第11話「日常㉜(御堂聖他)」
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闇が、這い寄る。
「おい、ライト点けろ! スマホのでいい!」
リーダーが怒鳴るが、部下たちは狼狽するばかりだった。
「つ、点かねえんです! 電源が!」
「俺のもダメだ! バッテリーは満タンだったはずなのに!」
電子機器が一切の機能を停止していた。
辛うじて外の光が差し込んでいたはずの入口も今はもう見えない。前後左右、どこを見ても商品棚と、その隙間を埋め尽くす濃密な闇だけが続いている。
「くそっ……! どうなってやがる!」
リーダーは苛立ち紛れに壁を殴りつけた。
空気が重い。そして奇妙な臭いがした。
腐敗臭ではない。もっと乾いた、土くれのような、あるいは──古い穀物のような臭い。
息をするたびにその不快な空気が肺の奥まで入り込んでくるようだ。
「異常領域だ……間違いねえ……」
一人が震える声で言った。
「だが、なんで……? 本田さんは──」
「うるせえ! とにかく出口を探すぞ! 固まって動け!」
リーダーが叫ぶ。
男たちは互いの服を掴み合うようにして、闇の中を手探りで進み始めた。
その時だった。
さら……
乾いた音がした。
まるで、枯れ草が擦れ合うような音。
「……?」
全員が動きを止め、息を殺す。
音は闇の奥──棚と棚の隙間から聞こえてきた。
さら、さらさら……
何かが、近づいてくる。
「だ、誰だ!」
リーダーが叫んだ。声が裏返っている。
返事はない。
ただ、乾いた音だけが続いている。
そして、闇の中からぬらりと何かが姿を現した。
最初はぼんやりとした人影に見えた。
しかし異様に背が高い。二メートルを優に超えている。
その輪郭が闇に慣れた目に映った瞬間、男たちは息を呑んだ。
「ひっ……!?」
それは人間ではなかった。
白い、ぼろきれのようなものを纏っている。辛うじてそれが衣服だと分かるが、あちこちが破れ、赤黒い、古びた血の染みで汚れている。
そして、皮膚。
皮膚は土気色で、まるで干からびた泥のようだ。あちこちに深い亀裂が走り、そこから何かが赤いものが覗いている。
それは──稲穂だった。
体の亀裂から、傷口から、黄金色の稲穂がびっしりと生え出ているのだ。
人影が動くたびに稲穂が擦れ合って、さらさらと乾いた音を立てていた。
顔は長い黒髪で覆われていて見えない。だが髪の隙間から覗く眼窩はぽっかりと空洞で、その奥に赤黒い光が揺らめいているのが見えた。
「ば、化け物……!」
一人が腰を抜かした。
その瞬間、化け物が動いた。
ずるり、と音もなく距離を詰める。
「う、うわああああああっ!」
恐怖が限界を超えた一人が、狂ったように叫びながら化け物に殴りかかった。
拳が化け物の胸にめり込む。
だが、手応えはなかった。
まるで泥の中に、あるいは腐葉土の中に手を突っ込んだかのように拳はずぶずぶと沈んでいく。
「あ? が……あ……!?」
男の表情が驚愕から苦痛へと変わる。
腕が抜けない。それどころか──
ジュウウウ……という音と共に、皮膚がただれ、肉が溶けていく。異様な甘い臭いが漂い始めた。
「た、助け……!」
男が叫ぶが、その体はもう半分以上ただれ──とろけていた。
──内から、溶かしてやがるッ!
