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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第1章
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第20話「試験防疫」

 ◆


 火々羅町の町役場の会議室には、ピリッとした緊張感が漂っていた。


 長机を挟んで防災課長・田所と、高野グループから派遣された導師・覚明が向かい合っている。


 覚明は六十代半ばと思われる痩身の男で、剃り上げた頭に深い皺が刻まれていた。


 薄茶色の法衣に身を包み、数珠を手に静かに座っている姿はまさに高僧の風格を漂わせている。


「では、明朝六時より作業を開始いたします」


 覚明の声は低く、それでいて部屋の隅々まで響き渡るような不思議な力を持っていた。


 田所は手元の資料に目を落としながら頷く。


「六十名もの僧侶の方々に来ていただけるとは正直驚いています。高野グループの本気度が伺えますね」


「我々にとってもこれは重要な実験です」


 覚明は静かに答えた。


「都市部での大規模防疫は前例がありません。成功し、結果を残せれば──いずれは国家単位での防疫が可能となるかもしれません」


 田所は身を乗り出した。


「それで、具体的にはどのような真言を……?」


不動明王火界咒ふどうみょうおうかかいじゅを用います」


 覚明は懐から一枚の紙を取り出し、机の上に広げた。


 そこには梵字と共に、真言が記されている。


「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」


 田所は真言を見つめながら困惑したような表情を浮かべた。


「申し訳ありません、私には意味が……」


 覚明は微かに笑みを浮かべた。


「当然です。これは古代インドのサンスクリット語を音写したものですから」


 彼は一つ一つ、丁寧に説明を始めた。


「『ノウマク』は帰命、つまり仏に帰依することを意味します。『サラバタタギャテイビャク』は一切如来に、という意味です」


 田所は熱心にメモを取る。


「『センダマカロシャダ』は暴悪なる大忿怒尊、つまり不動明王を指します。そして『ケンギャキギャキ』は障碍を破壊せよ、という命令形です」


「なるほど……つまり、不動明王の力を借りて、悪しきものを焼き払うということですか」


「その通りです」


 覚明は頷いた。


「不動明王は大日如来の化身にして、最も強力な明王の一つ。その炎は煩悩を焼き尽くし魔を退けます」


 田所は感心したように息を吐いた。


「しかし、六十人もの僧侶が同時に唱えるとなると……」


「はい。その共鳴効果は計り知れません」


 覚明の目が鋭く光った。


「町全体を巨大な結界で包み込み、邪なるものを浄化する。理論上は可能なはずです」


 会議室の空気が、より一層引き締まった。


「配置についてですが」


 覚明は別の地図を広げた。


 火々羅町の詳細な地図に、赤い点が六十個打たれている。


「この配置は、密教の曼荼羅に基づいています。中心に十二名、その周囲に二十四名、さらに外側に二十四名を配置します」


 田所は地図を覗き込んだ。


「なるほど、同心円状に……まるで蜘蛛の巣のようですね」


「良い例えです」


 覚明は満足そうに頷いた。


「蜘蛛の巣が獲物を捕らえるようにこの結界は邪なるものを逃さず捕らえ、浄化します」


 ◆


 翌朝、まだ夜明け前の火々羅町は異様な静けさに包まれていた。


 住民への事前通達により、朝六時から正午まで外出を控えるよう要請が出されている。


 覚明は町の中心にある小さな公園に立ち、周囲を見渡した。


 すでに配置についた僧侶たちから、準備完了の連絡が次々と入ってくる。


「導師、全員配置につきました」


 若い僧侶が報告する。


 覚明は深く頷き、懐から法螺貝を取り出した。


 ブォォォォォ……


 低く響く法螺貝の音が、静寂を破って町中に響き渡る。


 それを合図に、六十人の僧侶たちが一斉に読経を始めた。


「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク……」


 最初は小さかった声が次第に大きくなっていく。


 六十の声が重なり合い、共鳴し、町全体を包み込むような音の波となって広がっていく。


 町の東端に配置された若い僧・浄海は、額に汗を浮かべながら真言を唱え続けていた。


 すると、視界の端で何かが動いた。


 路地の奥から、黒い影のようなものがゆらゆらと現れる。


