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令嬢エレノア・ヴァーサ

夜会の場で、エレノアはホールの中に佇んでいた。

大司教をはじめ、高名な聖職者が何人か来ている。

今回の夜会は名目上、児童福祉のための施設の寄付金を集めるためのものであるだけに聖職者の彼らにすれば聖務の一環としてこの場を訪れたということだろう。

だが、そんな彼らの周囲に集まっている貴族たちはどうだろうか。

表情こそ穏やかな笑顔をしているが、その彼らが自分の名前が新たな施設に刻まれることを誇りにしていて、信仰心があると思われることこそを目的としているのが見え透いていた。

エレノアはそうした賑わいを避けようと、ホールの端で音楽を聴いていた。

見かけたことのない楽団だったが、よい音楽を奏でてくれていて、周囲を見回せばシャンデリアの下で年若い男女がダンスを踊っている。

エレノアもまた、そうした輪に加わるべきだ、と自分ではわかっている。

ここに来たのはヴァーサ家の令嬢としてのエレノアなのだから、自分の感情を抑圧してダンスに参加すべきだ。

覚悟を決めてエレノアは数人の男性とのダンスに応じていた。

最初に踊った相手は話し上手だったが、エレノアの話はまるで聞かず、ダンスも乱暴に腕を引くばかり。

2番目の男は今度は何も話さない。エレノアから話題を振っても興味がないとばかりに相槌も打たないでいた。

3番目の男は中年だが、夜会用のドレスのために露わになっているエレノアの白い肩と胸元をやたらとじろじろと眺め慎みがなかった。

4番目の男は体格が逞しくて乱暴で、ダンスの最中にエレノアは何度も足を踏まれた。

ただ、それでもエレノアはおだやかに微笑んで彼らと離れた。

そして、5人目の男がエレノアに声をかけようとした時、不意に背後から呼び止められた。


「ヴァーサ嬢、少々お話を伺えるか」


その声にエレノアは思わず身を固くした。

あの貧民街で聞いた、太く聞き取りやすく、指示をするかのように落ち着き払った声。

驚いてエレノアが振り返ると、そこには異端審問局としての所属を示すエンブレムを胸元につけたブラザー・ギャラハッドがいた。


「閣下……どうしてこちらに」

「本日の会場警備のため、こちらにいる。少々、彼女をお借りしてもよろしいな」


背後に手を組んで堂々と胸を張りながらブラザー・ギャラハッドが問うと、エレノアに声をかけていた男は腰が引けたようにしながら、そそくさと離れていった。

大方、面倒ごとに巻き込まれる、とでも思ったのだろう。

そして、エレノアもまた、ブラザー・ギャラハッドと自分が知り合いであることを母に知られるのは面倒だとうろたえた。

エレノアは即座に視線を巡らせると、母は賑わいの中心近くで、聖職者へと顔を売るのに必死だった。


「閣下、外へ向かいましょう。ここでは目立ちすぎます」

「よかろう」


エレノアが誰かに自分といることを知られたくない、そう態度で示しているのを見て、ギャラハッドもまたそれを許した。

ギャラハッドもまた、エレノアの立場は理解していた。

名家の令嬢、貴族の娘として異端審問局局長から何かを問われている姿を他の者に見られれば、彼女本人ではなく、ヴァーサの家門に傷がつく。

そうした世俗のしがらみに対してギャラハッドもまた全くの無理解というわけではなかった。

エレノアとギャラハッドが外に出ると、窓ガラスを挟んだことで喧噪も音楽も遠くへとなり、月明かりと墨で描いたような庭園の様子だけが周りに広がっていた。


「昼間、何故あのような場所にいた。少なくとも、このような夜会に参加する令嬢のいるべき場所ではなかっただろう」


言いながらもギャラハッドの目はエレノアの露わになっている肌以上に、彼女の装いに向いていた。

長い黒髪は結い上げられ、真珠の首飾りや耳飾りをつけてはいるが、そのどれもが古いデザインのものだ。

まとうドレスもまた古いデザインであり、それらには何度も修繕を施したらしい跡が見える。

仕立て屋の手によるものではあるまい。だとしたらあまりにも拙すぎる。

ギャラハッドの目から見ても、それらの修繕が貴族令嬢であるはずのエレノア自身の手によって施されたものであることは明らかだった。

だからこそ、何故、という疑問があった。

虚飾を装い、笑みを浮かべる貴族社会に生きることを良しとしながら、エレノアは庶民の娘のように外に向かい、そこで拳をもって異端者を叩きのめした。

相反する二つの顔を見せる令嬢へとギャラハッドは静かな目を向けていた。


「……ヴァーサの家は困窮しておりますから。私が外に出て働かねば、生活もままなりません」


