第38話「高田馬場⑤(笹本他)」
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高田馬場避難所に御堂聖が入所して五日になる。
普通であれば数日もすれば印象などと言うものは溶けていくだろう。数十人が寝起きする空間にひとり加わったところで、大半の住人にとってはその程度の話でしかないし、実際に名前も覚えていない者のほうが多いだろう。
ただ御堂聖は妙に印象に残る子だった。
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七十三歳の水谷ハルはこの新入りを気に入っている。
理由は単純に、親切だからだ。
ついでに言えば、聖の親切にはわざとらしさがなかった。善行をしている自覚のない人間だけが出せる種類の自然さで、これは中々意図して出せるものではない。
「あの子はいい子だよ」
とは食堂で水谷が隣の堀内に漏らした言葉である。堀内はそうかい、と鼻を鳴らしたが。
§
一方で──Bブロックの住人のうち何人かは、聖と廊下ですれ違うとき足が速くなる。
目が合いそうになると反射的に逸らす。廊下の幅が急に狭くなったかのように壁際へ寄る。本人たちにその自覚はなく、指摘されたところで首を傾げるだろう。
聖自身はどうかといえば──気づいているのかいないのか判然としない。表情は変わらず丁寧で控えめで、少しだけ伏し目がちなまま配給の列に並ぶ。ぱっと見はただの陰キャといったところが、別に珍しくはない。
要は普通なのだ。
◆
笹本がBブロックの田辺に声をかけたのは五日目の夕食後だった。
田辺は四十代半ばの独身女である。崩壊の前は区役所の窓口に立っていた。人当たりは柔らかいが神経質なところがあり、配給のたびに缶詰の賞味期限を確認する癖がある。仮に賞味期限が切れていた所で別のものに変えてくれるわけでもないのだが、それでも気になるらしい。笹本とは給水所で二度ほど言葉を交わした程度の仲でしかない。
笹本はCブロックの階段を降りてきて、ちょうど廊下に出た田辺の横にするりと並んだ。
「ねえ田辺さん。あの子のこと避けてるでしょ」
田辺の足が止まった。
「あの子って」
「Aの、最近入ってきた男の子。パーカーの」
笹本の口調はなんでもない。右手で耳の後ろを掻きながら壁にもたれている。左の袖は肘のあたりで折り返され、そこから先には何もない。
「避けてるっていうか……」
田辺は口ごもる。
「別にあの子が何かしたわけじゃないのよ」
「うん」
「でもね」
田辺は言葉を探すように天井を見上げ、数秒かけてからぽつりと落とした。
「なんだか怖いの」
笹本は何も言わない。
「おかしいでしょ。あの子いい子なのに。お年寄りには親切だし。なのに私、あの子の近く通るとなんだか──」
「ふうん」
「安田さんもそうみたいで……」
「安田さんって?」
「Bの、窓際の。あの人もあの子の前だとそわそわしちゃうって」
笹本は頷くでもなく否定するでもなく、ただ短い相槌を打った。
「まあ、気にしすぎないほうがいいよ」
田辺はその言葉にすがるように頷いて自分の区画へ戻った。
◆
田辺が廊下の角を曲がっても笹本はまだ壁にもたれている。
気にしすぎないほうがいい。自分で言っておいて妙な気分になる。
田辺の感じている「なんだか怖い」は正しい。安田とやらのそれも同じだろう。理由がわからないから「なんだか」という言い方になるのだろうと笹本は思った。虫の知らせとか第六感とか、そういう曖昧な名前でしか触れられないものが御堂 聖の周囲にはあって、それを体の深いところで嗅ぎとっている。
笹本の場合はもう少し事情が違う。
輪郭が見えているのだ。
恐怖の輪郭というべきか──例えるならば、ファラリスの雄牛という処刑道具がある。これは金属製の雄牛像なのだが、内部は空洞だ。この中に罪人をいれて、外から雄牛を炙る事で焼き殺す。だがそういった使い方を知らない者がファラリスの雄牛を見たらどう思うだろうか。「処刑道具です」とだけ知らされていたとしたら。まあ処刑道具なのだから不気味で、不安で、なんだか怖くなるだろう。しかし、その使い方を知っている者が見れば? 感じる恐怖は格別だろう。
『人類の最も古く、最も強い感情は恐怖であり、最も古く、最も強い恐怖は未知なるものへの恐怖である』
H.P.ラヴクラフトはそう言った。
しかし、既知もまた恐怖の種となりうる。
知っているからこそ怖いというようなモノはいくらでもある。
そう、この辺の輪郭が笹本にはわかる。なぜなら──
似たモノを知っているからだ。
見た目こそはただの、それこそ聖と同じくらいの年代の青年だがしかし、その実態は──。
それが恐ろしくて、彼女は、いや、彼らは池袋から逃げてきたのだ。
自身の腕は犬に噛まれた──と笹本は誰にでもそう説明する。無論、犬などではない。笹本は左の袖口に目を落とした。肘から先のない布が薄暗い廊下にぶら下がっている。
笹本はぶるり、と一つ震えた。




