第15話「チェイス」
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生ぬるい夜風が、錆と埃、そして微かな腐臭の混じり合った空気を運んでくる。
牧村綾香は倒壊した雑居ビルの一階、かつてはテナントだったであろう空間の奥深く、瓦礫が作り出す狭い隙間に身を捩じ込んでいた。全身が冷や汗で濡れ、荒い呼吸を必死に押し殺す。暗闇の中、左手で押さえた右の脇腹が異様な熱を持っていた。
指の間からじわりと滲み出す生温かい感覚に牧村は思わず悪態をつく。
「くそっ……」
低く呻き、奥歯を砕けんばかりに食いしばる。痛みはもちろんだが、それ以上に、己の不甲斐なさと状況の絶望感が心を焼き焦がしていた。
──しくじった
頭の中で反芻するのは、数時間前の光景。
普段、新宿の救世会本部との連絡は“鳥”を使っていた。それは比喩ではない。救世会に所属する異能者が使役する、カラスや鳩といった本物の鳥たちだ。この通信インフラが死滅した東京において、それは細く、しかし確実な生命線だった。脚に括り付けた小さな筒で、メッセージや軽量な物資を運ぶことができる。
しかし今日は違った。池袋での諜報活動と異能者のスカウト活動を継続するための物資──拳銃の弾薬、抗生物質を含む医療品、そして高カロリーの保存食。それらを“鳥”で運ぶには量が多すぎたし、リスクも高すぎた。
だから、危険を承知で直接会うしかなかったのだ。指定された場所は、東池袋中央公園の地下駐車場跡。かつては多くの車で賑わったであろうその空間は人目につきにくく、複数の逃走経路も確保できるはずだった。
落ち合ったのは救世会のメンバー三人。リーダー格の佐伯、そして戦闘経験豊富な田代とリサ。いずれも信頼できる手練れだった。物資の受け渡し自体もほんの数分で終わるはずだった。
だが、奴らはその瞬間を狙っていた。
地響きのようなエンジン音と共に、改造された四輪駆動車が駐車場のスロープを駆け下りてきた。ヘッドライトの眩い光が地下空間を切り裂く。キーッという耳障りなブレーキ音と同時に、荷台から飛び降りてきたのは、数人の男たち。いずれも目つきは鋭く、纏う空気は荒みきっている。
阿弥陀羅だった。池袋を巣窟とする最も暴力的で危険な集団である。
「よう、ネズミども。コソコソと何やってんだ?」
下卑た笑い声がコンクリートの壁に反響した。
佐伯が叫ぶ。
「散開しろ!」
銃声が轟き、怒号が飛び交う。牧村も腰のハンドガンを抜き放ち、的確な射撃で二人を無力化した。リサが異能で作り出した濃霧が敵の視界を遮る。その隙に態勢を立て直そうとした。
だが、敵の攻撃は予想以上に激しかった。リサが「きゃっ」と短い悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちる。喉元から血が噴き出していた。田代が鉄パイプで殴りかかってきた敵を迎え撃つが、背後から撃たれて絶命した。
「牧村! 逃げろ!」
佐伯が綾香を庇うように前に出る。
その言葉を最後に、彼もまた集中砲火を浴び、肉塊となって床に転がった。
牧村は歯を食いしばり、走り出した。脇腹に焼けるような痛みを感じたのはその時だ。かすっただけだと思ったが、出血は思いのほか多かった。
そして今に至る。
追っ手は執拗だった。まるで血の匂いを嗅ぎつけた猟犬のように、どこまでも追いかけてくる。
──しつっこいわねッ……!
