第30話「日常㊹(御堂 聖 他)」
◆
「あ」
歩いている途中、思わず声が出てしまった。
目の前には一頭の犬が佇んでいる。まあ、あれを犬と呼んでいいなら、だけど。
というのも、その犬はええと、そう、いわゆる人面犬というやつだったからだ。
そう、出くわしてしまったのだ──怪異と。
女性の頭と犬の胴体。
柴犬くらいの大きさかな。胴体は茶色い毛並みで、くるんと巻いた尻尾まである。
でも、首から上は間違いなく「人間」だった。
人面犬は満面の笑みを浮かべてこちらを見ている──四つん這いの体勢で。
歯……いや、牙かな?剥きだしになってるそれはやけに鋭利に見えて、噛まれたら凄く痛そうだ。というか死ぬかも。
僕は思わず後ずさりしそうになる足を叱咤し、傘の柄をぎゅうと握りしめた。
汗が手のひらに滲む。
──どうしよう
もし襲い掛かってきたら、目の前で傘を広げるつもりだった。
広げて、どうするのかって?
分からない。
だって、傘から何となくそうしろと言われている様な気がしたから。
傘の子は最近、僕の思考を読んで話しかけてくれるようになったのだ。
で、人面犬はといえば。
僕の方を見ながら──
「ねえええぇぇぇえ~、ぼうやぁぁああァァア」
と呼びかけてくる。
犬みたいにワンワンとは鳴くとは思っていなかったけれど、思っていたよりずっと綺麗な声だった。
少しハスキーだけど、聞き取りやすい。
「あたしいいいいい、こんなああああああ゙ァァァァ……」
人面犬はそう言って、自分の犬の胴体を前足(というか手?)でぽんぽんと叩いた。
その仕草はなんだか妙に人間くさくて。
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
怖い。
めちゃくちゃ怖い。
でも……。
──もしかして
「あたし、こんな(体になっちゃった)」って言いたいのかな?
そう思った瞬間、僕の中で恐怖とは別の感情が湧き上がってきた。なんていうか、同情? いや、そこまでおこがましいものじゃない。ただ、もしそうだとしたら、この人はすごく困っているんじゃないだろうか。
襲いかかってくる気配も、今のところはない。
……よし。
僕は意を決して、一歩踏み出した。いや、踏み出してはいない。心の準備をしただけだ。
「あ、あの……」
声が震える。情けない。
「何か、困ってるんですか?」
僕の言葉に、人面犬はぴたりと動きを止めた。
そしてその大きな瞳をぱちくりと瞬かせる。
「……こまってる?」
今度は普通の話し方だ。
「うん、すごく。こまってるの」
人面犬はそう言って、ぺたんとその場に座り込んだ。犬がお座りするみたいに。
「私、ごく普通のOLだったのに」
「OL……」
やっぱり元は人間だったんだ。
「朝起きたら、こうなってたの。なんでだと思う?」
「え、ええと……」
そんなこと、僕に聞かれても困る。この東京ではそういう理不尽がまかり通っている。朝起きたら虫になってた、なんて話はもはや古典文学の中だけの出来事じゃないのだ。
「……大変でしたね」
僕が言えるのはそれくらいだった。
「そうなの! 大変なのよ!」
人面犬──いや、元OLさんは急に語気を強めた。
「まず、服が着れない! お気に入りのワンピース、全部ダメになっちゃった!」
「あ、それは……」
確かに犬の体じゃあ難しいだろう。
「それから、スマホが使えない! 肉球じゃタップできないの!」
(肉球じゃなくて、犬の手……前足、だよな?)
心の中でツッコミを入れる。でも、確かに不便そうだ。
「あとね、あとね! さっきそこの角で、おしっこしたくなっちゃって……」
(あ、それは聞きたくなかったかも)
「我慢できなくて、電柱にしちゃったの! もう最悪! お嫁に行けない!」
そういってOLさんはわんわん泣き始めた。
僕は目の前の光景に、恐怖心が急速にしぼんでいくのを感じた。この人(犬?)、ただのパニック状態のOLさんだ。支離滅裂というか、混乱しているだけみたいだ。
「大丈夫ですか? とりあえず落ち着いて……」
「落ち着いてられないわよ! 見てよこの毛並み! 昨日美容院行ったばっかりなのに、もうボサボサ!」
そう言って、自分の胴体の毛をがりがりと掻きむしり始めた。
昨日……?
