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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第2章

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第10話「日常⑪(聖、日下部 悦子、クロ他)」

 ◆


 僕はただひたすらに走っていた。


 どこへ向かっているのか分からない。


 ただ、あの場所から離れたかった。


 河童の首が落ちた場所から。


 血の匂いから。


 息が切れる。


 そこでようやく足を止めて──やがて呼吸が整ってきた。


 心臓の鼓動も落ち着きを取り戻していく。


 気がつくと、雨はすっかり止んでいた。


 灰色の雲の隙間から、うっすらと陽光が差し込んでいる。


 手に持った傘をじっと見つめる。


 黒い和紙は雨に濡れて艶やかに光っていた。


 朱色の模様も鮮やかさを増している。


 綺麗だな、と素直に思う。


 でも。


 ついさっき、この傘が河童を──


 首を落とした。


 血を流させた。


 殺した。


 でも不思議なことに、僕の中に傘への拒否感は全くなかった。


 拒否感を覚えたのは僕自身に対してだ。


 正当防衛なのかもしれないけれど、簡単に割り切れる事じゃなかった。


 ふと、なんとなく自分の恰好を見下ろしてみる。


 制服のブレザーも、ズボンも、靴もどこも濡れていない。


 あれだけの雨の中を走ってきたというのに、まるで室内にいたかのように乾いている。


「守ってもらったってことなのかな……」


 独り言が口をついて出た。


 傘の柄を撫でる。


 竹の感触が手のひらに心地よい。


「ありがとう」


 小さな声で礼を言った。


 誰に向けてかは分からない。


 傘に? 


 それともこの傘をくれた少年に? 


 僕自身にもよくわからない。


「帰ろっと……」


 そう呟いて歩き出そうとした瞬間。


「あっ」


 大事なことを思い出した。


 お茶葉だ。


 悦子さんに頼まれたお茶葉を買うのを忘れていた。


 河童に遭遇してすっかり頭から飛んでしまっていた。


 慌てて辺りを見回す。


 見覚えのある看板が目に入った。


 ここからならスーパーまでそう遠くない。


 僕は小走りでスーパーへ向かった。


 店内は相変わらずの人混みだった。


 買い物客たちが思い思いに商品を手に取っている。


 平和な光景だ。


 つい先ほどの出来事が嘘みたいに思える。


 お茶売り場へ直行する。


 悦子さんがいつも買っている銘柄を手に取った。


 ほうじ茶の香ばしい匂いが、パッケージ越しにもふわりと漂ってくる。


 レジで会計を済ませ、外に出る。


 空はすっかり晴れていた。


 ◆


 家に着くと、玄関で靴を脱いだ。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 リビングから悦子さんの声が返ってくる。


 リビングに入ると、悦子さんがソファに座っていた。


 何か訝しげな表情で僕を見ている。


 心配そうな、でも少し警戒するような、複雑な表情だった。


 そんなに遅くはなっていないはずだけど。


 時計を見ると、家を出てから一時間も経っていなかった。


 いや、でも家からスーパーまではすぐだし、往復でも二十分くらいだ。


 やっぱり少し遅いか……そんな事を思っていると。


 悦子さんがゆっくりと立ち上がった。


 僕の方をじっと見ている。


 表情はどこか険しい……気がする。


 唇が薄く引き伸ばされ、僕を──いや、僕の後ろを見ている? 


