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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第3章

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第9話「日常㉚(牧村他)」

 ◆


 牧村 綾香は乾パンを水筒の水で流し込みながら、窓の外に広がる紫色の空を眺めていた。


「もう三ヶ月か……」


 この非日常が日常になってからそれだけの時が流れていた。


「相変わらずクソ不味いわね」


 乾パンはパサパサで味気ないが貴重な炭水化物だ。文句は言っていられない。

 水は数日前に見つけた自動販売機をこじ開けて手に入れたものである。

 魔都と化した東京では、今や水ですら贅沢品だった。


 ごくり、と水を飲み干す。

 隣の部屋から微かに物音が聞こえた。


 ──御堂君はまだ部屋にいるみたいね


 牧村がこの廃墟マンションの一室を拠点としてから、奇妙な隣人関係を続けている少年だ。


 牧村は立ち上がりベランダに出た。

 聖ははベランダでセットコンロに火をつけようとしているようだ。

 見ればティーパックが用意されている。


「おはよう、御堂くん」


 声をかけると、聖はびくりと肩を震わせて振り返った。

 相変わらず警戒心が強い。良いことだ、と牧村は思う。

 この世界で無防備な人間は、真っ先に死ぬ。


「おはようございます、牧村さん」

「今日の朝ごはんは何?」

「……乾パンです。それと紅茶」

「随分優雅じゃないの」


 牧村が言うと、聖はなにやら難しそうな表情で乾パンを見て言う。


「だってこれ、そのままだと酷い味がするんです」


 確かに、と牧村も苦笑しながら、ポケットから取り出した小さな銀紙の包みをひらひらと振って見せた。

 昨日見つけた板チョコだ。

 効果は覿面であった。

 聖の目が釘付けになる。


「……」

「欲しい?」


 聖は一瞬迷った後、こくりと頷いた。

 その素直さが、少しだけ可愛らしい、と牧村は思う。


「じゃあ、情報と交換」

「……どんな情報です?」

「最近見かけた人間とか」

「人間、って……うーん、生きてる人ってことですよね?」


 牧村は頷いた。


「あー……あ、そうだ。この前東池袋の方を探索しにいったんです」

「あら、サンシャインにでも行こうとしたの?」


 危ないな、と思いながら牧村は言った。

 というのも、サンシャインは“阿弥陀羅”を名乗る異能者集団が拠点としているからだ。

 もちろんサンシャイン、サンシャインシティ全体を支配しているというわけではないが、それでも不逞の輩と出会ってしまう確率は高くなる。

 一人きりで行くにはリスクが高い。

 だが、聖は首を振った。


「いえ、違います。もっと高架よりのほうなんですけど……あの辺は駅前と違ってマンションとかアパートが多くて」

「なるほど、人探しをしてるってわけね」


 理由を聞くべきか聞かざるべきかと一瞬逡巡する牧村だが、聖の方から理由を話してきた。


「はい。えっと……父と母を知ってる人がいないかなって」


 なるほど、と牧村は納得する。

 そして聖の表情を見て、それ以上何か追及するのはよくないと判断した。


「それで情報っていうのは?」


 牧村が続きを促すと、聖が語を継ぐ。


「帝都平成大学ってわかります?」


 聖の質問に牧村は頷く。

 都内を中心にキャンパスを多数展開している大きめの私立大学である。


「あそこの池袋キャンパスの一階がコンビニになってるんですけど、そこで人を見かけました。ちゃんと生きてた──と思いますけど。若い男の人で、話しかけようとしたら逃げていっちゃいました」


 貴重な情報だった。


「はい、約束」


 牧村はチョコレートを軽く放り投げた。

 聖が慌ててそれを受け取る。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。それじゃ、私は“お仕事”に行ってくるから」


