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ヴァーサの家

自宅へと戻った少女は、古びたマントを外すと静かにヴァーサの屋敷の中を見つめていた。

かつては見事であっただろう屋敷、古びた太い柱とはがれかけた壁紙、老朽化によって軋む床板を踏みながら、エレノアはなるべく音を立てないように自分の部屋へと向かっていく。

既にこの家の没落は目に見えており、生活を整えるためにもエレノアは市井の娘のように働く必要があった。

だが、名家の娘がどうして普通の仕事に就くことができるだろうか。

名家に生まれた令嬢ならば何もせず、ただ微笑みを浮かべ、同じような貴族の子息に見初められるのを待つべきだ。

白手袋の貴婦人――家事もせず、労働もせず、その白い手袋を汚すことがない娘こそ、上流階級の理想的な女性の姿なのだから。

だが、エレノアにはそうして座して待つ余裕などなかった。

暮らし向きは厳しくなる一方だというのに、その現実から目を背けるように父は女の元に通い続けている。

そして母は――。


「エレノア」


厳しいしわがれた声が聞こえた。

エレノアは背後へと振り返ると、白髪のやせ細った女性が立っていた。

彼女はエレノアと顔立ちこそ似ていたが、その表情には苛立ちがありありと滲んでいた。


「お母様、ただいまお飲み物の支度をいたします」


エレノアは静かに体の前で手を組むと、まるでメイドのように頭を下げて母へと言葉をかけた。

しかし、母はそんなエレノアの髪を掴むと、そのまま強引に引っ張り、自分の方へと顔を向けさせた。


「なんなのその服は!お前は、ヴァーサの家名を貶める気なの!?」


ヒステリックに叫ぶ母の姿を見ながら、エレノアは静かに目を伏せ、ただ嵐が通り過ぎるのを待つように静かにしていた。

母の目にはエレノアが外へ遊び歩きに出ていたように見えるのだろうか。

彼女は苛立ちに任せてエレノアの腕を乱暴に掴むと、その体を揺さぶっていた。


「ヴァーサの後継ぎはお前しかいないの!そのお前がいつまで、こんな風に庶民の娘のようにしているのよ!早く結婚して、この家に相応しい婿を迎えなくてはいけないと分からないの!」


まるで金属を引っ搔くような叫び声をあげる母を見ながら、エレノアは静かに頷く。


「承知しております、お母様。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「今日の夜会では絶対にお前の相手を見つけるのよ?分かっているでしょうね、エレノア!」


半ば縋るような母の声に静かに頷くと、エレノアは母を安楽椅子へと座らせてから、紅茶を注ぎ母をなだめていた。


――母はただ、寂しいのだ。

夫は愛人の元に通い、娘のエレノアは既に成長して自分の手を離れた。

自分自身を愛することもできず、家の没落を受け入れて動くこともできない。

無力で何もしない白手袋の貴婦人として生きてきた母は、自分で自分を慰める術を持っていない哀れな女性だった。

だからこそ、エレノアは物心がついたころから、母が果たさなかった役目を代わりに果たし、子守りをするように母をなだめ、逆転した母子関係を続けていた。

母を恨むつもりはエレノアにはない。

だが、この重荷のような家がエレノアには息苦しさを感じるものであったことも事実だった。


エレノアは部屋に戻ると、いつものように祈ろうとして、はたと、自分の白い手首に触れた。

いつもそこにあるロザリオはブラザー・ギャラハッドへと渡してしまっていた。

仕方ない、そう考えてエレノアは自分の手を組んで、そのまま床に跪くと祈りを捧げていた。

自分を救ってくれ、などという思い上がった祈りではない。

ただ、自分の行いは神の心に適っているのか、それだけがエレノアの疑問だった。

子どもは親に従うべきであり、女は夫を迎えて子を産むべきである。

そうエレノアは習ってきた。その通りに生きてきた。

だが、本当にそれが自分の生き方として、神の心にかなうものなのか。

それが今のエレノアにはまだ分からなかった。


日が暮れて、空が藍色に染まる頃、エレノアは母に促されてドレスに着替えていた。

もう十年以上前の型落ち、母が若い頃に着ていたドレスは何度もエレノアが修繕を行った痕跡があり、古い生地は張りを失っている。

そして何よりも苦しいのは、肋が軋むほどに締めあげられたコルセットだ。

運動はおろか、呼吸すらも阻害するコルセットは腰を極限まで細く締め上げており、エレノアは夜会のために馬車に乗り込んだ。

この馬車も見栄のために借りたものであり、ヴァーサの屋敷のものではない。

だが、母は馬車の中で上機嫌にエレノアに語っていた。


「今夜の夜会には大司教様もおいでになるのよ!彼の甥はまだ婚約者もおられないし、お前の相手には丁度いいわ」


母が楽し気に語るその口調を聞きながら、エレノアは薄い微笑みを浮かべ、ただ静かに頷くだけだった。

貴族の夜会の場に向かうこと自体は嫌いではない。

華やかな場も、賑やかな音楽も、それそのものが嫌いなわけではないのだ。

ただ、エレノアにとって気を重たくするのは、自分がただ女だというだけで近寄ってくる軽薄な連中であり、そういった人間があまり好きにはなれなかった。

ただでさえ、ヴァーサの家の維持と母の子守りという役目を背負うエレノアにとって、これ以上誰かを抱え込むだけの余裕は存在していなかった。

だが、母はそんなエレノアの内心などまるで気にせず、楽し気に、ただ無邪気に笑っていた。

エレノアは馬車の窓から夜会の場となるホールを見据えていた。

白亜の見事な建物から鮮やかな灯が夜の闇の中で輝いている。

いくつもの馬車が集まり、すでに多くの人が集まっているのを感じながら、エレノアは静かに目を伏せていた。

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