突如の停電
ホールに戻ったエレノアは即座に母に呼びつけられた。
母は怒りに顔を真っ赤にさせ、やせ細った肩が震えていた。
「お母様――」
何があったのか、と問うよりも先にエレノアの頬を母の平手が叩いた。
渇いた破裂音と共に、母はエレノアへと怒声を浴びせていた。
「この恥知らず!異端審問局などに目をつけるなんて、何をしたの!」
「……申し訳ございません、お母様」
エレノアは母に頬を打たれてもなお、静かに目を伏せて頭を下げると彼女の怒りが静まるのを待った。
母が言うのはいつもこうだ。
「お前のために言っているのだ、まともな家庭を作れ、それすらできないのか、親不孝者」
言葉が違っていても母が言いたいのはこういうことであり、それは彼女が必死にエレノアを支配しようと虚勢を張っているためだろう。
母は孤独な人だから、血の繋がった娘であるエレノアが自分と違う意思を持つことが受け入れられない。
エレノアはそんな母をなだめ、静かに落ち着かせる。
ここでエレノアが感情的になっても事態が良い方向になった試しなど一度としてなかった。
「お母様、私が軽率でございました。申し訳ございません」
エレノアが自分に逆らわないことを理解すると、母はようやく気持ちが落ち着いたのか、乱れていた息を落ち着かせていた。
「化粧を直してまいります」
「ええ、そうしなさい。お前の陰気な顔を少しでもマシにするのよ」
母から言われた言葉にふ、と微笑みながらエレノアは手洗い場に向かって歩いていった。
母はどうにも、自分の若い頃に似たエレノアの顔を好きではないらしい。
エレノアは手洗い場に行き、ハンカチを濡らして頬を冷やしていると、不意に、電気が消えた。
「……停電?」
エレノアは困惑しながら周囲の気配を探るが、耳をすませると周囲の物音が少ない。
ホールから離れた位置にある手洗い場まで来たのは事実だが、先程までは聞こえていた音楽も聞こえず、極端に静まり返っている。
エレノアが廊下に出て周囲に目をやると、廊下に倒れている何者かの姿を見つけた。
「大丈夫ですか?」
声をかけ、近付こうとしたエレノアの背後から、突如として彼女の細い首に、指が絡められ、そのまま背筋が反るほどに引っ張られた。
「くっ……!」
「ホールの外に出てる奴がいたとはな。手間を取らせる」
耳元で男の声が聞こえた。
だが、自身の首に食い込む指の力は尋常な物ではない。
長い爪が首筋の薄い皮膚に食い込んで血をにじませてくる中、エレノアは視線を動かす。
僅かな月明かりに照らされたのは男の笑みであり、その口元には白い牙がのぞいていた。
「吸、血鬼……!」
エレノアは酸素が奪われていく感覚に視界が暗くなるのを感じながら、それでも小さな声でつぶやいた。
男の口元についた血は、廊下で倒れている警備の人間のものか。
男は笑みを浮かべながらエレノアの胸元に手を添わせていた。
「本来なら楽しみたいところだが、残念だ……大事な前の小事。ここで吸い殺そう」
男はそう言いながらエレノアの首筋に牙を押し付けてくる。
薄い皮膚が引き裂かれていく痛みにエレノアはびくりと肩を跳ねさせた。
白い肌が夜闇の中で艶めかしく動く。
だが、エレノアは抵抗を諦めたわけではなかった。
「がっ!」
エレノアは自分の喉に吸血鬼の体が密着しているのを利用して、そのまま男の股間を強く握り締めた。
吸血鬼の体がくの字に曲がり、思わず背後によろめく。
手に生々しい感覚が残ることに嫌悪しながらもエレノアは急いで吸血鬼から身を離した。
だが、コルセットとヒールが邪魔をして、機敏に動くことはできずに吸血鬼の手がエレノアの体を壁へと叩きつけた。
「ああ!」
「この、小娘……よくも、恥をかかせたな!」
怒りに吸血鬼の目は赤く燃えていた。
吸血鬼はエレノアの体を壁に叩きつけたまま、ぎりぎりと首を締めあげていく。
窒息を狙っているのではない。
首の骨をへし折り、苦痛の中でエレノアを殺そうとしていた。
――ばきり、と短い音がした。
だが、それはエレノアの首が折れた音ではない。
