表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第1章
19/99

第17話「夢」

 ◆


 夢だ。


 そう理解するまでに、数秒かかった。


 体が浮いているような、それでいて地に足がついているような、不思議な感覚が全身を包んでいる。


 目の前に広がるのは、見渡す限りの稲穂だった。


 黄金色の絨毯──そう表現するしかない。


 風が吹くたびに、さわさわと穂が揺れて、まるで波のように押し寄せてくる。


 太陽の光を反射して、きらきらと輝く稲の海。


 そのただなかで、ひとりの女の人が踊っていた。


 白い巫女衣装が稲穂の金色に映えている。


 袖が風に舞い、裾がふわりと広がる。


 そして──


 ──穂よ、栄えよ、満てよ、穂、穂、穂……


 声が聞こえるのだ。


 遠く離れているはずなのに、その歌声は僕の耳にはっきりと届いた。


 澄んだ声。


 鈴の音のように清らかで、どこか懐かしい。


 女の人は両手を天に向けて、ゆっくりと回転した。


 白い衣装が円を描き、稲穂もそれに合わせて揺れる。


 まるで稲穂が彼女の舞に応えているかのようだった。


 僕は息を呑んで、その光景を見つめていた。


 美しいという言葉では足りない。


 神々しいというのも違う気がする。


 ただ、目が離せなかった。


 金色の世界の中で、僕はただただ女の人を見つめていた。


 ふいに女の人がこちらを向く。


 瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。


 ──きれいだ


 息が止まるほど、美しい人だった。


 長い黒髪が風になびき、白い肌が陽光に透けるように輝いている。


 そして何より、その瞳。


 血のように赤い瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。


 でも怖くない。


 むしろ、吸い込まれそうなほど魅力的で──


「あ……」


 僕は気づいた。


 この人を、僕は知っている。


「お姉さん」だ。


 十年前故郷の山で出会った、あのお姉さんだった。


 お姉さんは僕に気づいて嬉しそうに笑った。


 胸の奥がじんわりと熱くなる。


 お姉さんはゆっくりと手招きをしてくれた。


 細く白い指が、優しく僕を呼んでいる。


 僕は吸い寄せられるように、一歩を踏み出した。


 稲穂が足元でさらさらと音を立てる。


 一歩、また一歩。


 なぜだろう、走り出したいのに足が妙に重い。


 ゆっくりとしか歩けない。


 でも確実に、僕はお姉さんに近づいていく。


 やがてお姉さんの前に立つ僕。


 見上げると、やっぱり背が高い。


 二メートルを優に超えるその身長は、子供の頃と変わらない。


 いや、もしかしたら僕が成長した分、相対的には少し縮まったのかもしれない。


 でも、やっぱり見上げる形になる。


「呼びつけてごめんなさい」


 お姉さんの声は、歌うように優しかった。


「私はこれ以上そちらへいけないのです。今は、まだ」


 その言葉の意味を考える前に、お姉さんは僕を抱きしめた。


 ふわりと包み込まれる感覚。


 白い巫女衣装の袖が、僕の体を覆う。


 そして──


 顔が、柔らかな胸に埋まった。


 普通なら恥ずかしくて死にそうになる状況だ。


 でも、不思議と恥ずかしさは感じなかった。


 むしろ当然のことのように思えた。


 ──僕は弟なんだから、お姉さんに甘えても当然だ


 そんな思いが、心の奥から湧き上がってくる。


 温かい。


 お姉さんの体温が、じんわりと僕に伝わってくる。


 懐かしい匂いがした。


 稲穂の香りと、何か甘い花のような香り。


 そしてなんとなくお線香のような香りも混じっている。


「聖くん」


 頭上からお姉さんの声が降ってきた。


「逢えてとてもとてもとてもとてもとてもとても嬉しい」


「とても」を六回も重ねるその言い方がなんだか可愛らしくて、僕は思わず笑みがこぼれた。


 お姉さんの腕に、ぎゅうっと力が込められる。


 より強く、より深く、僕を抱きしめてくれる。


 まるでもう二度と離したくないとでも言うように。


 僕もお姉さんを抱きしめ返した。


 細い腰には確かな存在感があって、お姉さんが本当にここにいることを実感させてくれる。


 このままずっとこうしていたい。


 そんな気持ちが心の中に広がっていく。


 でも聞きたいこともあった。


 ずっと、ずっと聞きたかったこと。


「お姉さん」


 僕は顔を上げて、お姉さんを見つめた。


 赤い瞳と目が合う。


 近くで見ると、その瞳の中にはいろんな色が混じっていることがわかった。


 朱色、緋色、茜色、紅色──


 さまざまな「赤」が複雑に絡み合って、宝石のような輝きを放っている。


「お姉さんの名前は、なんていうの?」


 ずっと聞きたかった質問を、ついに口にした。


 お姉さんは一瞬、驚いたような表情を見せた。


 それから、ゆっくりと微笑んで──


 唇が動いた。


「〇〇〇」


 その瞬間──


 世界が歪んだ。


 黄金色の稲穂が、ぐにゃりと曲がる。


 お姉さんの姿が、水に映った影のように揺らぐ。


 声は聞こえたはずなのに、なぜか頭に入ってこない。


 名前を聞いたはずなのに──


「あっ」


 急激に意識が浮上していく感覚。


 まるで深い水の底から、一気に水面へと引き上げられるような──


 目を開けた。


 天井が見える。


 見慣れた自分の部屋の天井だった。


「……夢、か」


 呟いて、ゆっくりと体を起こす。


 パジャマが汗でじっとりと濡れていた。


 窓から差し込む朝日が、カーテンの隙間から部屋を照らしている。


 夢の感触はまだ鮮明に残っている。


 稲穂の匂い、お姉さんの温もり、そしてあの優しい声──


「これ以上そちらへいけない……か」


 お姉さんの言葉を反芻する。


 どういう意味なんだろう。


「そちら」というのは、現実の世界のことなのか。


 それとも、もっと別の何かを指しているのか。


「今は、まだ」という言葉も気になる。


 いつかは来られるようになるということなのだろうか。


 だとしたら僕はそれまで待てばいいのか? 


