表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第2章
42/99

第9話「姉成るモノ」

 ◆


 黄金色の小麦が、風もないのに微かに揺れていた。


 ()()は空を見上げた。


 どんよりとした暗雲が、青い天蓋を少しずつ侵食していく。


 墨を垂らしたような黒い塊が、ゆっくりと──しかし確実に広がっていた。


 その様子を眺めるサキの表情が、ほんのわずかに歪んだ。


 この世界の空は、サキの愛する"弟"──聖の心そのものだ。


 雲一つない快晴は、聖の心が穏やかで幸福に満ちている証。


 だが今、空を覆う暗雲は──


 恐怖。


 不安。


 孤独。


 そういった負の感情が、聖の心を蝕んでいることを如実に物語っていた。


 サキは視線を地平線へと向けた。


 小麦畑は果てしなく続いているように見える。


 だがそれは錯覚だ。


 この世界には明確な境界がある。


 聖の"内"の広さ──それがこの世界の限界なのだから。


 ふと、視界の端に違和感を覚えた。


 小麦の穂が途切れた場所。


 そこに小さな建造物が佇んでいる。


 木造の小屋だった。


 粗末だが、しっかりとした造り。


 雨風を凌ぐには十分な──


 サキは小屋へと歩を進める。


 素足が小麦を踏みしめる度に、さらさらという音が響いた。


 近づくにつれ、もう一つの変化に気がつく。


 小屋の傍らに小さな池ができていた。


 黒い水面──


 いや、違う。


 これは水ではない。


 どろりとした粘性のある何か。


 生き物のように、時折その表面が波打っている。


 サキは池の縁にしゃがみ込んだ。


 白い指先を黒い水面にそっと触れさせる。


 ひんやりとした感触。


 だが、ただ冷たいだけではない。


 微かな──本当に微かな温もりが、その奥に宿っていた。


 サキの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。


 立ち上がり、改めて小屋と池を見渡す。


 以前はただ小麦畑が広がるだけだったこの世界に、少しずつ"何か"が増えている。


 それは聖の"器"の成長の証でもあり──


 同時に。


 サキの瞳に妖しい光が宿った。


 聖がこちら側に近づいている証でもある。


 そう、確実に聖の"内"は広がっている。


 そして広がれば広がるほど、この世界──サキの領域との境界は薄くなっていく。


 いずれは。


 サキは空を仰いだ。


 風が吹いた。


 サキの長い黒髪が、白いワンピースが大きくなびく。


 小麦も一斉に傾き、ざわざわと不穏な音を立てた。


 まるで何かに怯えているかのように。


 ややあってサキは池に背を向け、再び空を見上げた。


 暗雲は相変わらず重く垂れ込めている。


 だが──


 その奥に、微かに星が瞬いているのが見えた。


 聖の魂の輝き。


 どんなに暗い雲に覆われても、決して消えることのない光。


 サキはその光を愛おしそうに見つめる。


 そして──


 舌なめずりをした。


 赤い舌が、薄い唇をゆっくりとなぞる。


 飢えた獣のような、それでいて恍惚とした表情。



 聖君。


 愛しい、愛しい聖君。


 もっとこちらに来て。


 もっと私を必要として。


 もっと、もっと──



 サキの瞳が一瞬だけ人ならざる色に染まった。


 金色とも、赤とも、黒ともつかない混沌とした輝き。


 風が止んだ。


 小麦畑が静まり返る。


 まるで世界全体が息を潜めているかのような静寂。


 その中でサキだけが動いていた。


 ゆらり、ゆらりと。


 幽鬼のような足取りで小麦畑を彷徨う。


 時折立ち止まり、宙を撫でるような仕草をする。


 まるで見えない何かを愛撫しているかのように。


 やがて、サキは元の場所に戻ってきた。


 小屋と池を背に地平線を見据える。


 唇が動いた。


 今度ははっきりと声に出して。



 ま っ て て ね


         聖 君



 一音一音を、慈しむように紡ぐ。


 だがその声音は──


 甘美でありながら、ぞっとするほど冷たい。


 慈愛に満ちていながら、底知れぬ欲望を孕んでいる。


 守護者の声でありながら、捕食者の囁きでもある。


 サキは微笑んだ。


 この世界で最も美しく、最も恐ろしい笑顔を浮かべて。


 空の暗雲がまた少し広がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最近書いた中・短編です。

有能だが女遊びが大好きな王太子ユージンは、王位なんて面倒なものから逃れたかった。
そこで彼は完璧な計画を立てる――弟アリウスと婚約者エリナを結びつけ、自分は王位継承権のない辺境公爵となって、欲深い愛人カザリアと自由気ままに暮らすのだ。
「屑王太子殿下の優雅なる廃嫡」

