「第37話「その頃のアリス」
◇◇◇
「さて──」
ここは池袋の東口から三ブロックほど入った雑居ビルの四階だ。
窓はベニヤ板で塞がれており、隙間から差し込む紫色の光が埃だらけの床に一本の線を引いていた。元はなにかの事務所だったのだろう、スチールデスクが三台と回転椅子が散乱し、壁には破れたカレンダーが一枚ぶら下がっている。
アリスはデスクの上に広げた地図を睨んでいた。救世会の情報分析室が作成した豊島区の概況図で、黒い×がぱらぱらと打たれている。そのうちの一つは東池袋三丁目にあるマンションに打たれていた。
そこは救世会の諜報員である牧村綾香が拠点にしていたマンションだ。
アリスはそのマンションを二日前に訪れている。
しかし誰もいなかった。
マットレスに敷かれた布団は血まみれで、おそらくは大けがをしていたであろう何者かがそこへ横たわっていた事を意味している。
「まずは、予定通り御堂君を探す──そして、牧村さんも」
どこかで生きているのだろうか?
それとも──
アリスの脳裏に、厭な予感がよぎった。
◆
「あ、あのう……」
不意に背後から声がした。おどおどとした、まるで一時間後に屠殺される事を理解している豚を彷彿させるか弱い声だ。
「お茶、淹れましたけど……飲みます?」
振り向くと千進がいた。
剃髪に墨染の衣。右手に錫杖、左手にプラスチックのコップを二つ。四十歳という年齢のわりに若く見え小柄で猫背、目がやたら泳いでいる。
この尼僧は上野にある摩利支天連大寺の僧にして、高野グループから救世会へ派遣された協力者だ。まあ肩書きだけ聞けば頼もしい限りだが、実物はこの通りである。
「いただきますわ」
アリスがコップを受け取ると、千進はほっとしたように肩を下ろした。お茶は水出しの麦茶で、ぬるくて薄い。言ってしまえば色のついた水である。まあ贅沢を言える状況ではないが。
「あ、あの──」
「ええ」
「さっき窓の隙間から見たら、東口のロータリーに四人組がいて……銃を持ってて……多分阿弥陀羅の人達だとおもうんですけど……で、その……私、もうここから一歩も出たくないんですけど……」
千進の声は後半になるにつれて小さくなり、最後はほとんど独り言だった。
アリスは内心でため息をついた。高野グループが寄越してきたのがこの尼僧だと知った時、正直なところ佐々木に文句のひとつも言いたくなったものだ。しかし千進の技能──あるいは異能は本物であり、アリスの手持ちの札では補えない領域を埋めてくれる。
アリスはなんというか不器用なのだ。カトリックの浄化術は邪悪との直接対峙に特化しているせいでもある。彼女の母はそれなりに高名な陰陽師であるので、本来ならばアリスもまた小器用に色々と出来るはずなのだが、恐らくは父──カトリックのバトル・プリーストの血が濃すぎたのだろう、立派な脳筋に育ってしまった。
そもそもカトリックのエクソシストという人種は、世間が想像するよりも遥かに暴力的である。聖句を唱え十字架を掲げて厳かに悪魔を追い出す──というのは映画が作り上げた上品なイメージに過ぎず、実際の悪魔祓いは殴り合いだ。物質界に顕現した悪魔は家具を投げ、壁を砕き、取り憑いた肉体で全力で暴れ回る。従ってそれに対処する祓魔師もまた相応の暴力で応じなければならず、結果として彼らの修行課程には聖書の暗誦と並んで格闘技の鍛錬が組み込まれることになる。
ヴァチカンのヨハネス聖騎士団に至っては入団試験に腕立て伏せ二万回が課されるという噂もあり、修道院の地下室で懸垂をする神父というのは冗談ではなく日常風景なのだった。
アリスの父もその系譜に連なる人間であり、娘に読み聞かせた就寝前の物語は聖人伝ではなく対悪魔戦の戦訓集だったという。五歳のアリスが寝物語に聴いたのは「一九七二年のミラノ事案において祓魔師ジョヴァンニ神父は悪魔に取り憑かれた青年を聖水で怯ませた直後に顎へ右ストレートを叩き込み意識を刈り取ることで祓魔に成功した」といった類の話であり、教育方針としては相当に偏っていたと言わざるを得ない。
とまあそんな感じであり、そんな父の血を濃く継いだアリスもまた救いようがない脳筋なのは致し方のない事なのだ。
「千進さん」
「ひゃいっ」
「そろそろお願いできますか。例の業を」
「は、はぃ……摩利支天反照法は、えっと、はい、今日なら、大丈夫だとおもいます……」
◆
千進は錫杖を床に立てた。
先端には太陽を模したような金属環がついている。
どう見ても直立は難しいと思われるが、なにやら奇妙にもバランスを保ち、床にまっすぐに突きたっていた。
千進は両手を胸の前に持ち上げ、指を組む。
両手の人指し指を触れさせ、中指を人指し指の上に重なるようにして先端を合わせる。薬指と小指は掌内に折りこむ様にして、親指は側面を合わせる。
摩利支天根本印と呼ばれるそれは、仏教の守護神である天部の一尊だ。陽炎の天部であり、実体を持たないがゆえに厄から逃れる、姿を隠すといった神通力を持つとされる。
だが摩利支天反照法とは、姿を隠した跡──つまりは痕跡を逆に辿る術である。
隠すのではなく、暴く。消すのではなく、映す。
対象者が通った場所に残る気配の残滓を、陽炎が揺らぐように視界の端にちらつかせる。失せものを探す摩利支天の加護を、人探し・失せもの探しに転用した応用修法である。
ただしいつでもどこでも自在に使えるというわけではない。
この法が最大効力を発揮できるのは亥の日の正午のみ。これは、摩利支天の縁日が十二日ごとの亥の日だからだ。
アリスと千進はつまりmこの日を今日まで待っていたという事になる。
「オン・マリシエイ・ソワカ」
「オン・マリシエイ・ソワカ」
「オン・マリシエイ・ソワカ」
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七度繰り返すと錫杖の環から陽炎が滲みでた。夏のアスファルトの上に立ち昇る陽炎に似た揺らぎが、錫杖の先端から放射状に広がっていく。




