演習最終日
演習はますます苛酷さを増していた。
夜警としてエレノアは先達の異端審問官と共に夜通し陣地の周辺を見回った。
夜の闇と静けさが人間としての本能的な恐怖を呼び起こし、ただの木の葉が人間の目に見えることすらあった。
だが、その恐怖に精神を麻痺させるわけにはいかない。
エレノアはそうした恐怖を抱く度に祈りを捧げ、自分の理性を呼び起こした。
――あれはただの木の葉だ、音は風のざわめき。
――何者の足音も聞こえず、獣の臭いも近くない。
全身の神経を鋭く研ぎ澄まし、しかし恐怖に飲まれぬ心を保つことの重要性を学ぶ。
そして、また日が昇れば肉体は限界まで鍛え上げられる。
エレノアは実際にこの演習中、自分の体力が圧倒的についてきた自覚ができていた。
走り込みであがっていた呼吸は落ち着き、戦闘訓練の最中でも周囲を見回すだけの余地が生まれていた。
ただ目の前のことに集中しなければいけなかった余裕のなさが無くなり、自分の戦い方というものをできるようになっていた。
そして、最終日、エレノアたちは山の中での作戦の訓練を行っていた。
普段は軽装であるエレノアも今日はリュックを背負い、全身に感じる重みの中で斜面で敵チームの動きの連絡を受けていた。
だが、不意に頭上から奇妙な音が聞こえて顔を上げた。
「落石だ!走れ!」
少し離れた位置にいた観測役からの指示が飛ぶ。
走れ、だが……エレノアはまだ動ける。
しかし、自分の背後には伏せた姿勢になっている異端審問官たちがいる。
岩が転がり落ちてくる衝撃に地面が揺れる中、迷っている暇などなかった。
「はぁあああーー!」
エレノアは全力で山の斜面を蹴ると、岩の前に踊りだし、そのまま拳を構え、一気に岩へとめがけて振りぬいた。
エレノアの胴体ほどの大きさがある岩が、拳の一撃によって砕け、その破片が飛び散っていく。
背後にいた異端審問官たちは頭を押さえて飛び散る破片から身を庇っていた。
「皆さま……お怪我は、ございませんか」
エレノアは何とか振り返ったが、腕が痛かった。
拳の感覚はない。
「シスター・エレノア、なんてことを……」
側にいた先達の異端審問官は声を失いながら、エレノアの腕を掴んで強引に彼女の心臓より高く持ち上げさせ、即座に止血をしていた。
エレノアの拳は砕け、皮膚は裂けて血が溢れていた。
灰色の僧服を鮮血に染めながら、荒い呼吸を繰り返してエレノアは自分の手を見つめていた。
神からいただいた力を過信していたわけではない。
ただ、人を守りたい、その願いのために突き動かされたのだ。
だが、自分の未熟さが、この拳を砕いてしまった。
エレノアは痛み以上に、己の無力さに歯を食いしばって、涙が溢れそうになるのを堪えていた。
「医療班、急げ!怪我人の保護を!」
ギャラハッドの指示が飛ぶ中、エレノアは再び医療班の手によって手当を受け、その後、病院へと運ばれていった。
「……全治三か月ですな。いや、神経が傷まなくてよかった。この体格で岩を砕くなど、普通なら腕の方がもげていましたよ」
おだやかな口調で医師が告げる言葉を聞きながら、エレノアは申し訳なさそうに頭を下げていた。
拳はギプスで固定され、鎮痛剤のおかげで今は痛みを感じずに済んでいるが、利き腕の骨折というあまりにも大きな痛手にいつになくエレノアは落ち込んでいた。
「仲間を守る精神は重要だが、自身の身を顧みられぬならば未熟だぞ。次は岩を無傷で砕け」
「はい……局長」
医務室から戻ったエレノアはギャラハッドからの厳しい言葉を聞きながらも素直に頷いていた。
左腕一本で異端や吸血鬼を制圧できるような力はエレノアには無い。
二つの拳でようやっと戦える自分が、そんな傲慢な思い上がりをできるはずもなかった。
「拳が治るまで、くれぐれもそなたは安静にしているように。焦るなよ」
「はい、今しばらくは祈りを捧げ、自身の身を省みるようにいたします」
ギャラハッドはしおらしく落ち込んでいるエレノアの姿に眉根を寄せながら、それでもそっと肩に手を置いた。
「いいか、そなたは異端審問局の家族だ。誰もそなたが欠けて喜ぶ者はいない。できぬことがあれば他の者を頼れ」
日頃厳しい言葉を告げられることが多いギャラハッドから、そうして励ましの言葉をかけられるとようやくエレノアの瞳に明るい光が宿った。
自分の不甲斐なさを責めるのではなく、次に進む糧にせよ。
そうギャラハッドが言外に伝えてくれていることが、エレノアにも伝わっていた。
「ありがとうございます、局長」
気弱に見えるこの少女のどこに岩を砕くだけの力があったのか。
改めてギャラハッドはエレノアに与えられた使命の苛酷な道のりを思いながらも、彼女がその道を重荷と思わず進んでいることに安堵していた。
こうして、演習の最終日を終え、ギャラハッドたちは異端審問局へと戻ることになった。