第32話「ある少女の末路」
◆
風が吹いていた。
金色の草原を渡る風は甘く、日なたの埃と青い穂先の匂いを含んでいた。少女の背丈よりも高い草の群れがゆるやかにたわんで、さわさわ、さわさわと乾いた音をたてている。空に太陽は見当たらないのに、あたりはどこまでも明るかった。
少女の名は秋本しおりという。歳は八つ。顔の右半分に乾いた泥がこびりつき、髪はぼさぼさに絡まっている。着ているものは花柄のパジャマで、裾がところどころ破れていた。
あの世界で、しおりはずいぶん長いあいだ一人で彷徨っていた。紫色のドームに呑み込まれた東京のそこかしこに恐ろしいモノが這い回っており、彼女がそれらの糧とならなかったのは幸運と言えるだろう。
孤独な日々が終わったのはつい先刻のことだ。黒い傘を持った男の子が、しおりの手を引き、ここへと連れてきたのだ。
そして、気がつけば金色の稲穂のなかにいた──という寸法である。
冷たくて、やわらかくて、指の隙間にじわりと入り込んでくる土の感覚に驚き、しおりの目が大きく開かれた。両手を持ち上げて草に触れると、穂先がちくちくと刺す様でくすぐったい。思わず笑い声がこぼれて、それに驚いて口を押さえた。
◆
「おう、起きたかい」
不意に声がかけられた。しおりが声のほうを見ると、作業服の男が立っていた。日焼けした丸い顔に、頭のてっぺんが心もとない中年男だ。
男はしゃがんでしおりの視線に高さを合わせて口を開く。
「驚かせちまったな。悪い悪い。俺は松田っていうんだ。下の名前は……忘れちまった。お嬢ちゃんの名前は? 覚えているかい?」
「……しおり」
「しおりちゃんか。いい名前だ。まあここで寝ていてもなんだ、らちがあかねえだろう。こっちへおいて。なに、皆優しい人ばっかりだ、安心しな」
松田に連れていかれた先は、一言で言えば村であった。金色の草を刈り拓いた小さな空き地に、木造の平屋が五、六軒ほど散らばっている。井戸がひとつ。縁台がひとつ。洗濯物が一本の綱に揺れて、その向こうでは数人の人影が火を囲んで坐っていた。
「あら、ちっちゃい子ねえ」
花柄のエプロンを掛けた中年の女が、しおりの前にしゃがみ込む。
「お名前は?」
「……しおり、です」
「しおりちゃん。大丈夫よ。もう怖いことないからね」
女がしおりの頭を撫でた。
「よしよし。偉かったねえ。一人で怖かったねえ」
しおりの目からぽろりと涙がこぼれた。
◆
「私たちね、夫婦なのよ。名前は佳恵。名字は……忘れちゃったけれど、彼と夫婦っていうことは多分私の苗字も松田だと思うわ」
先ほどしおりの頭を撫でた女──佳恵はそんな事を言いながら苦笑を浮かべた。
「ちょうどお休みでね、二人で家にいたんだけれど。急に空がね」
「そうそう。急にぶわーってな」
松田が佳恵に合わせる。
そういえば、としおりもあの時の事を思いだした。
しおりの習い事の帰り道の事だった。太急に太陽が紫色に染まり、その光が空の端から端まで広がって、東京の上に巨大なドームを形づくったのだ。
しおりは怖くなって家に早く帰ろうと走り出したが、周囲はすっかり様変わりしてしまっていた。家が崩れたり、道路が割れたりしたわけではない。
しかし──
周囲に響き渡る叫び声、鳴き声、怒鳴り声はしおりの耳朶に今でもこびりついている。
あちらこちらに黒い何かが、不気味に嗤う何かが、悍ましい何かが跋扈しはじめ、人々を襲い、殺し、喰らっていた。
漫画かなにかならばしおりに隠された力があり、それが都合よく発現し、危機を脱していたかもしれない。しかししおりはなんの力もない、ただの子供に過ぎなかった。
結果、しおりは背後から襲い掛かってきた何かに殺され、霊となって彷徨う事になったのだ。
その時の事を思いだしたのか、しおりの体がガタガタと震えた。それを見かねてか、佳恵がしおりを正面から抱きしめる。
「大丈夫よ、もう大丈夫。ここならもう怖いのはやってこないから……」
背中をぽんぽんと叩く感触がしおりの心の何かを震わせるような、そんな感覚を覚えた。
──わたし、なにか忘れてる……?
決して忘れてはいけないなにかを忘れてしまっているような、そんな感覚。だがなにを忘れているかもわからないので、しおりは結局考えるのをやめて佳恵の胸に額を押し付けた。
◆
それからしばらく、しおりは松田や佳恵らと話をして、ここがどういう場所かを知った。
御堂聖が創った場所であるということ、ここでは腹が減らないと言うこと、暑さや寒さもないと言う事。仕事もちゃんと用意されているという事。そして──
“巫女様”には決して逆らってはいけないということ。
・
・
・
「そういう事をきちんと守っていれば、おっそろしい化け物に食われずに済むんだ」
松田はしたり顔でそんな事を言う。
「お仕事って……どんな事をするん、ですか?」
しおりが尋ねると、松田は佳恵と顔を見合わせた。
「多分、まだしおりちゃんには早いと思うわ。少し危ないし……聖君も巫女様も、きっと分かってくれると思うけれど……」
──危ない仕事なんだ
しおりはどんな仕事なのか少し心配になってしまう。
そんな事を話していると──
「話は済んだ?」
声の方を見れば、そこには黒い浴衣のようなものを羽織った少年が立っていた。
「あら、東花くん。お仕事は終わったの?」
佳恵の言葉に、東花とよばれた少年は小さく頷き、「まあね」と一言答える。
「あ、あの……」
そんな東花にしおりはおずおずと声をかけた。
「ああ、うん。ここの事は聞いた?」
「は、はい……」
「じゃあ後は家だね。巫女様に頼んで出してもらおう。聖が許可を出したから、巫女様もきっと家を出してくれるはず……多分ね」
家を、出してもらう?
しおりが内心で小首をかしげていると──
──『穂よ、栄えよ、満てよ、穂、穂、穂……』
声が響く。
すると松田や佳恵、そして東花と呼ばれた少年も、まるで神に祈りをささげるかのようにその場に跪いた。しおりもあわてて同じ様な体勢を取る。
さわさわ、いや、ざわざわと村を取り囲む黄金色の穂が揺れ、そして。
「あ」
何がどうなってこうなったのか、しおりには皆目見当がつかない。
しかし、気づいたら家が──確かにその場にはなかった空き地に、真新しい木造の家屋が建っているではないか。
呆然とするしおりの肩を、ぽんと東花が叩く。
「ほら、お礼いって」
「あっ……! えっと、ありがとうございました、みこ、さま……」
しおりが慌てて礼を言うと──
ふわりと風が吹き、稲穂の香りがしおりの鼻をくすぐった。
南部興福寺にいろいろの化物あり
東花坊のからかさ




