表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お姉さんと僕  作者: 埴輪庭
第1章
18/99

閑話①「怪異行:水道局員・田中の場合」

 ◆


 マンホールの蓋が重い金属音を立てて開いた。


 朝の光が薄暗い縦穴に差し込み、錆びた鉄梯子を照らす。


「おーい、田中、準備できたか?」


 地上から同僚の声が響く。


 俺は、ヘルメットのライトを点灯させながら応えた。


「ああ、これから降りる」


 今日の作業は下水管の老朽化調査。


 この辺りは築五十年を超える古い管が多く、定期的な点検が欠かせない。


 ただし、今回は通常の調査とは少し事情が違った。


「例の"アレ"の件、頼むぞ」


 同僚の緊張した声が梯子を伝って降りてくる。


 俺は苦笑いを浮かべながら、腰のポーチに手を当てた。


 中にはきゅうりが三本。


 それも、わざわざ朝採れの新鮮なやつを用意してきた。


 ──まさか令和の時代に、こんなもんが必要になるとはな。


 ◆


 異常領域の発生から暫く。


 当初は誰もが怪異の存在に怯え、遭遇すれば即座に霊捜を呼んでいた。


 だが時間が経つにつれ、人々は気づき始めた。


 すべての怪異が人間に害をなすわけではない、と。


 むしろ、昔から同じ土地に住み着いている"先住民"のような存在もいる。


 彼らは人間が勝手に作った下水道や地下鉄の中で、ひっそりと暮らしていた。


 そして時折、人間の都合と彼らの生活圏が衝突する。


 今回がまさにそれだった。


 ◆


 鉄梯子を降りきると、コンクリートの通路に足がついた。


 下水特有の臭いが鼻をつく。


 だが慣れたもので、もう気にならない。


 ヘッドライトの光が暗闇を切り裂きながら、俺は奥へと進んでいく。


 やがて、管が大きく曲がる地点に差し掛かった。


 設計図によれば、この先で複数の支管が合流している。


 老朽化の報告があったのも、ちょうどこの辺りだ。


 俺は立ち止まり、ポーチからきゅうりを一本取り出した。


「失礼します」


 暗闇に向かって声をかける。


 返事はない。


 だが、水の流れる音に混じって、何かが動く気配がした。


「東京都水道局の田中と申します。本日は下水管の調査でお邪魔しております」


 丁寧な口調を心がける。


 相手が人間でないからといって、礼を欠いていいわけじゃない。


 むしろ逆だ。


 彼らの方が、俺たちよりずっと長くこの土地にいるのだから。


 ちゃぷん、と水音がした。


 そして、暗闇の奥から緑色の手がぬっと現れる。


 水かきのついた、人間とは明らかに異なる手。


 俺は緊張を押し殺しながら、きゅうりを差し出した。


「お納めください」


 手がきゅうりを受け取ると、すぐに闇の中へ引っ込んだ。


 ぼりぼりと、きゅうりを齧る音が響く。


 やがて、水面から頭が浮かび上がった。


 頭頂部に皿。


 嘴のような口。


 全身がつるんとした質感。


 ──河童だ


「ひさしぶりだな、人間」


 河童の声は、意外にも流暢な日本語だった。


 少し訛りがあるが、十分に意思疎通ができる。


「お変わりないようで何よりです」


 俺は安堵の息をつく。


 実はこの河童──自称カワ太郎とは、三ヶ月前にも顔を合わせている。


 その時も下水管の修理で、彼の縄張りに立ち入る必要があった。


 最初は随分と警戒されたが、きゅうりと丁寧な説明で何とか理解を得られた。


 以来、この辺りの工事の際は必ず挨拶に来るようにしている。


「今日は何の用だ?」


 カワ太郎が首を傾げる。


 俺は腰の道具袋から、防水加工を施した図面を取り出した。


「この辺りの管が老朽化していまして。亀裂から汚水が漏れている可能性があるんです」


 図面を見せながら説明する。


 カワ太郎は興味深そうに覗き込んできた。


 意外にも、彼は人間の文字が読めるらしい。


「ふむ、確かに最近、水の流れがおかしい」


「やはりそうですか」


「南の支管から、変な臭いの水が混じってくる。わしらにとっては死活問題だ」


 カワ太郎の表情が険しくなる。


 河童にとって、水質の悪化は生命に関わる。


 彼らは水と共に生きる存在だからだ。


