悪女か聖女か
吸血鬼の襲撃から一週間、異端審問局は忙しなく働いていた。
制圧によって収監された者たちの証言の聴取、押収物品の検証、被害者の調書の整合性の確認、そして何よりも――マスコミの対応だ。
「エレノア・ヴァーサはサロメかユディトか」
そう大きくかかれた見出しにギャラハッドは今にも怒り狂いそうな表情で新聞を机に叩きつけていた。
「なんだ、この見出しは!」
「貴族令嬢が吸血鬼討伐に加勢した、など話題性だけは確かにあるでしょうからね」
副局長であるシスター・モルガナは眼鏡を直しながら静かに新聞を手に取り内容を確認していた。
夜会の場に居合わせ、ギャラハッドと共に吸血鬼討伐のために協力した彼女の存在は異端審問局としても予想外のものだった。
拳を振るって異端を叩きのめした少女、というギャラハッドからの報告だけでもその存在の異常さを感じてはいたが、吸血鬼に襲われても冷静に判断し、1人は股間を握り潰そうとし、更には主犯格の肩に銀のナイフを突き刺して拘束。
収監された吸血鬼からの証言でも通常の令嬢というにはあまりにもその存在は異質だった。
だが、ブラザー・ギャラハッドにとって、何よりも腹立たしかったのはあの夜会の場で、救出された貴族たちのあまりに軽薄な証言だ。
「血に塗れたエレノア・ヴァーサは恍惚としたかのような表情をしていた」
「彼女は我々を救うために戦った聖女だ」
そんな安い言葉のせいで、エレノアという少女の実像が飾り立てられ歪められている。
新聞の紙面に並ぶ言葉には吸血鬼を倒した後、自身が罪を犯したと震えていたただの少女のエレノアを慮るような言葉はただのひとつも無かった。
「あの娘は悪女でも聖女でもない、ただの人間である」
「それは局長がご存知でしょう。私といたしましては、そうした優秀な人材はうちに欲しいですが……現状、彼女の精神が不安ですね」
シスター・モルガナは冷静な目で新聞を見つめていた。
新聞にはエレノアが自宅に戻る様子を盗撮したと思しき写真までも載せられている。
世俗の表現に対して異端審問局がとかく物申すことは少ないにしても、協力者となった彼女が追い詰められ、万一にも精神を病むような事態に陥れば、それこそ神が与えた才能を人が潰すことに他ならない。
ギャラハッドもまた、そのような事態を望むはずはなかった。
「……ヴァーサの家に向かう」
「事情聴取ですね。承知いたしました」
モルガナは皺が刻まれた目元を閉じて静かに告げた。
モルガナもギャラハッドが事情聴取に向かうわけではないことは理解していたが、異端審問局局長が個人的な義侠心で動いた、などということを公的機関でもある異端審問局が認められるわけがない。
そのための方便を用意しておきながら、モルガナはギャラハッドを見送った。
ギャラハッドがヴァ―サの家の前に到着すると、そこは酷い有様だった。
古びて修繕もままならない屋敷の周りにはマスコミが押し掛けており、その騒動を避けるようにすべての窓にはカーテンが降ろされている。
中には外壁にはしごをかけて中に立ち入ろうとしているものまでいた。
「そこな者、不当な敷地への侵入はいかにマスコミとはいえ認められるものではないぞ」
ギャラハッドが感情を抑えた声ではっきりと断言すると、一斉にマスコミの視線はギャラハッドへと向けられた。
ギャラハッドはエレノアと共に戦った張本人であり、その存在に対してもマスコミたちは容赦のない好奇心を向けていた。
無論、これが信仰によりどのような戦いだったのかの事実を問う内容ならばギャラハッドも多少は応じる必要を感じた。
だが、ここに集う者たちの目には、何かセンセーショナルな話題を得たいという下心がありありと見え、その強欲さに呆れを感じてギャラハッドはただ、鋭い目線を向けた。
口元をへの字に結び、異端を見据えるかのような視線を向ける巨漢の異端審問局局長に記者たちは思わず息を飲み、そのまま彼の元から離れようとしていく。
ギャラハッドは無言のまま屋敷の玄関へとつくと、ブザーを押してから名乗りを上げた。
「異端審問局局長ブラザー・ギャラハッドである!エレノア・ヴァーサ、貴殿の証言を確認しにきた!」
はっきりとした声が響くと、屋敷の中から小さな足音が聞こえ、エレノアが扉を細く開いた。
エレノアが顔を覗かせると即座に記者たちはカメラを向けて容赦なくフラッシュをたいたが、そのカメラを遮るようにギャラハッドはエレノアの前に立ちはだかり、そのまま彼女の顔を見つめた。
エレノアの顔は青ざめ、この騒動で精神的な負担を感じていることは明確だった。
「入るぞ」
「……どうぞ、閣下」
エレノアはギャラハッドの言葉に静かに頷くと彼を連れて屋敷の中へと入った。