昨日って……ああ、もしかして記憶が混濁しているのかな。
僕はもう、なんて声をかけていいか分からなくなってきた。
でも、襲ってくる気がないのは確かなようだ。
話も(支離滅裂だけど)通じる。
だったら、普通に接してみるのが一番いいのかもしれない。困っている人がいたら、話を聞く。
僕にできるのはそれくらいだ。
「あの……お名前は?」
僕はできるだけ優しい声で尋ねてみた。
「え? ……あ、名前ね。夕美。田中夕美、28歳、独身、彼氏募集中」
すらすらと答えてくれた。
よかった、記憶はあるみたいだ。
「僕は御堂聖です。ええと、高校生です」
「高校生? へえ、若いエキスね。いいわねえ」
夕美さんがじゅるりと涎を垂らした。
……今、ちょっと怖いこと言わなかった?
「あ、いや、そういう意味じゃなくて! なんていうか、フレッシュだなって」
慌てて前足で口元を拭う夕美さん。
その仕草も、やっぱり妙に人間くさい。
「それで、聖くんはこんなところで何してるの? 危ないわよ、この辺。昨日もね、すっごい大きナメクジがビル登ってたんだから!」
「え、ナメクジ……」
それはそれで怖い情報だ。
「僕は食料を探しに……」
「食料! そうよ、食料!」
夕美さんが急に立ち上がった。
「私、お腹すいちゃって! 聖くん、何か持ってない?」
その目はちょっと本気だった。牙がまた見えている。
僕はリュックから、昨日手に入れた乾パンの袋を取り出した。
「こ、これくらいしか……」
「乾パン! 懐かしいわね!」
夕美さんは目を輝かせると、僕の手から乾パンの袋をひったくった。
そして袋ごとバリバリと噛み砕き始めた。
「んん~! 固いけど、美味しい!」
袋のビニールごと食べてる……。
やっぱり、もう人間とは色々違っちゃってるんだな。
あっという間に乾パンを一袋平らげた夕美さんは満足そうにため息をついた。
「ふう、助かったわ。ありがとう、聖くん」
なんだか機嫌が良くなったみたいだ。尻尾をぱたぱたと振っている。
「どういたしまして……」
「そうだわ、お礼しないとね」
夕美さんはそう言うと、僕の前にずいと顔を近づけてきた。
「え?」
次の瞬間。
べろり。犬の、ざらざらした大きな舌が僕の頬を舐め上げた。
生温かくて、ちょっと生臭い。
「ひゃっ!?」
思わず変な声が出た。
「ふふふ、聖くん、可愛いわね」
夕美さんは満足そうに笑うと、くるりと身を翻した。
「じゃあ、私行くわね! なんだか行かなきゃいけない場所があったような気がしたのを思い出したから!」
そう言い残して、夕美さんは軽快な足取りで路地の向こうへと走り去っていった。
四本足で、見事に犬の走り方で。
僕は涎でべとべとになった頬を拭いながら、呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。
「……なんだったんだ、今のは」
恐怖はもうどこかへ消えていた。
代わりに残ったのは何とも言えない脱力感と、乾パン一袋分の損失だった。
まあ、でも。
「……襲われなくて、よかった」
僕は傘を握り直し、高田馬場へ向かって歩きはじめた。
この魔都・東京ではああいう出会いも日常茶飯事なのだ。
……たぶん。
◇◇◇
聖くん、いい子だったなあ。
乾パンくれたし。ちょっとかわいかったし。
大きくなったら、きっとかっこよくなるんだろうな。
でも、私の彼の方がもっとかっこいいけどね。
……彼?
あれ? 私、今、彼の事……。
そうだ、弘人。高橋 弘人。私の恋人。
なんで忘れてたんだろう。あんなに大事な人のこと。ああ、そうか。この体になっちゃったからかな。なんだか、こうなっちゃってから、色々と大事な事を忘れていってる気がする。
頭がぼんやりする。霧がかかったみたいに、思考がうまくまとまらない。
私の名前……ええと、なんだっけ。さっき聖くん……だっけ? あの乾パンの子に教えたはずなのに……。
あ、そうだ。夕美。田中 夕美。二十八歳。独身。彼氏、弘人。
……なんだか、こわいな。さっきまでは全然怖くなかったのに。自分の名前を忘れるなんて。どんどん、私じゃない「何か」になっていくみたい。
少しだけ、ぼんやりしてくる。
ダメだ。
はやく彼に、弘人に逢いにいかなきゃ。弘人も、きっと怖がってる。あのアパートで、一人で。
どこにいるかはわかる。
なんで分かるんだろう?
──匂い、かな?