牧村は壁に背を預け、息を潜めた。このままではジリ貧だ。出血で体力が奪われ、思考も鈍り始めている。
足音が止まった。すぐ近く。瓦礫の山の向こう側だ。
「おい、見失ったぞ」
男の声がした。荒々しく、耳障りな声。
「チッ、しぶといアマだぜ」
別の声が応じる。
そして、一際低く、粘りつくような声が響いた。
「慌てるな。どれ──」
◆
阿弥陀羅の人狩りチームを率いる男、尾崎はゆっくりと周囲を見回した。
尾崎の身長は百八十センチを優に超えるが、いわゆる男性性というようなものは感じない。
ひょろりと縦に長く、眼窩が落ちくぼんでおり、なんとなく骸骨を連想させる。
「……」
尾崎は鼻をひくつかせた。すん、と空気を吸い込む。その仕草はまるで犬のようだ。
部下たちが怪訝な顔をする。尾崎のこの奇妙な行動には慣れているが、その度に感じる生理的な嫌悪感は拭えない。
「尾崎さん?」
「静かにしろ」
尾崎は目を閉じ、神経を研ぎ澄ませた。
夜の空気には様々な臭いが混じっている。埃、錆、腐敗臭、そして──
──血の臭い
それだけではない。微かに香る、甘い匂い。汗と恐怖が混じり合った、極上の女の匂い。
尾崎の口元が醜悪に歪んだ。笑みだ。しかしそれは愉快さからくるものではない。もっと昏く、粘着質な欲望の色を帯びた笑みだった。
尾崎は女が好きだった。偏執的なまでに。
それは単なる性欲とは違う。もっと根源的で、破壊的な衝動に基づいている。
女の肌の柔らかさ、髪の香り、そして何より、恐怖に歪む表情、苦痛に喘ぐ声。その全てを自分の支配下に置き、壊していく過程にこそ、彼は至上の快楽を覚えていた。
東京が崩壊する前、尾崎は表向きは平凡な会社員を装っていた。だが裏では、その歪んだ欲望を満たすために何度も危険な橋を渡ってきた。女性を監禁し、弄び、心身ともに破壊する。警察の捜査線上に浮かんだことも一度や二度ではない。だが彼は狡猾だった。決定的な証拠は残さず、その度に法の手から逃げ切ってきた。
だがそんな綱渡りの日常は、紫色のドームが東京を覆ったあの日に突如として終わりを告げた。
尾崎にとってにこの世界の崩壊は福音だった。
法律も、倫理も、社会的な制約も、全てが意味をなさなくなった世界。力こそが全てのこの魔都で、尾崎は水を得た魚のようにその抑圧されていた本性を完全に解き放ったのだ。
阿弥陀羅に加わったのは必然だった。ボスの異常な「食事」の習慣にも、彼は嫌悪感どころかある種の共感すら覚えていた。
人を食う? 結構なことだ。欲望に忠実に生きる。それこそが、この世界における唯一の真理だ──と。
尾崎は目を開けた。その瞳には、爛々とした狂気の光が宿っている。
「こっちだ」
尾崎は確信を持って、一つの方向を指差した。瓦礫の山。その陰に、傷ついた獲物が息を潜めている。
部下たちが武器を構え直す。尾崎はゆっくりと歩き出した。一歩、また一歩。まるで獲物をいたぶり、恐怖を煽るように。
──あの女
尾崎は思い出す。駐車場での銃撃戦。鋭い眼差しで銃を構える姿。恐怖を押し殺し、気丈に振る舞うその態度。しなやかな肢体。
──極上だ。久しぶりの極上だ
尾崎の血が沸騰するように騒いでいた。
──ただ殺すだけではつまらない。すぐにボスの「食事」に回すなどもってのほかだ。こいつは俺がじっくりと味あわせてもらう。まずはじっくりと恐怖を味わわせてやる。犯しながら目玉を抉り出してやる。それを口に含んで、あの女に口移しで食わせてやるのだ。
そして──
尾崎の脳裏に、鮮明で猟奇的な妄想が広がる。
──あのしなやかな手足を、一本ずつ、関節とは逆の方向に丁寧に折ってやる。甲高い悲鳴を上げさせ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら命乞いをさせる。その哀れな声を聞きながら、よく研いだナイフでゆっくりと薄く肌を削いでいってやる
尾崎は乾いた唇を舐めた。
もうすぐだ。もうすぐ。
瓦礫の山が目の前に迫る。尾崎は部下たちに目配せをした。回り込め、と。
逃げ道はない。袋の鼠だ。
尾崎は笑みを深めた。その笑みは、もはや人間のそれではなくなっていた。闇の中で尾崎の欲望だけが異様な熱を放ち、周囲の空気さえも歪めているかのようだった。