貴族として生きる以上、年金の収入は入ってくる。

だが、それだけで成り立つほど生活規模が小さくまとまる貴族などいない。

例え借金をしてでも見栄を張り、自身が破産するまで優雅な暮らしをやめないのが貴族である、ということをエレノア自身も理解していた。

ただそれでも、エレノアは虚飾のために座すよりは、少しでも真っ当に自身の生活を保とうという努力を忘れたくはなかった。

それが例え、貴族としての人生において間違いであったとしても、エレノアは行動せずにはいられなかったのだ。

その言葉を聞くとギャラハッドは眉根をひそめながら、猛禽のように鋭い目で彼女の横顔を見た。

エレノアの顔立ちは整っているが、下がり気味の眉が気弱な印象を与え、赤い口紅を塗られた口元は彼女の女としての魅力を引き立てている。

だが、それ以上に、彼女のまとう諦めたような雰囲気がこのまま見過ごすにはあまりにも痛ましく思われた。


「それでいいのか、そなたは。ヴァーサ嬢、あの拳はどこで身に着けた、なんのためだ」


詰問するような厳しい口調ではあったが、エレノアはその言葉に怯むことはなかった。

ギャラハッドの厳しい言葉の裏に、どこか自分を慮るような色を感じて、寧ろエレノアは嬉しさすら感じて微笑んでいた。


「市井に紛れて店番をしておりますと、それなりに身の危険もございます。酔った客人に狼藉を働かれそうになることも。ですから、護身のために……身を守るため以外には振るったことがございません」


そう語りながらエレノアは自分の細い手を握った。

このか弱い手で男を昏倒させるだけの力を打ち出した、という事実は目の当たりにしていたはずのギャラハッドですらにわかに信じられるものではなかった。

か細い体には筋肉もほとんどついている印象はなく、令嬢としての淑やかな雰囲気を微塵も損なってはいない。

だというのに彼女の拳は確かに、武器として成立していたのだ。


「あの力、令嬢としてのそなたに振るう場はあるのか」

「……ございません。令嬢としての私にとって、この力は恥でございますから」


女はただたおやかに、屋敷の奥で微笑んでいればいい。

それだけの存在にすぎないはずの令嬢のエレノアにとって、この拳は、たとえ神から与えられた力であったとしても、表立って誇れるものではない。

自分自身を押し殺して生きることだけが自分に許された道であるかのように語るエレノアに対して、ギャラハッドは苛立ちさえ感じていた。

彼女は正しく生きようとしている。

それでも自分自身を恥として押し殺さなければいけないとすれば、この貴族社会は牢獄ではないのか。

ギャラハッドはそんな疑問を感じながら、エレノアへと改めて問いかけた。


「そなたはその人生に満足しているのか」

「……家を捨てれば、私は後悔しますから」


満足だ、とはエレノアは言い切ることができなかった。

もしも、満足しているといえば嘘をつくことになる。

神に仕える異端審問局局長に対して、エレノアは嘘をつくことができなかった。

だからこそ、自分にとっての真実――後悔することを避けたい、という思いを口にするしかなかった。

きつく締めあげられたコルセットが皮膚に食い込み、痛みと息苦しさをエレノアは感じていた。

ギャラハッドはそれ以上、何も語ることはせず、ただ無言で腕を組み、思い悩むようにしていた。

エレノアは自分のことでそんなに考え込んでくれる人など今まで会ったことはなかった。

ふ、と微笑むとエレノアはギャラハッドを見上げた。


「閣下、女は男に従い、子を産めというのが神の教えです。世俗に生きる私はそれに従おうと思っております」


それは確かにエレノアの覚悟ではあった。

だが、その道がエレノアにとって本当に自分を誇れる道ではないということもまたエレノアは理解していた。

そして、貴族に生まれた以上は、そこからの逸脱が許されていない、ということもまた彼女には既に分かっていた。

エレノアは静かに一礼をすると、ギャラハッドから離れて、ホールへと戻っていった。

ギャラハッドはその背を見つめていた。

確かに、男女が夫婦となり子を持つことを教会は推奨している。

だが、それは互いの愛情が結びついてこそのものであり、彼女のようにただ従順に男の支配を受け入れることを奨励しているわけではない。

だが、ギャラハッドをしても、一個人としてのエレノアの人生にそれ以上踏み込むことはできない。

エレノアが自分から貴族社会で生きるというならば、ギャラハッドは咎めることもできず、ただ警備のため巡回に戻ることしかできなかった。


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