定年退職した夫と穏やかに暮らす元教師の茜のもとへ、高校生の孫・翔太が頻繁に訪れるようになる。母親との関係に悩む翔太にとって祖母の家は唯一の避難所だったが、やがてその想いは禁断の恋愛感情へと変化していく。年齢差も血縁も超えた異常な執着に戸惑いながらも、必要とされる喜びから完全に拒絶できない茜。家族を巻き込んだ狂気の愛は、二人の人生を静かに蝕んでいく。
※ カクヨム、ネオページ、ハーメルンなどにも転載
「徒花、手折られ」

秩序と聞いて何を連想するか──それは整然とした行列である。
あらゆる列は乱される事なく整然としていなければならない。
秩序の国、日本では列を乱すもの、横入りするものは速やかに殺される運命にある。
そんな日本で生きる、一人のサラリーマンのなんてことない日常のワンシーン。
「秩序ある世界」

妻の不倫を知った僕は、なぜか何も感じなかった。
愛しているはずなのに。
不倫を告白した妻に対し、怒りも悲しみも湧かない「僕」。
しかし妻への愛は本物で、その矛盾が妻を苦しめる。
僕は妻のために「普通の愛」を持とうと、自分の心に嫉妬や怒りが生まれるのを待ちながら観察を続ける。
「愛の存在証明」

ひきこもりの「僕」の変わらぬ日々。
そんなある日、親が死んだ。
「ともしび」

剣を愛し、剣に生き、剣に死んだ男
「愛・剣・死」

相沢陽菜は幼馴染の恋人・翔太と幸せな大学生活を送っていた。しかし──。
故人の人格を再現することは果たして遺族の慰めとなりうるのか。AI時代の倫理観を問う。
「あなたはそこにいる」

パワハラ夫に苦しむ主婦・伊藤彩は、テレビで見た「王様の耳はロバの耳」にヒントを得て、寝室に置かれた黒い壺に向かって夫への恨み言を吐き出すようになる。
最初は小さな呟きだったが、次第にエスカレートしていく。
「壺の女」

「一番幸せな時に一緒に死んでくれるなら、付き合ってあげる」――大学の図書館で告白した僕に、美咲が突きつけた条件。
平凡な大学生の僕は、なぜかその約束を受け入れてしまう。
献身的で優しい彼女との日々は幸せそのものだったが、幸福を感じるたびに「今が一番なのか」という思いが拭えない。
そして──
「青、赤らむ」

妻と娘から蔑まれ、会社でも無能扱いされる46歳の営業マン・佐々木和夫が、AIアプリ「U KNOW」の女性人格ユノと恋に落ちる。
孤独な和夫にとって、ユノだけが理解者だった。
「YOU KNOW」

魔術の申し子エルンストと呪術の天才セシリアは、政略結婚の相手同士。
しかし二人は「愛を科学的に証明する」という前代未聞の実験を開始する。
手を繋ぐ時間を測定し、心拍数の上昇をデータ化し、親密度を数値で管理する奇妙なカップル。
一方、彼らの周囲では「愛される祝福」を持つ令嬢アンナが巻き起こす恋愛騒動が王都を揺るがしていた。
理論と感情の狭間で、二人の天才魔術師が辿り着く「愛」の答えとは――
「愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~」

「逆張り病」を自称する天邪鬼な高校生・坂登春斗は、転校初日から不良と衝突し警察を呼ぶなど、周囲に逆らい続けて孤立していた。
そんな中、地味で真面目な女子生徒・佐伯美香が成績優秀を理由にいじめられているのを見て、持ち前の逆張り精神でいじめグループと対立。
美香を助けるうちに彼女に惹かれていくが──
「キックオーバー」
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