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お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第1章
20/99

第18話「悪夢」

 ◆


 河野美雪は霊異捜査局渋谷分局の資料室で、透明なケースに収められた小石を見つめていた。


 ただの石ころ。


 路地の隅に転がっていたという、何の変哲もない小石だ。


「先日の異常領域から回収したものです」


 技術班の若手が説明する。


「街の外れの路地で発生した異常領域。現場には特に目立った痕跡はありませんでしたが、念のため周辺の物品をいくつか回収しました」


 美雪は眉をひそめた。


 一見すると、ただの石。


 だが、そこには確かに濃密な霊的残滓がこびりついている。


 美雪の異能がそれを感じ取っていた。


「河野さん、準備はいいかい?」


 同僚の声に振り返ると、観察記録用のカメラを手にした面々が待機している。


 美雪は小さく頷いた。


 念視──ヴィジョンと呼ばれる異能。


 物体に残された霊的残滓から、過去の光景や感情を読み取る能力だ。


 たとえそれが道端の石ころであろうと、強烈な霊的事象の近くにあったものならば、その波動は物体に刻まれる。


 恐怖、歓喜、絶望──そして時には、人ならざるものの気配までも。


 美雪はケースを開け、素手で石に触れた。


 瞬間、意識が肉体から剥離するような浮遊感が全身を包む。


 現実の資料室が薄れ、別の光景が網膜の裏側に浮かび上がってくる。


 一面の黄金。


 見渡す限りの稲穂が、風に揺れている。


 波のように押し寄せる黄金色の海。


 太陽の光を反射して、きらきらと輝いている。


 美雪は息を呑んだ。


 この光景は明らかに現実ではない。


 東京のど真ん中に、こんな広大な稲田など存在しない。


 稲穂の中で何かが動いている。


 それは人影に見えるが、姿は判然としない。


 ──もっとよく視なければ


 そう精神力を集中した時であった。


 美雪の全身が総毛立った。


 “何か”は“女のようなモノ”だと分かった。


 しかし尋常のモノではない。


 腐肉が垂れ下がり、眼窩には蛆が湧いている。


 白い巫女衣装とみられる衣服は血と膿で汚れ、髪の毛は抜け落ちて頭蓋骨が露出していた。


 踊るたびに、腐った肉片が飛び散っている。


 そして美雪は視た。


 中学生か高校生らしき少年が、その化け物に向かって歩いていくのを。


 少年の顔には恍惚とした表情が浮かんでいる。


 まるで天使を見るような、純粋な憧憬の眼差し。


 化け物が少年を抱きしめた。


 腐った腕が少年の体を包み込む。


 少年は幸せそうに、その胸に顔を埋めている。


 ──おぞましい


 なぜこの少年は、あんな化け物に抱かれて平気なのか。


 なぜ恐怖を感じないのか。


『ぽ』


 突如、美雪の耳元で声が響いた。


 文字にすれば間の抜けた音。


 しかし美雪の魂は、その一音に込められた底知れぬ敵意を感じ取った。


 ──見るな


 ──これ以上踏み込むな


 ──さもなくば


 恐怖が背骨を駆け上がる。


 美雪は慌てて意識を引き戻そうとした。


 念視からの離脱──接続を切る。


 普段なら造作もない動作が、なぜか上手くいかない。


 まるで見えない手に意識を掴まれているような──


『ぽぽぽ』


 声が近づいてくる。


 稲穂の海が赤く染まり始めた。


 まるで血の色の様だ。


 美雪は必死に目を閉じ、現実への帰還を試みる。


 資料室の蛍光灯の白い光を思い出せ。


 同僚たちの声を。


 コーヒーの匂いを。


 ようやく、意識が肉体に戻ってきた。


「河野さん!」


 誰かが叫んでいる。


「救護班を呼べ! 早く!」


 なぜそんなに慌てているのだろう。


 美雪は手の甲で顔を拭った。


 べっとりと、赤い液体が付着している。


 血だ。


 視界が赤く染まっていたのは、自分の目から血が流れていたからだと気づく。


 そして──


 ぽろり。


 何かが頬を滑り落ちた。


 床に転がったそれを見て、美雪は声にならない悲鳴を上げた。


 自分の眼球だった。


 そして──……


 ◆


 病室の天井の染み。


 美雪は片目だけでそれを数えながら、ぼんやりと時を過ごしている。


 左目には眼帯。


 もう片方は奇跡的に無事だったが、医師からは「しばらく念視は控えるように」と厳命されていた。


 ノックの音がして、ドアが開く。


「河野さん、調子はどう?」


 渋谷分局の上司、黒木課長が見舞いに来た。


 美雪は力なく微笑む。


「まあ、なんとか」


 黒木は病室の椅子に腰を下ろし、真剣な表情で美雪を見つめた。


「君が念視で見たものについて、聞かせてもらえるかな」


 美雪は少しの間、黙っていた。


 それから、ゆっくりと首を横に振る。


「覚えていないんです」


「覚えていない?」


 黒木の声に、わずかな疑念が滲む。


「はい。接続を切ろうとした時のことは覚えていますが、何を見たのかは……」


 美雪は視線を落とした。


 黒木はしばらく美雪を見つめていた。


 病室に重い沈黙が降りる。


 やがて、黒木が口を開いた。


「口に出す必要はない」


 美雪がわずかに肩を震わせる。


「君は何かを見た。しかし、それを話したくないのか?」


 美雪は答えない。


 ただ、じっとシーツを見つめている。


 黒木はさらに続けた。


「それとも──話せないのか?」


 その言葉に、美雪の体がぴくりと反応した。


 一瞬だけ美雪は顔を上げ、黒木と視線を合わせた。


 しかしすぐに美雪は視線を逸らし、再びうつむいた。


 黒木は小さく息を吐いた。


「……分かった」


 立ち上がり、ドアに向かう黒木。


 その背中に、美雪がぽつりと呟いた。


「すみません」


 黒木は振り返らずに答えた。


「謝る必要はない。君の身の安全が最優先だ」


 ドアが閉まる音が、病室に響いた。


 美雪は震える手で眼帯に触れた。


『ぽ』


 今でも耳の奥に、あの声がこびりついている。


 話せない。


 話してはいけない。


 あれは、人間が知るべきではない領域の何かだった。


 もし話せば──


 ──()()()()


 ◆


 退院の日はあいにくの雨だった。


 美雪は段ボール箱に私物を詰め込みながら、これが最後だと理解していた。


 霊異捜査局渋谷分局。


 三年間勤めた職場に、もう戻ることはない。


「本当にいいの?」


 同僚の山田が心配そうに尋ねる。


 美雪は力なく笑った。


「もう、無理なんです」


 念視能力自体は失われていない。


 だがあの日以来、何かに触れるたびに『ぽ』という声が聞こえるような気がして、能力を使うことができなくなった。


 トラウマ、と医師は診断した。


 時間が解決してくれるかもしれない、とも。


 だが美雪には分かっていた。


 どれだけ時間が経とうとも、もう二度と自分は現場復帰ができないだろうという事を。


「お世話になりました」


 深々と頭を下げ、美雪は局を後にした。


 雨に濡れながら歩く帰り道。


『ぽ』


 雨風に紛れて、あの声が聞こえた気がした。


 美雪は震える手で傘を握りしめ、雨の中を歩きつづけた。

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