 いや、違う。


 ふと、別の考えが頭をよぎった。


 ──僕から、お姉さんのところへ行けばいいんじゃないか


 でも、どうやって? 


 そもそもお姉さんがいる場所はどこなんだろう。


 夢の中? それとも──


 頭を抱えて考え込む。


 答えは出ない。


 でもなんとなく分かりそうな気もしていた。


 もう少しで、何か大切なことに気づけそうな──


「聖くん! 朝ごはんよ!」


 階下から、悦子さんの声が聞こえてきた。


 現実の音が、夢の残滓を押し流していく。


「はーい!」


 返事をして、ベッドから降りる。


 足が冷たい床についた瞬間、完全に現実に引き戻された。


 でも──


 ──いつか、また会える


 そんな確信めいたものを抱きながら、僕は階下へと降りていった。


 朝食の匂いが階段を上ってくる。


 味噌汁と焼き魚の香ばしい匂い。


 日常のありふれた朝の風景。


 でも僕の心はまだあの黄金色の稲穂の海を漂っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最近書いた中・短編です。

有能だが女遊びが大好きな王太子ユージンは、王位なんて面倒なものから逃れたかった。
そこで彼は完璧な計画を立てる――弟アリウスと婚約者エリナを結びつけ、自分は王位継承権のない辺境公爵となって、欲深い愛人カザリアと自由気ままに暮らすのだ。
「屑王太子殿下の優雅なる廃嫡」

定年退職した夫と穏やかに暮らす元教師の茜のもとへ、高校生の孫・翔太が頻繁に訪れるようになる。母親との関係に悩む翔太にとって祖母の家は唯一の避難所だったが、やがてその想いは禁断の恋愛感情へと変化していく。年齢差も血縁も超えた異常な執着に戸惑いながらも、必要とされる喜びから完全に拒絶できない茜。家族を巻き込んだ狂気の愛は、二人の人生を静かに蝕んでいく。
※ カクヨム、ネオページ、ハーメルンなどにも転載
「徒花、手折られ」

秩序と聞いて何を連想するか──それは整然とした行列である。
あらゆる列は乱される事なく整然としていなければならない。
秩序の国、日本では列を乱すもの、横入りするものは速やかに殺される運命にある。
そんな日本で生きる、一人のサラリーマンのなんてことない日常のワンシーン。
「秩序ある世界」

妻の不倫を知った僕は、なぜか何も感じなかった。
愛しているはずなのに。
不倫を告白した妻に対し、怒りも悲しみも湧かない「僕」。
しかし妻への愛は本物で、その矛盾が妻を苦しめる。
僕は妻のために「普通の愛」を持とうと、自分の心に嫉妬や怒りが生まれるのを待ちながら観察を続ける。
「愛の存在証明」

ひきこもりの「僕」の変わらぬ日々。
そんなある日、親が死んだ。
「ともしび」

剣を愛し、剣に生き、剣に死んだ男
「愛・剣・死」

相沢陽菜は幼馴染の恋人・翔太と幸せな大学生活を送っていた。しかし──。
故人の人格を再現することは果たして遺族の慰めとなりうるのか。AI時代の倫理観を問う。
「あなたはそこにいる」

パワハラ夫に苦しむ主婦・伊藤彩は、テレビで見た「王様の耳はロバの耳」にヒントを得て、寝室に置かれた黒い壺に向かって夫への恨み言を吐き出すようになる。
最初は小さな呟きだったが、次第にエスカレートしていく。
「壺の女」

「一番幸せな時に一緒に死んでくれるなら、付き合ってあげる」――大学の図書館で告白した僕に、美咲が突きつけた条件。
平凡な大学生の僕は、なぜかその約束を受け入れてしまう。
献身的で優しい彼女との日々は幸せそのものだったが、幸福を感じるたびに「今が一番なのか」という思いが拭えない。
そして──
「青、赤らむ」

妻と娘から蔑まれ、会社でも無能扱いされる46歳の営業マン・佐々木和夫が、AIアプリ「U KNOW」の女性人格ユノと恋に落ちる。
孤独な和夫にとって、ユノだけが理解者だった。
「YOU KNOW」

魔術の申し子エルンストと呪術の天才セシリアは、政略結婚の相手同士。
しかし二人は「愛を科学的に証明する」という前代未聞の実験を開始する。
手を繋ぐ時間を測定し、心拍数の上昇をデータ化し、親密度を数値で管理する奇妙なカップル。
一方、彼らの周囲では「愛される祝福」を持つ令嬢アンナが巻き起こす恋愛騒動が王都を揺るがしていた。
理論と感情の狭間で、二人の天才魔術師が辿り着く「愛」の答えとは――
「愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~」

「逆張り病」を自称する天邪鬼な高校生・坂登春斗は、転校初日から不良と衝突し警察を呼ぶなど、周囲に逆らい続けて孤立していた。
そんな中、地味で真面目な女子生徒・佐伯美香が成績優秀を理由にいじめられているのを見て、持ち前の逆張り精神でいじめグループと対立。
美香を助けるうちに彼女に惹かれていくが──
「キックオーバー」
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