 そうひらりと手を振って、牧村は部屋に戻った。


 ◆


 “仕事”──それは、この瓦礫の街で生きるための糧を得るための行為。

 そして、牧村が所属する組織から与えられた任務でもあった。


 部屋に戻った牧村は手早く身支度を整えていく。

 タンクトップの上に体の線が出る黒い革のジャケット。脚には動きやすいカーゴパンツ。

 ブーツの紐を固く結び、腰のホルスターに拳銃を収めた。


 銃は組織から支給されたものである。


 ──あとは……


 鏡の前で髪を整える。

 短いショートカットが彼女のシャープな顔立ちを引き立てていた。

 最後に鮮やかな赤の口紅を引く。


 ・

 ・

 ・


「さて、と」


 一つ息をついて牧村は部屋を出た。


 ・

 ・

 ・


 ──使える子だと良いんだけれどな


 そんな事を思いながら牧村は歩を進めていく。

 牧村には任務がある。それは都内に散らばっている生存者と接触し、組織へと勧誘することだ。

 戦力はいくらあっても足りない。

 特に強力な異能を持つ者は、組織の存亡に関わる重要な資産だった。


 警戒しつつ進んだのでそこそこ時間がかかってしまったが、特にトラブルもなく現地につく。


「あれが帝都平成大学かな」


 道路沿いの十階建てほどの建物は如何にもお金がかかっていそうだった。


「あれだけ大きいなら、中にも生存者がいそうだけれど」


 キャンパスの前にはレンガ風のタイルで舗装された大きめの広場がある。

 東京がこうなってしまう前は、ここで多くの大学生が憩いの時間を過ごしていたのだろう。

 建物の左右はマンションとなっており、路地裏の方には住宅地が広がっていた。


 ◆


 前方の路地裏から怒鳴り声が聞こえり。

 牧村は足を止め、壁の角からそっと様子を窺う。


 三人の男が一人の若い男を囲んでいた。


 ──阿弥陀羅の連中ね。薄汚い身なり……下部構成員か


「おい、持ってるもん全部出せや」

「ひぃ……もう何も……」


 牧村は小さく舌打ちした。

 怯えるという事は“力”が戦闘向きでない事を意味する。

 もしくは──


 ──自覚していないか、だけど


 だが、磨けば光るかもしれない。

 使える駒は一つでも多い方がいい──そう考えた牧村は路地裏に足を踏み入れて声をかけた。


「ねえ、何してるの?」


 男たちの視線が一斉に牧村に集まった。

 下卑た視線が値踏みするように全身を舐め回すが、牧村は男たちのそういう視線にはもう慣れていた。


「へへ、なんだ姉ちゃん。一人か?」

「こいつは上玉だぜ。なあ、俺たちと良いことしねえか?」


 リーダー格らしい男が、ナイフをちらつかせながらじりじりと近づいてくる。

 牧村は怯むことなく、むしろ挑発的に微笑んだ。

 ジャケットのジッパーをゆっくりと少しだけ下げる。

 黒いタンクトップに包まれた胸の谷間が、ちらりと覗いた。


「あら、私と遊びたいの?」


 蜜のように甘い声が男たちの理性を麻痺させる。


「へ、へへ、そっちもその気かよ……」


 男の一人が欲望に顔を歪ませ、その汚い手を牧村の胸へと伸ばしてきた──が。

 あろうことか牧村は胸を押し付けるようにして自ら触れさせる。


「なっ!」


 驚く男だったが、すぐに表情が弛緩する。

 そして、ここで気を抜いてしまったのが男の運の尽きであった。


「がっ……!?」


 次の瞬間、男は完璧な小手返しでアスファルトに叩きつけられた。


「て、てめぇ!」


 残りの二人が慌ててナイフを突きつけてくるが。

 牧村は既に倒した男の眉間に、既に抜き放った拳銃の銃口を突きつけていた。


「こいつの頭を吹き飛ばした後はあんた達の番ね」


 冷たい声に二人は動きを止める。

 実際、牧村は必要なら一人くらいは見せしめで殺してもいいとすら思っていた。

 その想いが伝わったのかどうか──男たちは顔を見合わせ、恐怖に引きつった表情で後ずさった。

 そして仲間を見捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。


 牧村は地面に呻く男を見下ろして「二度と私の前に現れないことね」と言うなり、つま先で頭を蹴とばして戦闘能力を完全に奪う。


 ◆


「大丈夫?」


 牧村はまだ震えている若い男に手を差し伸べた。

 男は呆然としたまま、牧村を見上げている。


「あ、ありがとうございます……」

「どういたしまして。でも、一人で行動するのは危険よ。仲間はいないの?」

「そ、そんなの……」


 そう、と牧村は優しく微笑む。

 まあ内心では『都合がいい』と思っているのだが。


「あなた、“力”があるんでしょう?」

「え……あ、はあ……でも、小さいものを動かすだけで……」


 念動はもっともポピュラーな異能である。

 そこから進化なり変化なりすることも多くある。


 牧村は続ける。


「私と一緒に来ない? あなたのような人を、私たちは探しているの」

「私、たち? もしかして、あの……」

「ええ、でも大丈夫よ。あの連中みたいにろくでもない組織じゃないから」


 男は迷っていたが、やがて頷いた。


「……行きます。あなたについて行きます」


 今日の“仕事”は、まずまずの成果と言えるだろう──そう考えた牧村は満足げに微笑んだ。


 ◆


 その日の夕方。

 牧村はマンションに戻ってきた。

 一人だ。


 件の青年は池袋へ潜伏中の組織のメンバーに引き渡してきた。

 別れ際、ショックを受けたような目で牧村を見てきたが、牧村は全く意に介さなかった。


 七階までの階段を、疲れた体で上っていく。

 自室のドアを開ける前に、隣の部屋に意識を向けた。


 ──今日はどこにも行かなかったのかしら


 牧村は御堂聖という少年が気になっている。


 ──あの子が言っていた「浮遊霊と話せる」というのが本当なら、霊媒としての器質があるのかもしれないけれど


 それだけならここまで気にする理由はない。

 さっさと接触してスカウトすればいい。

 断られたとしても、大した力を持たない者ならば問題はないだろう。


 しかし、牧村には聖は「何かを隠している」様に感じていた。

 根拠はない。

 ただの勘だ。


 一度だけ、牧村は聖の後をつけたことがある。

 だが路地を一つ曲がった途端、全身の産毛が逆立つような悪寒に襲われた。

 見えない何かが、脳に直接囁いていた──『帰れ』と。

 本能的な恐怖に牧村は従うしかなかった。


 あの感覚は忘れることができない。

 下手に手を出せばひどい目に遭う──それが牧村の直感だった。


 だからこそ慎重にならなければならない。

 牧村は体を起こし、窓の外を見た。

 紫色の空の下、西の空に聳え立つ『塔』が不気味なシルエットを描いている。


「焦ることはないわ……」


 牧村は呟いた。


「ゆっくり、じっくり……ね」


 その時、ベランダでカサリと音がした。

 見ると、一羽の大きなカラスが手すりに止まっている。

 濡羽色の艶やかな羽。

 賢そうな黒い瞳がじっと牧村を見ていた。


 牧村は慣れた手つきでカラスに近づき、その足に結ばれた小さな通信筒を外す。

 中には暗号化された短い指令書。

 それに目を通すと、今度は自分が小さなメモ用紙に報告を書きつける。

『本日、一名確保。本命は引き続き様子見。霊媒の器質ありと推測されるが、未知数な点多し。接触には細心の注意を要す』


 メモを丸めて新しい通信筒に収め、カラスの足に結びつける。


「頼んだわよ」


 そう囁くと、カラスは一声鳴いて、紫色の空へと飛び立っていった。


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