 振り返ってみるが、そこには誰もいないし何もない。


「悦子さん……?」


 なんだか不安になって声を掛けると悦子さんは──


「あ、うーん、何でもないの。ただちょっと……」


 言いかけて、言葉を濁す。


「ちょっと……?」


 僕が聞き返すと、悦子さんは首を横に振った。


「いえ、やっぱりなんでもないわ……」


 大きく息をつきながら言う様子は、明らかに何でもなくはない。


 ただ、それを確認するのはどこか憚られるものがあった。


 悦子さんは少し間を置いてから、慎重に言葉を選ぶように続ける。


「それより、その、何もなかった?」


 質問が少し不明瞭だった。


 何を聞きたいのか、はっきりしない。


 でも僕はドキッとしてしまう。


 河童のこと。


 傘が勝手に動いたこと。


 血の匂い。


 全部が頭の中で渦巻く。


「何もなかったけれど……」


 咄嗟にそう答えた。


 嘘だ。


 でも、本当のことを言えるはずもない。


 もちろん言うべきなのは分かっている。つい最近入院したばかりなのだから。


 ただ、さすがにこうも立て続けに心配をかけたくはなかった。


 これも不思議だ、僕は別に悪い事をしていないのに……


 悦子さんの表情が少し和らいだ。


 安心したような、ほっとしたような顔。


「良かったわ」


 大きく息を吐いて、悦子さんは続けた。


「さっき茂さんから連絡がきてね」


 茂さんの名前が出て僕は身構える。


 何か重要な話だろうか。


「今日明日のお休みはなるべく外に出ないようにって……」


「え、どうしてですか?」


 思わず聞き返す。


 悦子さんは困ったような顔をした。


「それが……茂さんも教えてくれなかったのよ」


 肩をすくめる。


「ただ、あの人にしてはなんというか……」


 言葉を探すように少し間を置く。


「焦っていた……ような気がするわ。外に出るなっていうのも、出来ればッて言う感じだったし。はっきりしないのよね」


 茂さんが焦る。


 それは相当なことだ。


 いつも冷静で、どんな状況でも落ち着いている茂さんが。


「もしかしたらお化けに関係していることかもしれないわねぇ……」


 悦子さんが付け加える。


「聖君もお願いできるかしら?」


 僕は頷いた。


 多分、異常領域とか怪異とか、そっち関係なんだろう。


 最近は本当に物騒だ。


 河童のことを思い出して、改めてそう思う。


 ◆


 ふと、手に持った傘に視線が行く。


「悦子さん」


 僕は思いついたことを口にした。


「綺麗な布巾とかありますか?」


「布巾?」


 悦子さんが首を傾げる。


「傘のお手入れをしたいから」


 そう言って和傘を少し持ち上げて見せた。


「あら、そうなの」


 悦子さんの表情が明るくなる。


「ちょっと待ってね」


 台所へ向かって、すぐに戻ってきた。


 手には柔らかそうな白い布巾が数枚。


「これでいいかしら」


「ありがとうございます」


 せっかく守ってくれたんだから、お手入れくらいはしないとね。


 ◆


 部屋に入ると洗面器に目がいく。


 しかしそこにクロはいない。


 ただ、これはいつもの事だ。


 ここ最近のクロは結構あちこち動き回っていて、ベッドの下にいたりすることもある。


 いまもきっとどこかに隠れてるんだろう。


 とりあえず僕は床に新聞紙を広げた。


 傘が濡れているから床を汚さないようにしないと。


 その上に傘を置いて、しゃがみ込む。


 と、その時。


 コンコンとノックの音。


「聖君、入ってもいい?」


 悦子さんの声だ。


「どうぞ」


 ドアが開いて、悦子さんが入ってきた。


 手にはお茶のセットを持っている。


「お茶でも飲みながらやったら?」


「ありがとうございます」


 悦子さんはお茶を机に置くと、僕の隣にしゃがんだ。


「和傘の手入れって難しいのよね」


 そう言いながら、傘を見つめる。


「まず、濡れた状態で閉じちゃダメよ」


「そうなんですか」


「カビが生えちゃうから」


 悦子さんが説明を始める。


「開いたまま、風通しの良い場所で乾かすのが基本」


 なるほど。


「それから、汚れは優しく拭き取ること」


 布巾を手に取って、実演してくれる。


「ゴシゴシこすっちゃダメ。和紙が破れちゃうから」


 確かに、和紙は繊細そうだ。


「骨組みの部分も丁寧にね。悪い()()では、なさそうだし──」


 そう言って竹の骨を一本一本、丁寧に拭いていく悦子さん。


 その手つきは慣れたものだった。


「悦子さん、和傘使ったことあるんですか?」


「昔、おばあちゃんが使ってたのよ」


 懐かしそうに微笑む。


「子供の頃、よく手入れを手伝わされたわ」


 そんな話をしながら、二人で傘の手入れをしていると。


「あっ」


 悦子さんが小さく声を上げた。


 同時に、首元にひんやりとした感触。


「わぁっ!」


 思わず声が出る。


 振り返ると、そこにはクロがいた。


 小さくなったクロが、僕の首筋にぺたりと張り付いている。


「いないと思ったら天井にいたのねぇ」


 悦子さんが笑いながら言う。


「ごめんね、クロ。放っておいて」


 僕が謝ると、クロはぷるりと震えた。


 怒ってはいないみたいだ。


 悦子さんが立ち上がる。


「そうだ、クロちゃんにもご飯あげないとね」


 そう言って部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。


 手には小さなビニール袋。


 中にはパンの耳が入っている。


「はい、クロちゃん」


 悦子さんが一本取り出して、クロの前に差し出す。


 クロは恐る恐るといった感じで触手を伸ばす。


 ゆっくり、ゆっくりと。


 まるで警戒しているみたいだ。


 そしてパンの耳を受け取ると、すぐに体内に取り込んだ。


「あら、今度は受け取ってくれたのね」


 悦子さんが嬉しそうに言う。


「前は全然受け取ってくれなかったのに」


 そうだったのか。


「最近は少しずつ慣れてきたみたいね」


 悦子さんがクロを見つめる。


 僕は少し考えてから、口を開いた。


「クロ」


 クロが僕の方を向く。


 少なくとも、そんな気がした。


「悦子さんも茂さんも、僕の──」


 言いかけて少し悩む。


 でも言うことにした。


「僕のお父さんとお母さん、みたいな人なんだ」


 ちょっと恥ずかしい。


 でも本当のことだ。


「僕だけじゃなくて二人のことも守ってね」


 クロに向かってそう言う。


 すると悦子さんが「あら」と言って笑った。


 優しい笑顔だった。



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