欲を知ること
夕食の時間になり、異端審問局一同が食堂に会すると、エレノアは落ち着いた表情で祈りを捧げ、食事を取っていた。
だが、普段と全く同じとは言い難い。
明確にブラザー・ギャラハッドの方へと視線を向けることを避けている。
エレノアもまた、昼間に自分が口走った失言の意味を理解できていなかった。
――あなたを愛しています。
確かに、エレノアにとってギャラハッドの存在は特別であり、鮮烈でもあった。
自分がただの令嬢であった頃、罪に怯えた手を掴んでくれた。
異端審問局に入ってから自分を徹底的に鍛え、戦士として育ててくれた。
何よりも、迷う時はいつも彼の言葉がエレノアにとっての導きとなった。
それは暗闇を歩む道のりの先に灯台が見えたような安心感だった。
だが、それを恋情と重ねて自分はあんなことを口走ったのか、とエレノアは胸の内で考え込んでいた。
食事を終えて食器の返却をした後、エレノアは自室にこもると祈りを捧げていた。
「……主よ、私はどうしてしまったのでしょうか」
ギャラハッドに抱かれる夢を見て、体が熱をもった。
ギャラハッドに対して、聖職者にあるまじき言葉を言ってしまった。
これまでのエレノアであれば考えられないことのはずだ。
世俗にいた頃ですら、異性に対して何か求めるような情動が沸き上がったことなど一度もなかったのに。
そうエレノアが項垂れていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「シスター・エレノア、いるな」
「きょ、局長!」
エレノアは何かやましいことでもしていたかのように大きく体を跳ねさせると、すぐに立ち上がり扉を開いた。
ギャラハッドの表情は険しく、エレノアは厳しい叱責を覚悟した。
実際にエレノアがした失言はそれにふさわしい。
聖職者が聖職者に対して、「愛している」など、互いの貞潔の誓いを汚すような発言と受け取られても仕方ない。
エレノアはすぐに自分の非を認めて頭を下げた。
「失言、大変失礼いたしました。どうか、お忘れください」
だが、ギャラハッドからの言葉は予想外のものだった。
「断る」
明確に断言され、エレノアが思わず顔を上げると、ギャラハッドは相変わらず険しい表情をし、その目は異端を裁くときのように鋭い。
口元はへの字に結ばれており、明らかに機嫌のよい顔ではない。
だが、ギャラハッドはエレノアへとはっきりと告げた。
「そなたは既に聖職者だ。ならば自分の発言に責任を持て」
「……はい、局長」
「自分が言った言葉を無かったことにするのは、自身の誓いすらも蔑ろにする行為だと思え」
告げられた言葉にエレノアは思わず拳を握った。
あらゆる不条理を打ち砕き、苦しむ人々を救うために振るう。
その誓いを打ち消すつもりはない。
エレノアはぐ、と息を飲み込み、それでも自分の中にある迷いを断ち切れていなかった。
「局長、では……あの失言は、どう処罰されるのでしょうか。私はしてはならない行いをしました。その罪はすべて受け入れます」
「某は……あれが罪だとは思わん」
ギャラハッドは眉間に深い皴を刻みながら、それでも静かに目を伏せてから告げた。
「確かに、我らは聖職者。世俗の人間と違い、肉欲にふける行いをするつもりはない。某も断じて貞潔の誓いを汚す真似をするつもりはない」
「はい、ですから……」
「だが、貴様はどうする。貞潔の誓いを汚すか、某を誘惑し堕落させようと思うか」
「そんなこといたしません!」
エレノアは耳まで赤くなりながら、それでも必死に首を左右に振った。
自分でもまだ答えの分からないこの感情ではあるが、それでも、仮に自分が堕落するとすれば、自分ひとりで地獄に堕ちる覚悟はある。
ギャラハッドを巻き添えにすることなど、エレノアにはまるで考えられなかった。
そんなエレノアの様子にギャラハッドは静かに頷いた。
「ならば良い。主は人に意志の自由をお認めになっている。そなたが何を思うかはそなたの自由だ」
「……それで、よろしいのですか?」
エレノアはいっそ、厳しく裁かれ、自分が弾劾を受けた方がいいとすら思っていた。
この思いは罪なのだと、そう断言されれば、それは楽だった。
だが、ギャラハッドはエレノアを見つめ、告げる。
「エレノアよ、人間が楽園を追放されたのは何故だ」
「それは……知恵の実を食べることで主と同じ存在になろうとした傲慢、そして絶対的主権者である主に背いた不従順、そして……自らの欲望を神の教えよりも優先した堕落です」
「そうだ。それでも神は人に生きることを許された」
楽園という安寧の地を失った人間をそれでもなお、神は見捨てなかったのだとギャラハッドは静かに答えた。
最初から人間に自由意志など与えず、ただ従順な機械のように創ることすら神には可能だっただろう。
それでも、罪を犯したとしても、神は人を見捨てない。
そして、人は自らの罪を悔いて神の元へ向き合える。
ギャラハッドにとってそうした人間の不完全性は主の恩寵とすら思えていた。
「そなたは、おそらくは今まで欲を知らなかったのだろう。母親という支配者の下で彼女のために生きることを強いられていた」
それは事実だ。
マルゴーとエレノアの歪んでいた母子関係はこれまで、エレノアの純潔を保つことを強いてきた。
だが、今、本当の意味で母子が互いを愛し合うようになった時、エレノアは自分自身の女としての成長を受け入れる準備ができてしまったのだ。
だからこそ、エレノアの中に女としての感情や欲求が生まれたことを、ギャラハッドは安易に非難したくはなかった。
「欲を感じてもよい。大切なのは、欲を身に宿しても自らを律し、神に恥じぬ行いを貫くことだ」
ギャラハッドの言葉にエレノアは静かに頷いていた。
自分の思慕の情は罪ではない。
いつか、自分の血まみれの手を許してくれた時のように、ギャラハッドから告げられた言葉にエレノアは深く頷き、その鋭い瞳に救いを感じていた。
「はい、私は欲を覚えても、決して主の教えに背かず、信仰を貫きます」
「ならばよし、思いつめるな」
そう短く告げると、話は終わりだというようにギャラハッドは背中を向けた。
エレノアは感謝の言葉をかけながら、ギャラハッドを廊下まで見送っていった。