報告書を読みながら、苛立たしげに舌打ちをした。また無意識の内に髪の毛を抜いていた。情報分析室の室長代理を務める佐々木はまだ三十代前半でタフな男だ。しかし彼の精神は音をあげなくとも、毛根は別であった。
指先に触れるコインほどの大きさの滑らかな感触。
──また広がっている……。
苛立ちながら立ち上がって、地図上の新宿区と豊島区の境界付近に新たな赤いピンを二つ刺す。通信インフラが死滅したこの東京において、情報の収集は困難を極める。“鳥”による物理的な通信や、限定的な異能による念話。それらを駆使して集められた情報はどれも不完全で、タイムラグも大きい。
渋谷の『S』の内部抗争、葛西方面でのチャイニーズマフィアの暗躍、そして池袋の阿弥陀羅による“人狩り”の兆候。まるで都市全体が腐敗し、そこかしこから膿が噴き出しているかのようだ。
それにしても、と佐々木は地図上の豊島区をにらみつける。彼には懸念が一つあった。
「綾香……」
佐々木はデスクの上に広げられた担当者リストに目を落とした。豊島区担当、牧村綾香。彼女からの定期連絡がしばらく途絶えている。
◆
牧村と佐々木の関係はいってしまえば男女の関係だ。といっても交際しているわけではない。このふざけた魔都で、少しでも生きている実感を味わうための都合のいい関係──まあ、誤解を恐れない言い方をすればセフレといった所だろう。
佐々木はかなりガタイがよく、その辺が牧村の好みだったのだ。
といっても、肝心の牧村からは都合の良い関係以上にはなるつもりはないとはっきり線を引かれているものの、佐々木自身はだんだんと牧村に熱をあげてきていたのだが。
この東京から生きて出られたらちゃんとした形で告白しようと思っていたというのに、まさかの行方不明である。
──まさか、潜伏先を突き止められたのか?
佐々木の脳裏に最悪のシナリオがよぎる。池袋は阿弥陀羅が実効支配する無法地帯だ。優秀な諜報員である牧村が連絡を絶ったということはよほどの事態が発生したと考えざるを得ない。
佐々木は拳を握りしめた。自分にはここで情報を待つことしかできない。それが無力で、ひどくもどかしかった。
その時だった。
情報分析室の重い扉が、ノックの音と共に開く。
「失礼しますわ」
凛とした声が、部屋の空気を震わせる。
入ってきたのは眞原井アリスだった。救世会の実戦部隊『エクソシスト』の隊長であり、この組織における最強の戦力の一人。
彼女は先ほどまで大久保での任務に当たっていたはずだ。その顔にはわずかに疲労の色が見えるが、その瞳の輝きは少しも衰えていない。
「眞原井隊長。お疲れ様です」
佐々木は慌てて立ち上がり、敬礼した。アリスは軽く頷き、部屋の中を見回す。
「状況はどうですの? 都内全体の動きと、特に豊島区の状況について報告をお願いしますわ」
アリスの声は淡々としている。佐々木は地図を指し示しながら、早口で現状を説明した。
「はっ。現在、都内各地で強力な怪異が発生している様で……それと、豊島区担当の牧村 綾香と連絡が取れません」
アリスの表情が若干険しいものとなる。
「分かりましたわ。それで、佐々木さん」
アリスは佐々木に向き直り、懐から小さな小瓶を取り出した。
「これを」
「これは?」
「聖別した水に、発毛効果のある薬草を漬け込んだ特製品ですわ。まあ、気休めかもしれませんが、神のご加護で一本くらいは生えてくるかもしれませんわよ?」
冗談めかして言うアリスに、佐々木は本気で「ありがとうございます!」と頭を下げて小瓶を受け取った。
唐突かもしれないが、まあアリスなりにこの緊張した空気をやわらげようとした
「それで」とアリスは続ける。「牧村さんからの最後の報告内容を、もう一度詳細に聞かせていただけますか。特に──御堂聖に関する部分を」
「御堂聖……なぜそこまでこだわるのです?」
佐々木は怪訝な顔をした。アリスが聖と同級生であることは佐々木も知っている。だが、救世会のデータベースでは、聖は無能力者として記録されていた。佐々木が知るかぎり、アリスは公私を混同しないタイプだ。救世会の同志ですら必要とあらば駒として切り捨てる冷徹さがある。
「日下部夫妻からの依頼の事もありますが、それに加えて彼は一つの鍵になる、と私は考えています。まあ組織のリソースを使う以上、それなりに成果は出すつもりですわ」
アリスの脳裏に、あの女の姿が浮かぶ。
──御堂君は恐るべき力を持ったナニカを使役している
その力を借りる事はできないだろうか? ──そんな思惑がアリスにはあった。
だがそれはまだ公にする段階ではないとも考えている。
──アレは断じて守護天使や聖霊ではありませんわ。上層部へ伝えるには少々厄い情報ですわね……
これ以上詮索するな、というアリスからの意思を適切に受け取った佐々木は「はっ。確認します」と答えて慌てて報告書の束をめくる。
「最後の報告では阿弥陀羅の襲撃についてが主でしたが……その直前、『御堂聖と接触。本人の依頼により、叔父夫婦の所在調査を開始』との報告が入っています。しかし、彼自身の異能に関する記述や、特筆すべき事項は……」
「そうですか……まあいいですわ。それにしても御堂君もこちらを、というより日下部夫妻を探そうと行動していたというのは良いニュースですわね」
それはつまり、聖にまだ生きる意志があるという事を意味する。この魔都と化した東京では、その意志を保つこと自体が奇跡に近い。絶望のあまり、自ら命を絶つ者も少なくないのだ。
救世会でも、つい先週悲劇があった。物資管理を担当していた若い隊員が、プレッシャーに耐えきれず、倉庫で首を吊った。だが、それで終わりではなかった。彼の絶望が死後も残り、その場に留まってしまったのだ。生前の姿を保ったまま、倉庫を訪れる者を手招きし、首を吊ったロープを指差す。そんな死霊と化してしまった元同胞を“処理”するのも、アリスたち実戦部隊の仕事だった。
だからこそ、聖がまだ希望を捨てていないという事実は、アリスにとって何よりの朗報だったのだ。
それからアリスは暫く沈思する。豊島区という地域の危険さ、聖という友人を救出しに行く為に自身が本部を離れた際の弊害。それら諸々を考え──
「ではわたくしが池袋へ潜入する事にしましょう」
ほかに諜報員を送りこんでまた行方不明にでもなったら目も当てられない。異能者とて、この魔都では命の保証などされないのだ。それに、異能者といっても戦闘向きの異能を有する者は案外に少ない。その点、アリスの純戦闘能力は相応に高く、ある程度自由に行動できるだけの権限も有している。
そうして三日後、アリスは豊島区入りを果たしていた。