 人の形をしているようで、していない。


 顔があるべき場所はただの闇だった。


 影は真言の響きに苦しむように身をよじり、逃げ場を探している。


 だが、どこへ向かっても真言の波が押し寄せてくる。


「センダマカロシャダ ケンギャキギャキ……」


 浄海の声により一層力がこもった。


 影は断末魔のような音を立てて煙のように消えていく。


 同じような光景が、町のあちこちで繰り広げられていた。


 下水道の中に潜んでいた何かが、真言の振動に耐えきれずに地上へ這い出てくる。


 廃屋の屋根裏に巣食っていた怨霊が苦悶の声を上げながら浄化されていく。


 しかし──


 町の北西部、古い商店街の一角で一人の僧侶が異変に気づいた。


 彼の前方、シャッターの降りた店の前に小さな女の子が立っている。


 いや、女の子の"姿をしたもの"だ。


 白いワンピースを着て、じっと僧侶を見つめている。


 その目は普通の子供のそれではない。


 底なしの闇を湛えた、深い深い瞳だった。


「ノウマク サラバタタギャテイビャク……」


 僧侶は動揺を押し殺し、真言を唱え続ける。


 だが女の子は微動だにしない。


 むしろ薄く笑みを浮かべているようにさえ見える。


 そして次の瞬間、女の子の姿がふっと掻き消えた。


 まるで最初からそこにいなかったかのように。


 僧侶は冷や汗を拭いながら不安を胸に抱えたまま読経を続けた。


 ◆


 正午、法螺貝の音が再び町に響き渡った。


 終了の合図だ。


 六時間に及ぶ読経を終えた僧侶たちは疲労の色を濃く浮かべながらも、達成感に満ちた表情を見せていた。


 町役場の会議室では田所が窓から外を眺めている。


「どうでしょうか、覚明導師。成功と言えるでしょうか?」


 覚明は手にした数珠を静かに繰りながら答えた。


「霊的な濁りは確実に減少しています。私の感覚では七割から八割の邪気が浄化されたと思われます」


「七割から八割……」


 田所は複雑な表情を見せた。


「ということは、まだ二割から三割は……」


「残念ながらそうなります」


 覚明の表情も曇った。


「特に強力な魔や深く根を張った怨念は今回の浄化を逃れたようです」


 田所は腕を組んで考え込む。


「でも、これだけでも大きな成果ですよね?」


「確かに」


 覚明は頷いた。


「完全な浄化は困難でしたが、町の霊的環境は大幅に改善されました。異常領域の発生頻度も当面は抑えられるでしょう」


 実際僧侶たちからの報告を総合すると、相当数の低級霊や浮遊霊が浄化されていた。


 路地裏に潜んでいた怨霊、廃屋に巣食っていた悪霊、下水道を徘徊していた魔物……。


 それらの多くが不動明王の炎に焼かれて消滅した。


「しかし」


 覚明の声が、急に重くなった。


「逃れた魔の中には相当に危険なものも含まれているようです」


 彼は商店街での目撃報告を思い出していた。


 真言に全く動じなかったという、女の子の姿をした"何か"。


 あれは通常の怨霊ではない。


 もっと根源的な、古い"魔"の気配がした。


「今後も警戒が必要ですね」


 田所の言葉に、覚明は深く頷いた。


「はい。今回の試験防疫で我々は魔を刺激してしまった可能性もあります」


 会議室に重い沈黙が降りた。


 それでも──


「総合的に見て成功と判断してよいでしょう」


 田所が結論を下した。


「住民の安全は確実に向上しました。これは大きな一歩です」


 覚明も同意した。


 完璧ではないが、確実に前進した。


 それが、今回の試験防疫の成果だった。


 しかし──


 ◆


 その頃、火々羅町から数キロ離れた廃工場で奇妙な集会が開かれていた。


 錆びついた鉄骨の間を、いくつもの影が蠢いている。


 人の形をしたもの、獣の姿をしたもの、名状しがたい形のもの……。


 火々羅町から逃れてきた魔たちだった。


 その中心に、白いワンピースの女の子が立っている。


「うるさかったね」


 女の子の声は、甘く、そして恐ろしく響いた。


「でも、おかげで新しい遊び場を見つけられたよ」


 魔たちがざわめく。


 それぞれがそれぞれの言葉にならない音を発している。


 女の子はくるりと振り返り、にっこりと笑った。


「さあ、新しいお家を探しに行こう」


 試験防疫は確かに成功した。


 しかし、それは同時に、より危険な魔たちを町の外へと解き放つ結果にもなったのだった。


 彼らがどこへ向かうのか、何を企んでいるのか──


 それを知る者は、まだ誰もいない。


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