窓を塞いでいるために屋敷の中は昼間だというのに薄暗く、エレノアはそっと燭台の蝋燭にマッチで火をともして、ギャラハッドを客室まで案内した。
建物そのものは貴族の屋敷として相応しい壮麗さがあったが、あちらこちらには修繕の行きわたらぬ痕跡が見えた。
それでも不潔という印象がないのは、エレノアが日々、この屋敷を整えて、少しでもまともな暮らしを保とうとしていた努力の結果だろう。
ギャラハッドはエレノアが1人で茶の支度をしているのを見て声をかけた。
「使用人はいないのか」
これだけの規模の屋敷だというのに、出迎えも対応もエレノア1人で行っていることそのものが違和感があった。
エレノアは静かに微笑みながらソファーの前のローテーブルに紅茶を置いて、そのまま静かに微笑んで佇んでいた。
「通いの女中が1人いました。けれど、この騒ぎで彼女も辞めましたわ」
「……眠れたのか?」
「……いいえ、この調子ですもの。嵐が過ぎるまでは耐えるしかないでしょう」
そう穏やかに答える一方で、エレノアの唇には血の気がなく、目元には濃いクマが浮かんでいる。
このまま後一週間でも騒ぎが続けば、エレノアが倒れてもおかしくはない。
だというのに、この娘はまだ微笑んで耐えようとしているのかと思うと、ギャラハッドは怒りを感じていた。
ただ人を救おうと戦い、自身の力を正しく使おうとした娘を苛む世俗の空気が我慢ならなかった。
そして、エレノア自身もまた戦う力がありながら、それを自分のために振るおうとしない。
だが、ここでギャラハッドが感情のままに苛立ちを見せたとしても仕方ない。
ギャラハッドは一度息をつくと、エレノアを見つめた。
彼女は男と同じソファーに座るわけにはいかないと側に佇み、まるで彼女自身が女中かのように控えていた。
「……一つ、提案がある。この騒ぎが収まるまで、そなたの身を修道院にあずからせてはどうだ」
「え……?」
エレノアはその提案に対して予想外のことを言われた、というように目を丸くしていた。
だが、ギャラハッドはエレノアの目を見据えながら、彼女の本心を探るようにつづけた。
「何も聖職者になれ、というのではない。ただ、この騒ぎに晒され続け、そなたの精神が摩耗することは我々異端審問局としても望ましくない。信仰に従い、人々を守る。それこそが異端審問局の理念。そなたは世俗にありながらも、我らの同志と呼べる存在だ。それが見世物の扱いを受けるなど看過できん」
ギャラハッドはふう、と一度息を吐きだすと腕組みをしていた。
エレノアは少し、躊躇うように自分の胸元に手を添えて俯いた。
この家を出る、そんなことがあるとすれば、エレノアにとっては結婚以外の想定がなかった。
だが、実際に冷静に考えてみて、自分がここに残ってどうなるだろうか?
エレノアの騒ぎで母は精神的に参ってしまい、今は入院している。
そしてエレノア自身もこのままでは遠からず倒れるだろう。
「……ご厚情に感謝いたします、でも……ご迷惑、ではございませんか」
エレノアのその控えめな態度に対して、ギャラハッドはいよいよ苛立ちすら感じながら自分の頭をガシガシとかいた。
「そなたはどうしたいのだ!修道院で多少なりとも自由を得るか、ここで縛られたまま生きるか、選ぶのはそなただ、ヴァーサ嬢!」
大きな声で問われ、思わずエレノアはびくりと肩を跳ねさせた。
ギャラハッドにしても無理強いをして彼女を修道院へ送り込むつもりなどはない。
このままエレノアが耐え抜くと誓うならばそれもよし。
だが、エレノアの様子はどう見ても耐えられる状況ではない。
だからこそギャラハッドはエレノアに今、ここで、この家に縛られて生きるか、自分の意志で歩み出すかを決めろと迫っていた。
エレノアはしばし視線を彷徨わせてから、とうとう意を決したように唇を開いた。
「どうか、頼らせてください……私に、自由をお与えください」
それは今までのエレノアの生きてきた人生そのものを否定することだった。
だが、それでもエレノアは気付きつつあった。
自分のこの拳が、ただの恥などではなく誰かを救う力であることを。
だからこそ、今自分に必要なのは、生きることの意味を今一度考える自由な時間だと、彼女は決意した。
エレノアのその決断にギャラハッドは頷きながらも、立ち上がり、エレノアの肩に手を置いた。
「承知した。手配は異端審問局が行う。そなたは案ずることなくいろ」
「はい……ありがとうございます、閣下」
そう言いながら俯き、祈るように手を組むエレノアの姿にギャラハッドは眉根を寄せていた。
それは不機嫌というよりも、この少女のこの細い肩にこれまでどれだけの重圧がかかっていたのかを考えて、痛ましく思わずにはいられなかったからであった。