リーダーは戦慄する。
骨と皮だけになってしまった男はずるり、ずるずると異形の体内に引きずり込まれ、最後に残った頭部が沈む。
ごきり。
骨が砕けるような嫌な音が響いた。
そして静寂。
一人の人間が、跡形もなく消えてしまったのだ。それも、この上なく悍ましい形で。
「ひっ……!」
残った男たちは、もはや声も出なかった。
化け物はゆっくりと残りの獲物を見回す。
一人が踵を返して逃げ出そうとした。
だが、足が動かない。
「なっ……!?」
見ると、床から何本もの稲が生え出ていた。
それが男の足首に絡みつき、まるで鎖のように拘束している。
稲は見る間に成長し、膝、太もも、そして胴体へと巻き付いていく。
「や、やめろ! 離せ!」
男がもがくが、稲は容赦なく締め上げていく。
メキメキと骨が軋む音が響き、男の口から血反吐が吐き出された。
そして、そのまま地面に引き倒され、床から生えた無数の稲に覆い尽くされていく。
断末魔の叫びが稲の塊の中でくぐもった音になり、やがて聞こえなくなった。
残るはリーダーただ一人。
「な、なんだよ、てめえは……!」
リーダーは銃を取り出し、何度も引き金を引くが──。
銃口からのぞく穂を見て目を大きく見開いた。
化け物がゆっくりと近づいてくる。
さら、さらさら……
死を告げる音が、すぐそこまで迫っている。
化け物が顔を上げた。
長い黒髪が揺れ、その隙間から素顔が覗く。
リーダーはそれを見て、ヒュッと喉を鳴らした。
そこにあったのは、絶望と憎悪に染まりきった女の顔だった。
目は見開かれ、血走り、この世の全てを呪うかのような光を宿している。
口は耳元まで裂け、そこから覗く歯は全て黒く染まっていた。
──お前たちが、私をこうした
声は聞こえない。だがその表情がそう叫んでいた。
この化け物──御堂 聖が“お姉さん”と呼ぶコレは、確かに聖には無害だ。
しかし、それは聖以外の者にとっても無害であることを意味しない。
“お姉さん”──サキは、むしろ人間を強く憎悪している。
彼女の中には、豊穣を祈って舞を捧げていたはずの巫女を欲望のままに陵辱し、命を奪った人間たちへの底なしの憎悪があるのだ。( 第9話「お姉さん」、および 第12話「デビルサマナー()」あたりで過去の“お姉さんについて言及”)
化け物──サキが腕を振り上げた。
その手には稲穂が束ねられた物が握られている。
「ひっ──」
リーダーが悲鳴を上げる間もなかった。
リーダーの体はまるで藁束のように、いとも簡単に両断された。
上半身と下半身が別々の方向に飛び、大量の血と臓物が床にぶちまけられる。
どさり、と肉塊が落ちる音。
そして再び静寂が訪れた。
狭い空間に濃密な血と臓物の臭いが充満する。
サキはしばらくその場に佇んでいたが、やがてゆっくりと闇の中へと溶けるように消えていった。
§
「うーん、やっぱり缶詰くらいしかないかあ」
僕はコンビニの棚を漁りながら、独り言を呟いた。
保存の効く食料はあらかた誰かに持っていかれた後らしい。まあ、仕方ないか。
リュックにいくつかの缶詰を詰め込み、僕は満足して顔を上げた。
その時、ふと背後に気配を感じた。
誰かいる?
振り返ると──
そこには、“お姉さん”が立っていた。
白いワンピースに、つばの広い白い帽子。
すらりと伸びた手足と、息を呑むほど整った顔立ち。
薄暗い店内でも際立つ肌の白さ。
そして、宝石のように輝く赤い瞳。
──やっぱり凄い美人だよなあ
お姉さんは僕を見て、にこりと微笑んだ。
その笑顔はいつものように優しくて、そしてぞっとするほどに美しかった。
「お姉さん、どうしたの?」
僕が尋ねると、お姉さんは何も言わずただ優しく微笑んでいる。
ふと、お姉さんが片手で口元を覆うような仕草をした。
そしてほんの少しだけ眉をひそめる。
「何でもないの。それよりも、ここは少し臭いわ。服に匂いがついちゃうから早く出ましょう」
お姉さんの声が鈴を転がすように響いた。
僕は鼻をひくつかせる。
「臭い? 埃っぽいくらいだけど……」
埃っぽい匂いはするけれど、それ以外は特に気にならない。
僕が首を傾げていると、お姉さんはスゥと音もなく消えてしまった。
「あれ? お姉さん?」
声をかけるが、応えはなかった。
僕は少しだけ残念な気持ちになりながら、まあいいかとリュックを背負い直す。
「さて、もう少し探索してから帰ろうかな。今日は平和に終わりますように……」
僕はそんな事を一人呟いて、コンビニの出口へと向かった。
割れたガラスドアを跨いで外に出る。
相変わらず人気のない池袋の街並みが静かに広がっていた。




