第25話「牧村②」
◆
「ごめんなさい」
唐突に聖が謝った。
牧村は怪訝な顔をする。話の流れからして謝られる理由がまるで分からない。
「さっきからどうしたの? なんか変よ、御堂君」
聖は答えない。代わりに彼は手を差し出した。
掌を上に向けた右手がゆっくりと牧村の方へと伸びてくる。握手ということだろうか。牧村はその意図を測りかねたが、とりあえず差し出された手を取った。
「やっぱり。いや、でも」
次の瞬間、聖は両手で牧村の手を包み込むように握る。その手は少し冷たく、微かに震えていた。
聖は大きく息を吸い込む。一度、二度、三度。
まるで何か重大な告白をする前の儀式のように深呼吸を繰り返す。牧村はその様子を黙って見守った。この少年が何を言おうとしているのか、全く予想がつかない。
「助けてあげられなくて、ごめんなさい」
そう言って聖はぽろりと涙を零した。
透明な雫が頬を伝い、顎から落ちる。その涙はあまりにも純粋で、嘘偽りのない悲しみに満ちていた。
牧村は困惑する。何を言っているのか、さっぱり分からない。
聖は牧村の手を離すと、震える指で彼女の太ももと脇腹──撃たれた箇所を指差した。
「だから、大丈夫だって」
牧村は苦笑を浮かべる。
「私は治りが早いし、手当だってしたんだから──」
「駄目だったんです。間に合わなかったんです」
被せるように聖が言うと牧村は「えっ」という様な表情を浮かべる。
そして。
まるで霧が晴れていく様に牧村の姿が薄れていく。鉛筆で薄く描いた絵が、消しゴムで消されていく様に。
「どうすればよかったんだろう」
聖は独り言のように呟き始めた。実際独り言だ。もう牧村は居ない。なぜならば気付いてしまったからだ。
◆
「助けた時、牧村さんが部屋に戻った時、確かに牧村さんは生きていたのに──いや、でも、もしかしたらその時にはもう……」
言葉が途切れ、また続く。
「僕がもっと早く気づいて、手当をすればよかったのかな。病院だっていけないし」
聖の瞳は焦点を失い、虚空を彷徨っている。独白は止まらない。
「本当に、いつ死んじゃったんだろう」
呟きながら聖は目の前の牧村に近づいた。
そして薄っすらと開けられた両目に手を当て、そっと瞼を閉じさせる。
牧村がどの時点まで生きていたのか、聖にはよくわからなかった。部屋に入って会話を始めた時には、もう彼女は死んでいたのかもしれない。あるいは話している途中で息を引き取ったのか。
ただ一つ確かなのは、先ほど手を触れて初めて分かったということだ。
生者の温もりとは決定的に違う、死の冷たさ。血の通わない皮膚の感触。それは聖が知っている生きた人間のものではなかった。
見れば、牧村の部屋には多量の血痕が残されていた。
聖は自身の手を見る。
牧村に触れたこの手を。
手の甲を少し強めにつねってみた。鋭い痛みが走る。痛覚はある。心臓も動いている。呼吸もしている。
でも──
自分が本当に生きているのかどうか、急に自信が持てなくなった。
死者と会話をしていた。死者が微笑み、死者が缶詰を手に取り、死者が自分の身の上を語っていた。そんなことがあり得るのだろうか。
いや、あり得る。
この東京では死と生の境界が曖昧になっている。怪異が跋扈し、怨霊が街を徘徊する。死者が動き回ることだって珍しくはない。
でもそれは敵として現れるはずだ。生者を襲い、害を為すものとして。
こんな風に普通に会話をして、普通に笑って、普通に──
「牧村さん……」
聖の声が震える。
目の前の牧村の体は、確かにベッドの縁に座っている。さっきまでと同じ姿勢で。でも今は微動だにしない。瞬きもしない。呼吸もしていない。
人形のように、いや人形そのものだ。
聖の脳裏に、つい先ほどまでの会話が蘇る。
『最近はそれだけじゃないかもしれない。誰かの役に立てることが意外と悪くないって思えてきたの』
『まあこんな私だけど、この何か月かで私が助けた人とかもそこそこいてさ』
それは本当に牧村が言った言葉だったのか。それとも聖の幻聴だったのか。あるいは──
何か別のものが牧村の姿を借りて語っていたのか。
部屋の空気が急に重くなったような気がする。紫色の光が窓から差し込み、死体の顔を不気味に照らしている。
聖は後ずさりした。
自分が何と会話していたのか、何に話しかけていたのか、もう分からない。
ただ一つだけ確かなことは、牧村綾香はもう死んでいるということ。そして聖は彼女を助けることができなかったということだけだった。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
聖は何度も謝罪の言葉を繰り返す。
死者に向かって。
あるいは自分自身に向かって。
窓の外では相変わらず紫の空が広がっている。死と生が混濁するこの魔都で、聖は自分がどちら側にいるのか、一瞬分からなくなった。
 