「申し訳ありません。早急に対処します」


 俺は頭を下げた。


 すると、カワ太郎が意外な提案をしてきた。


「ならば、わしが案内しよう」


「え?」


「お前たち人間には見つけにくい亀裂もある。わしなら水の流れでわかる」


 ◆


 カワ太郎の後について、俺は下水道の奥へと進んだ。


 彼は水中を自在に泳ぎ、時折顔を出しては方向を示してくれる。


「この先だ」


 指差された場所は、設計図にない小さな空洞だった。


 おそらく長年の浸食でできた天然の空間。


 ライトで照らすと、壁面に大きな亀裂が走っているのが見えた。


「これは……かなり深刻ですね」


 亀裂からは絶えず汚水が染み出し、壁を黒く変色させている。


 このままでは地盤沈下の原因にもなりかねない。


 俺は無線で地上に連絡を取った。


「大規模な補修が必要だ。至急、追加人員を」


 作業の説明をしながら、ふとカワ太郎を見る。


 彼は心配そうに亀裂を見つめていた。


「工事の間、そちらの生活に影響が出るかもしれません」


「仕方あるまい。だが──」


 カワ太郎が振り返る。


「わしらの寝床を潰さんでくれ」


「もちろんです。施工計画を立てる際は、必ず相談します」


 俺の言葉に、カワ太郎は満足そうに頷いた。


 そして、ポーチに残る二本のきゅうりに目を向ける。


「ところで、それは……」


「ああ、どうぞ」


 残りのきゅうりも差し出すと、カワ太郎は嬉しそうに受け取った。


「礼を言う。最近は良いきゅうりが手に入らんのだ」


「そうなんですか?」


「昔は上流から流れてくることもあったが、今は包装されたゴミばかりだ」


 なるほど、と俺は納得する。


 確かに最近は、きゅうりを丸ごと川に流す人なんていない。


「今度来る時は、もっと持ってきます」


「恩に着る」


 カワ太郎が水に潜ろうとした時、俺は思い切って尋ねた。


「カワ太郎さんは、どのくらい前からここに?」


 彼は水面から顔だけ出して答えた。


「江戸の頃からだ。まだこの辺りが田んぼだった時分から」


 二百年以上。


 その長さに、俺は言葉を失う。


「最初は綺麗な小川だった。それが暗渠になり、下水道になった。住みにくくはなったが、わしらも順応した」


 カワ太郎の声には諦めとも受容ともつかない響きがあった。


「人間の都合で環境は変わる。だが、わしらも生きていかねばならん」


「……すみません」


「謝ることはない。お前さんのような理解ある人間もいる。それで十分だ」


 カワ太郎は最後にこう付け加えた。


「共存というのは、完璧である必要はない。お互いに少しずつ譲り合えばいいのだ」


 ◆


 地上に戻ると、同僚たちが心配そうに待っていた。


「どうだった?」


「問題なかった」


 俺の報告に、彼らは安堵の表情を浮かべる。


「良かった。やっぱりまだ怖がる奴も多いからなあ」


「ああ。亀裂の場所も教えてもらった。明日から本格的な工事だ」


 準備を進めながら、俺は思う。


 最初は恐怖と混乱ばかりだった。


 だが人間も怪異も、少しずつ変わってきている。


 完全な理解は無理でも、最低限の敬意と配慮があれば共存は可能だ。


 カワ太郎との奇妙な協力関係が、その証拠だった。


「なあ田中」


 同僚の一人が声をかけてきた。


「ちょっと気になったんだけどさ──河童って、本当に尻子玉を抜くのか?」


「さあな。少なくともカワ太郎さんはそんなことしないみたいだけど」


「でも油断は禁物だろ?」


「そりゃそうだ。だからきゅうりを持っていく」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。


 きゅうり一本で保たれる平和。


 バカバカしいようで、案外これが一番確実な方法なのかもしれない。


伸びても伸びなくても九月までは連載します。文字数は最低でも10万字は超えます。九月以降はケースバイケースでそれ以上書くかもしれないし、さっと切り上げるかもしれません。そのあたりは未定です。更新頻度は週1以上です。完結はさせます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最近書いた中・短編です。

