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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第3章
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第18話「善性と悪性③」

 ◆


 ごきり。


 湿った、それでいて酷く乾いた音が響いた。


 尾崎の首は物理法則を無視して完全に三回転し、その体は糸の切れた操り人形のようにどさりとその場に崩れ落ちた。眼球が飛び出し口からは舌がだらりと垂れ下がっている。


 文句なしの即死である。


 再び訪れる静寂。


 瓦礫の散らばる空間に濃密な血と臓物の臭いが充満する。つい数分前まで尾崎の狂気と欲望が支配していたこの場所は、今や凄惨な殺戮の現場と化していた。


 聖は青ざめた顔で立ち尽くしている。その右手にはいつの間にか閉じた状態の黒い和傘が握られていた。“傘の子”は役目を終え静かに眠りについたようだ。そして“お姉さん”の気配ももうどこにも感じられなかった。


「うっ……」


 聖は思わず口元を押さえた。込み上げてくる吐き気を必死に堪える。グロテスクな光景は苦手だった。だがそれだけだ。彼が感じているのは生理的な嫌悪感だけ。自分が引き起こしたこの惨劇に対する罪悪感や、人を殺めてしまったことへの恐怖は不思議なほど希薄だった。


 この少年は自分がどれほど異常なことをしたのか、そして自分がどれほど異常な存在であるのか、まるで理解していない。聖は確かに善良だが、人によっては彼を邪悪と見る者もいるかもしれない。


 ◆


 牧村綾香は地面に倒れ込んだまま、その一部始終をただ呆然と見ていた。


 太ももを撃たれた痛みも陵辱されかかった恐怖も、一時的に意識の彼方へと追いやられている。


 目の前で繰り広げられたのは一方的な蹂躙だった。そしてそれを為したのは他でもない御堂聖。あの頼りなげで無害だと思っていた隣人の少年だ。


 普通ならどうだろう。この状況で彼に対して抱く感情は。


 助けてくれたことへの感謝? その強さへの憧憬? 


 いや、そんな生温い感情は欠片も湧いてこなかった。当たり前だ。悪漢とはいえ人間を平然とミンチ肉にするような者に「きゃあ! 素敵! 強いのね!」などと媚びを売る女がいるとすれば、それはただの馬鹿か間抜けである。


 では嫌悪したのか。恐怖したのか。


 確かに御堂聖という少年は得体が知れない。不気味だ。“未知”は容易に恐怖へと変容し恐怖は嫌悪感を生み出す。そうしたとしても無理はない。


 だが牧村はそのどちらも選ばなかった。


 牧村は聖に対して“保留”を選んだのだ。


 通常、凄惨な死と隣り合わせの極限状況において、そこまで自身の心を律することができる者などそうはいない。恐怖や嫌悪といった強い感情は理性を容易く押し流してしまうものだからだ。


 だが牧村には出来る。彼女は、そうしなければ生きてこられなかった。


 牧村は下着姿のままゆっくりと体を起こし、自身の胸に手を当てて必死に深呼吸を繰り返した。


 ──聖君の“あれ”がどんなものかはわからない。でも、もし相手の感情に反応するものだとしたら


 もしここで恐怖や嫌悪を露わにすれば、次の瞬間あの黒い和傘の切っ先が自分に向けられるかもしれない。


 深い緑色の沼から、ぼこりぼこりと何かが浮き上がってくる──聖の得体の知れなさを例えるならばそんなところだろうか。そんな想像を牧村は必死で抑え込む。


 ──落ち着きなさい、綾香。大丈夫、大丈夫だから


 自分に言い聞かせ、更に深く息を吸い込む。


 脳裏によぎるのは往時の記憶だった。


 埃っぽい匂いのする布団の上。組み伏せられた幼い自分。手首を押さえるのは義父の分厚く汗ばんだ手。酒と脂の混じった不快な臭いが鼻をつく。


 義父の悪根が自身の中心を何度も貫き、牧村は苦悶の喘ぎを漏らす。


 ──あの屑は、私が感情を出すと喜んでいた


 恐怖に歪む顔、苦痛に喘ぐ声、そして屈辱に濡れる瞳。その全てが義父の欲望を煽る燃料だった。泣き叫べば叫ぶほど、牧村の義父は愉悦に表情を歪めその行為をエスカレートさせていった。


 だから牧村は学んだのだ。感情を殺す術を。心を無にする方法を。


 そんなことを思うと、牧村はふ、と聖に対しての感情が平坦なものになっていくのを感じる。


 恐怖も嫌悪もない。ただ、そこに彼がいるという事実だけが残る。


 その時、聖がゆっくりとこちらへ近づいてきた。その顔色は依然として悪く足取りも少し覚束ない。


「だ、大丈夫ですか? 牧村さん」


 気づかわし気に尋ねてくる聖は、牧村に手を伸ばしていた。その手は少し震えている。


 牧村は躊躇なくその手を取り、ゆっくりと立ち上がった。太ももに激痛が走るが歯を食いしばって耐える。


 そして、聖の目を真っ直ぐに見つめ言った。


「ありがとう、助けてくれて」


 それは()()()()笑みだった。


 計算でも演技でもない。感情の波が引いた後の凪いだ水面のような、静かで純粋な感謝。いや、感謝というよりは安堵だろうか。生き延びたという事実に対する純粋な安堵。牧村綾香という女は、そういう複雑な感情の同居を可能にする稀有な精神の持ち主だった。


 聖はその笑みを見て、少しだけほっとしたような表情を浮かべた。


「よ、よかった……。でも、怪我が……」


 聖の視線が牧村の太ももと脇腹に注がれる。そして彼女が下着姿であることに今更気づいたように慌てて視線を逸らした。


「あ、あの、これ……」


 聖は自分が着ていた薄手のパーカーを脱ぎ、牧村に差し出した。


「これ、着てください」


「……ありがとう」


 牧村は素直に袖を通す。サイズは少しちいさめだが今の状況ではありがたかった。


「と、とにかくここから離れましょう。まだ仲間がいるかもしれない」


 聖が周囲を警戒するように見回す。


「そうね。でも、その前に」


 牧村は倒れている尾崎の死体に近づいた。そしてその腰のホルスターから拳銃を抜き取る。安全装置を確認し、弾倉を改める。まだ数発残っていた。


「牧村さん?」


 聖が怪訝な顔をする。


「護身用よ。この東京で丸腰でいるのは自殺行為だから」


 牧村は淡々と答え、パーカーのポケットに銃をしまった。その動作には一切の躊躇も感情の揺らぎもなかった。あるのはただ、生き延びるための冷徹な計算だけ。


「行きましょう、御堂君」


 牧村は聖を促し、出口へと向かって歩き出した。


 聖は慌ててその後を追う。黒い和傘を握りしめ、まだ少し混乱した様子で。

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