潜入訓練
夜、眠りの中でエレノアはまた、あの夢を見ていた。
ギャラハッドの腕に抱かれ、彼の唇に口付けをする。
ただそれだけで、心臓が早鐘のようにうるさくなり、耳の奥ではごうごうと血の流れる音がする。
彼の腕の中で、ただエレノアは何も言わず、欲望のままに口付けを重ねていた。
そして――目が覚めると、欲望の証のように体が反応した痕跡が残って、じんじんと下腹が疼いていた。
「私は、なんて夢を見るのでしょうか……」
耳まで真っ赤になり、羞恥で全身にかいた汗のせいで木綿の寝巻が張り付いていた。
エレノアは顔を両手で押さえながら、自分の見た夢を信じられない、と思いながらすぐに洗面台の元へ向かった。
冷水を洗面器にためると、息をとめて一気に顔を洗面器に押し込む。
寝起き特有の気だるさも、まどろみの余韻も水の冷たさで押し流して、エレノアはようやくため息をついた。
今日のエレノアの任務は新人たちへの潜入調査のための訓練だ。
世俗の会社が運営している体育ホールへと向かうため、異端審問局からは離れることになる。
今ばかりは、エレノアにとってはそれがギャラハッドと直接顔を合わせる可能性が低い、という理由で安心すら覚えていた。
エレノアは朝の支度を終えて、灰色の僧服に着替えると、集合場所へと向かった。
集合を終えて、新人たちを引き連れながら体育ホールに入るとエレノアは新人たちに振り返った。
「潜入調査の中では、身分の高い人物に接近する必要もあります。そうした時大切になるのは、身に沁みついた教養です」
エレノア自身は元々貴族令嬢として生まれ育ち、実際にそうした教養や礼節を身に着ける機会があったため、潜入のための訓練は不要だったが、異端審問局にいる職員全員がそうした機会に恵まれていたわけではない。
中には貧しい環境から信仰の道に目覚めた者、あるいは真面目な学問ばかりに傾倒してダンスなどの経験もろくにない、という人物も少なくない。
実際、現代で社交ダンスとして知られるワルツも歴史を紐解けば、男女がもつれるように踊り、まして女性のスカートがめくれて足元が見えるということで破廉恥として教会の規制の対象になっていた時代すらある。
そうした規則正しい文化の中で育った人物にとって、ワルツやガボット、メヌエットというのはそもそもが身近なものではなくて当たり前だろう。
エレノアはそうした彼らの前に立つと、ゆっくりと簡単に基礎的なステップを踏んだ。
「まずは男性から。左足を前に……女性をリードする基本は男性のステップです。しっかりと覚えてくださいね」
静かに動くエレノアの足先の動きは優雅な物だった。
爪先、ではなく足の親指付け根の一点――バルと呼ばれる骨で重心を支えることで滑らかに動き、そのまま頭を上下させることもなく滑らかに動く。
その動きをまねるように男性の異端審問官数人が足を運ぶが、慣れないうちはどうしても足元に視線が向かってしまって、ぎこちなく、体が上下していた。
「これが基本ですので、しっかりと練習してくださいね。それでは次は女性ですが、基本的には先程の逆のステップになります。男性のリードに従うことが前提になりますよ」
そういって、エレノアは今度は先程とは逆に足を引いて、後方から前へ、というステップを見せる。
女性の異端審問官にしても、この慣れない動作に体の軸がぶれてしまう。
異端審問官である以上、戦闘専門でないとしても護身術や体力育成は受けているが、そうした運動とも違ったダンスのステップは皆、不慣れな様子だった。
エレノアは1人ずつの確認をしていたが、その中で特に問題なく、動く人物が一人いた。
ブラザー・グラムだ。
「ブラザー・グラム、あなたはダンスの経験があるのですか?」
「否定する。だが、俺の中にあるグラム・ドラムスとしての記憶データにはダンスの経験が保管されていた」
そう言われて、エレノアはなるほど、となった。
グラムは元々、死亡した医学生グラム・ドラムスの肉体と記憶を元に、肉体の98%を機械に置き換えられた自動人形だ。
であれば、グラム・ドラムスの経験の中にダンスの知識があれば、今の機械となった肉体でもその知識を活用できる、というのは納得できた。
そうなると、基本的なステップをまだ覚えられていない面々と同じ訓練をさせるよりも、どこまで彼の知識が活用されているのかを確認した方がいい、とエレノアは考えた。
「それでは皆さんはまず基礎ステップを体に覚えさせてください。ブラザー・グラム、一度私と踊ってください。あなたの記憶データを確認する必要があります」
「承知した」
エレノアの言葉にグラムは頷くと、そのまま下からぐいと掌を差し出した。
男性がダンスに誘う際の礼儀としては正しいのだが、機械的な冷たい表情と無骨な手つきはダンスへ誘う、という優雅さよりも、寧ろぶっきらぼうな印象を与えていた。
エレノアはこれも指導ポイントのひとつだな、と考えながらそっと上からグラムの掌の上に手をのせた。
結果からいえば、グラムのダンスは上手かった。
ステップは軽やかであり、少々リードに自信がないような不安定さはあったが、それはグラムの中にある記憶データの影響だろう。
「ブラザー・グラム、リードは自信をもって。あなたが女性の体を支えるということを想定してください」
「承知した」
そう静かに告げながらグラムはエレノアの腰に回した手に力を込める。
ワルツを踊る、となれば当然のように体が重なる。
けれど、エレノアは別段、そこに何の感慨も抱かなかった。
男性とのダンス、というよりも訓練、ということに意識が向かっていたのだ。
夢の中でギャラハッドの腕に抱かれた時は、ただそれだけで肉体が反応するほどに過剰な羞恥を感じていたエレノアだが、ギャラハッド以外にはそうした感慨が湧くことは何もなかった。
「……結構です。ブラザー・グラム。あなたの課題は技術よりも、情緒ですね」
「……承知した」
一曲、ダンスを終えた後、エレノアは苦笑を交えながらブラザー・グラムに告げた。
単純なダンスの知識、技術、という面ならば機械であるグラムは新たに知識をインストールすれば、おそらくすぐに習得できるのだろう。
しかし、その無機質な表情、教科書をなぞるようなステップはどうしても感情のなさを連想させる。
だが、グラムは機械である自分に情緒、という人間の真似事ができるのか、という点が最大の疑問のようだった。
エレノアはふ、と微笑むとグラムを見つめていた。
「あなたは自分の意志を持っていますから、情緒も分かるはずです。今は、分からないかもしれませんが」
穏やかにそう告げてからエレノアはグラムの側を離れると、他の新人たちの元へと歩いていき、1人1人の課題を教えにいっていた。
ある者には重心の位置を、ある者には姿勢の矯正を――一人一人の顔を見て、それぞれにやるべき課題を教える。
そんなエレノアの姿を見つめたまま、グラムはただ静かにたたずんでいた。
エレノアが何故、自分を人間として扱うのか、その意味をまだグラムは理解できていなかった。