そう、匂いだ。弘人の匂いがする。いつも使ってるコロンと、汗の匂いと、それから……美味しそうな匂い。怯えてるんだ。
待ってて、弘人。
今行くから。
§
四本足で走るのは思ったよりずっと速かった。瓦礫の山を飛び越えて、壊れた車を避けて。
息が切れない。全然疲れない。
すごい。犬ってすごい。
……私、犬じゃないんだけど。
でも、目線が低い。アスファルトが近い。紫色の空がなんだか遠い。
街の匂いが前よりずっと強く感じられる。
埃の匂い。カビの匂い。
それから、美味しそうな血の匂い。
いろんなものが腐った、甘い匂い。
吐き気がする。でもそれ以上に、弘人の匂いが私を引っ張っていく。
この角を曲がって、あの壊れた信号を渡って……。
懐かしい道。
弘人のアパートに通うために、何度も何度も通った道。
着いた。
このアパートだ。三階建ての、ちょっと古いアパート。
弘人の部屋は二階の角部屋。
階段を駆け上がる。前足……ううん、手? とにかく、これで器用に階段を上る。
私、すごい。
二〇三号室。
ドアの前に立つ。
息を整える。
弘人の匂い。ドアの向こう側から、濃い匂いがする。
嗚呼、すごくおいしそう。
ドアを叩く。
肉球……じゃなくて、手の甲で。
「……誰だ」
弘人の声!よかった、生きてた!
「弘人! 私、夕美だよ!」
ドアの向こうが急に静かになった。
「……夕美? 嘘だろ……お前、あの時……」
「開けて、弘人! 私だよ!」
ガチャリ、と鍵が開く音がした。チェーンが外れる、金属の擦れる音。
ドアがゆっくりと開く。
§
「……ゆ、み……?」
ドアの隙間から覗く弘人の顔。無精髭が伸びて、頬がこけてる。
でも、弘人だ。
よかった、と安堵した彼の目が私を捉えた瞬間──
「あ……」
弘人の体が糸が切れたみたいに崩れ落ちる。
尻もちをついたまま、私を見上げてる。
「ひ……」
喉が引き攣る音。
「弘人、大丈夫? 私よ、夕美」
私は部屋に入ろうとした。
彼に近づこうとした。
「……あ……あ……」
弘人が這うようにして後ずさる。
腰が抜けて、立てないみたい。
「待って、弘人。私、こんな姿になっちゃったけど……」
聖くんにしたみたいに、説明しようとした。
「ちがう……」
弘人が震える声で呟いた。
「違う、お前は夕美じゃない……」
「違うって、なんで……」
「だって、夕美は……夕美は死んだんだ!」
弘人が叫んだ。
「俺の目の前で! あの化け物に食われて……!」
……え?
私、死んだ?
いつ?
頭がまたぼんやりする。思い出せない。あの紫の光が空を覆った日。
弘人と一緒に逃げてて……。
そうだ。
何か、大きな影が。
鋭い痛みが。
「来るなッ!」
弘人が近くにあった雑誌を投げつけてきた。
私の顔に当たる。
痛くはない。
でも、胸が痛い。
「弘人、なんで……」
「化け物! 夕美の姿で……俺を騙そうとしてるんだろ!」
彼は泣いていた。
泣きながら、私を睨みつけていた。
「あっちに行け! 来るな!」
弘人が震える足で立ち上がろうとして──
私を、蹴った。
ドン、と鈍い音がして、私の体が廊下に転がる。
蹴られた。
弘人に、蹴られた。
あんなに優しかった弘人が。いつも私を大事にしてくれた弘人が。
私を、蹴った。
「……あ……ああああ、ああああああ──」
頭の中で、何かがぷつんと切れる音がした。
さっきまでの、ぼんやりとした霧が一気に晴れていく。
ううん、違う。
晴れるんじゃない。
もっと濃い、黒い何かに塗りつぶされていく。
イタイ。
コワイ。
クルナ。
ユルサナイ。
……ヒロト?
ダレ?
ダレエエエエエエエエ???
……オナカ、スイタ。
§
目の前で、何かが喚いている。
そんなことより、お腹が空いた。
すごくお腹が空いた。
目の前のそれ……温かそうだ。
柔らかそうだ。
美味しそうだ。
「……ア……」
何かが私の口から零れた。
ああ、ダメ。
それだけはだめ。
……なんで?
ダメジャナイ。
イイニオイ。
「ギャアアアアアアアア!」
うるさい。
私は跳んだ。
温かい肉に、牙が沈む。
ああ、この感触。
喉元。
柔らかい。
プチ、と何かが切れる音。
鉄の味が口いっぱいに広がる。
熱い。
美味しい。
喚いていた「それ」が静かになった。
カタカタと震えているだけ。
もっと。
もっと、欲しい。
バリ、と骨が砕ける音。
肉を引き千切る音。
夢中で食べた。
温かくてしょっぱくて、
すごく、
すごく、
美味しかった。