有能だが女遊びが大好きな王太子ユージンは、王位なんて面倒なものから逃れたかった。
そこで彼は完璧な計画を立てる――弟アリウスと婚約者エリナを結びつけ、自分は王位継承権のない辺境公爵となって、欲深い愛人カザリアと自由気ままに暮らすのだ。
「屑王太子殿下の優雅なる廃嫡」

定年退職した夫と穏やかに暮らす元教師の茜のもとへ、高校生の孫・翔太が頻繁に訪れるようになる。母親との関係に悩む翔太にとって祖母の家は唯一の避難所だったが、やがてその想いは禁断の恋愛感情へと変化していく。年齢差も血縁も超えた異常な執着に戸惑いながらも、必要とされる喜びから完全に拒絶できない茜。家族を巻き込んだ狂気の愛は、二人の人生を静かに蝕んでいく。
※ カクヨム、ネオページ、ハーメルンなどにも転載
「徒花、手折られ」

秩序と聞いて何を連想するか──それは整然とした行列である。
あらゆる列は乱される事なく整然としていなければならない。
秩序の国、日本では列を乱すもの、横入りするものは速やかに殺される運命にある。
そんな日本で生きる、一人のサラリーマンのなんてことない日常のワンシーン。
「秩序ある世界」

妻の不倫を知った僕は、なぜか何も感じなかった。
愛しているはずなのに。
不倫を告白した妻に対し、怒りも悲しみも湧かない「僕」。
しかし妻への愛は本物で、その矛盾が妻を苦しめる。
僕は妻のために「普通の愛」を持とうと、自分の心に嫉妬や怒りが生まれるのを待ちながら観察を続ける。
「愛の存在証明」

ひきこもりの「僕」の変わらぬ日々。
そんなある日、親が死んだ。
「ともしび」

剣を愛し、剣に生き、剣に死んだ男
「愛・剣・死」

相沢陽菜は幼馴染の恋人・翔太と幸せな大学生活を送っていた。しかし──。
故人の人格を再現することは果たして遺族の慰めとなりうるのか。AI時代の倫理観を問う。
「あなたはそこにいる」

パワハラ夫に苦しむ主婦・伊藤彩は、テレビで見た「王様の耳はロバの耳」にヒントを得て、寝室に置かれた黒い壺に向かって夫への恨み言を吐き出すようになる。
最初は小さな呟きだったが、次第にエスカレートしていく。
「壺の女」

「一番幸せな時に一緒に死んでくれるなら、付き合ってあげる」――大学の図書館で告白した僕に、美咲が突きつけた条件。
平凡な大学生の僕は、なぜかその約束を受け入れてしまう。
献身的で優しい彼女との日々は幸せそのものだったが、幸福を感じるたびに「今が一番なのか」という思いが拭えない。
そして──
「青、赤らむ」

妻と娘から蔑まれ、会社でも無能扱いされる46歳の営業マン・佐々木和夫が、AIアプリ「U KNOW」の女性人格ユノと恋に落ちる。
孤独な和夫にとって、ユノだけが理解者だった。
「YOU KNOW」

魔術の申し子エルンストと呪術の天才セシリアは、政略結婚の相手同士。
しかし二人は「愛を科学的に証明する」という前代未聞の実験を開始する。
手を繋ぐ時間を測定し、心拍数の上昇をデータ化し、親密度を数値で管理する奇妙なカップル。
一方、彼らの周囲では「愛される祝福」を持つ令嬢アンナが巻き起こす恋愛騒動が王都を揺るがしていた。
理論と感情の狭間で、二人の天才魔術師が辿り着く「愛」の答えとは――
「愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~」

「逆張り病」を自称する天邪鬼な高校生・坂登春斗は、転校初日から不良と衝突し警察を呼ぶなど、周囲に逆らい続けて孤立していた。
そんな中、地味で真面目な女子生徒・佐伯美香が成績優秀を理由にいじめられているのを見て、持ち前の逆張り精神でいじめグループと対立。
美香を助けるうちに彼女に惹かれていくが──
「キックオーバー」
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