裁きの拳
側頭部の一撃に視界がくらむ中、エレノアは即座に態勢を整えると、自分の顔のすぐ側に拳を構えながら対応した。
速度は速く、その拳も重い。
どう見ても戦いの訓練など受けていないはずのアルフレットの速度にエレノアはついていけず、防戦を強いられていた。
「ははは、ほら、どうしたの?君は異端審問官なんだ、ちゃんと反応してよ、じゃないと検査結果が分からないだろ」
アルフレットの拳は躊躇なくエレノアへと叩き込まれる。
だが、エレノアはそれらの拳を平手を用いて叩き落とし、そのままじりじりと自身の間合いを図った。
この男の速度は確かに異常だ。
それでもエレノアがついていけたのは――かつての自分と同じような動きをしていたからだ。
アルフレットの速度、力は確かに脅威ではあるが、戦いに慣れていない。
拳の握りも狙いも甘い。
まるで攻撃する先を宣言するかのような大振りの攻撃。
そう、異端審問局に入る前のエレノア自身と大差が無かった。
一撃を受ける度に鋼のセスタスに包まれた腕はしびれるような感触がしたが、裁けないわけではない。
「残念でしたね、私を殺したかったなら――あの一撃で殺すべきでした」
腰を低く落とすと、エレノアはアルフレットの拳へと自らの拳を叩き込んだ。
鋼のセスタスを纏った破城槌の一撃を喰らい、アルフレットの拳が壊れる。
だが、ただ拳を壊しても即座にその腕が再生されていく。
「うん、回復速度も大丈夫、想定通りだ!」
苦痛すら感じていない、あるいは薬でそれも麻痺しているのか、アルフレットは自分の拳が壊されたというのにいっそ楽しそうに笑っていた。
吸血鬼と戦う異端審問官相手にも自分の薬が通用できる、というのが面白くてたまらないのだろう。
エレノアはそのどこまでも人間という存在を侮った男に奥歯を噛み締めながら、床を蹴った。
「いいね、反撃?吸血鬼を拳で叩きのめそうなんて、そんな原始的な女の子、初めてだよ!」
アルフレットは笑いながら、回避もせずに自分の手でエレノアの拳を受け止めようとした。
拳を壊されても、ただエレノアの力だけであれば受け止められると過信していた。
だが、エレノアの拳はただ、怪力だよりの拳ではない。
「この拳はあらゆる不条理を打ち砕き、苦しむ人々を救うためのもの!」
自身の拳にかけた誓いのもと、この男を打ち滅ぼす。
命を弄び、自らの肉体すらも軽んじる、この男こそが人々を苦しめる不条理だ。
エレノアは自身の体重すらもかけて拳を打ち込んだ。
アルフレットはその腕を掴んだ。
吸血鬼の反応速度があればこその行為だが、そんな程度の妨害がエレノアの拳を止められるはずもなかった。
「え――?」
自身の指がへし折れ、手首からねじ切られていく。
まるで高速で動く機械に腕が巻き込まれたかのような光景にアルフレットは思わず目を見開いていた。
そして、その腹部へとエレノアの拳が叩き込まれた。
「が、はっ!」
肺から酸素と同時に血が溢れ、骨のひしゃげる鈍い音と内臓が潰れる嫌な音が響いた。
床の上に崩れ落ち、仰向けに倒れたアルフレットは完全に気絶していた。
「……尋問をしなければいけませんからね。あなたには今回の事件の全てを白状するまで、死ぬ権利すらありません」
異端を打倒した。
だが、まだエレノアの怒りは収まっていなかった。
この男に懺悔させ、罪の重さを自覚させなければいけない。
だからこそ、その不愉快な顔面を叩き壊すことはやめておいたのだ。
エレノアはアルフレットの体をかつぎ、井戸の外に出るためにロープを掴んで上を見上げた。
「シスター・エレノア!無事か!」
「はい、アルフレット・フリート、確保いたしました!」
ギャラハッドの声に安心しながら、エレノアがロープを掴み、井戸の壁に足をかけた瞬間、ぐい、と引っ張られた。
ギャラハッドが縄を引き上げていた。
「よくやったな」
地上に現れたエレノアを見ながら、ギャラハッドは労うように肩に手を置いた。
エレノアはその手の重みにようやっと、腹の中を廻っていた怒りが落ち着いていくのを感じていた。