エレノアの目の前に雷のように振り下ろされたメイスが、吸血鬼の腕をただ衝撃のみで打ち砕いたのだ。
エレノアはずるずると床に崩れ落ちていき、その前に立ちはだかるように一人の男が立ちはだかっていた。
「――無事か」
低く、しかし明確な怒りが滲む声で彼は尋ねた。
エレノアはコルセットで締め上げられていたために呼吸をすぐに整えることはできなかったが、それでもその巨大な背中を前にして、驚愕に目を見開いていた。
「閣下……」
異端審問局局長ブラザー・ギャラハッドは真っすぐに吸血鬼を見据えながら、メイスを構えていた。
片腕が千切れた吸血鬼は呻きながら腕を抑えて、ギャラハッドを憎々しげに睨みつけていた。
ギャラハッドは静かに息を吐きだすと、直後、電光のように吸血鬼へと飛び掛かった。
巌のような巨体が一瞬にして目の前から消え去り、闇の中にメイスが吸血鬼の爪とぶつかる鋭い音が響く。
エレノアはただ、その姿を見つめ、手を握り締めていた。
エレノアには、ギャラハッドの戦いに参加することはできない。
彼女の拳は確かに、人間相手であればある程度の戦いには持ち込めるだろうが、人外の戦いの場においてはただ邪魔なだけだ。
自分を救ってくれたギャラハッドの戦いを助けに入ることができるほどの力はエレノアには無かった。
「何故、人間がついてこれる――!」
吸血鬼の速度は尋常を越えている。
だが、ギャラハッドは確実にその動きを捕え、逆に吸血鬼を圧倒する力と技術によって、彼を壁へと縫い留めた。
「これは、神罰である!」
告げると同時、壁へと吸血鬼を抑え込んでいたメイスから一挙に光が放出された。
超高温のレーザーに肉を焼かれながら吸血鬼の肉体が枯れ果てたように萎み、ミイラのようになって壁に縫い留められた標本のように固まっていた。
戦闘を終えると、ギャラハッドは返り血すらついていない灰色の僧服をはためかせ、そのまま真っすぐにエレノアの前へと立ち、彼女の目の前にメイスの柄をついた。
「立てるか、ヴァーサ嬢」
自分へと向けられる鋭い黄色の瞳を見上げて、エレノアは息を飲んでいた。
だが、事態は一刻を争うのだろう。
今倒した吸血鬼が単独で、ただこの式典で女を狙ったなどとはエレノアも考えていなかった。
本当に危険に晒されている人物は誰か――それはホールに集う聖職者たちだろう。
吸血鬼たちが何を狙っているかは分からないが、少なくとも彼らの身を守らなければいけない、ということだけはエレノアにも分かっていた。
エレノアは静かに頷くとギャラハッドを見上げて、頷き、そのまま口を開いた。
「コルセットを、緩めていただけませんか?このままでは逃げるにしてもままなりません」
突如として自分に告げられた言葉に思わずギャラハッドは面食らった。
だが、エレノアにとっては重要なことだった。
確かに貴族令嬢であるならば「コルセットを緩めてくれ」などと男に頼むのははしたないことだ。
それでもエレノアはギャラハッドならば自分をただの女として扱う真似はしないと信頼していた。
そしてギャラハッドもまた、エレノアが「逃げる」と口にしているが戦う気概があることを理解して口元に笑みを浮かべた。
「生憎と某は器用ではない。乱暴だが辛抱するのだな!」
いうなりギャラハッドはエレノアの背に回ると、彼女の腰を極限まで締め上げていたコルセットの紐を引き千切った。
いきなり肋が解放された感覚にエレノアの体は大きく揺れたが、これでようやくまともに呼吸ができる。
エレノアはすう、と静かに息を吸い込むと、自分の足を戒めていたヒールを脱ぎ捨てて立ち上がった。
「閣下、ホールへ参りましょう。女性用の控えの間からであれば、虚をつけますわ。ご案内いたします」
エレノアがホールで見かけた護衛は全員が男だった。
ならば、敵は正面からの突撃は警戒しても、ホールに直通となっている女性用の控えの間への警戒は薄いだろうとエレノアは判断していた。
「悪くない考えだ。そなた、やはりただの令嬢でいるには惜しいぞ」
ギャラハッドは口元を歪めて笑みを浮かべると、エレノアと共に暗闇の廊下を進んでいった。