軍事演習の開始
風が冷たくなり、秋の訪れを感じるようになっていた頃、異端審問局では軍事演習の準備が行われていた。
エレノアもまた着替えなどの身近なものを詰めたトランクを手に移動用トラックの荷台に乗り込んでいた。
周囲にエレノア以外に今回の演習で女性の参加者はいなかった。
元々、異端審問局の中でも軍事的な制圧、戦闘を中心とした訓練についていける人材は圧倒的に男性が多い。
多くのシスターは尋問や調査、神学的な目線での異端の審判に関わる部門に割り振られるものだが、エレノアは本人の希望もあり、軍事方面の訓練を受けていた。
先達たちに混じっての軍事演習、更には男性が中心となった場に対して、これまでとは違った空気を感じつつも、エレノアはトラックの中で静かに自分の拳を見つめた。
この拳を振るう意味は何か。
エレノアは苦しむ人々を救うため、この拳が役立つならば、というそんな子供じみた願いの元に異端審問局を訪れた。
だというのに、つい先日は怒りに任せて自分の拳を振るってしまった。
そんな自分の精神性の未熟さを乗り越えなければ、いつまでも異端審問官としては一人前になれない、という自覚がエレノアの中にはあった。
演習場につくと、エレノアたちはすぐに運動着に着替えて一時間以上も走らされた。
異端との戦いにおいて、体力不足で倒れているようでは話にならない。
水筒の中の水を飲みながら、自分の体を限界まで追い込み、そしてその先を目指す。
「はあ……はあ……」
ようやくエレノアも他の先達たちと共に走り込みを終えられるようになったが、それでも息が上がった後、回復までの時間が遅い。
他の面々が既に息を整えている中、いつまでも息を切らしているわけにはいかない。
エレノアはすぐに戦闘訓練の準備に移った。
革ベルトで造られたセスタスを拳へ巻きつけ、自分の拳を見つめる。
骨格が華奢で細い指が戒められるようなその拳を握り、エレノアは訓練に挑んでいた。
そして、ギャラハッドもまた訓練を行っていた。
「連携が甘い!包囲を突破させるな!貴様らは信仰の盾だ、異端も吸血鬼もその盾の向こうに通すな!貴様らの背後には信徒たちがいると思え!」
雷鳴を思わせる檄を飛ばしながらギャラハッドは訓練用の木製のメイスで容赦なく自身を囲む異端審問官たちの包囲を叩きのめしていく。
その勢いはすさまじく、有利なはずの防衛側の異端審問官たちが次々に地面に打倒される。
だが、誰も諦めた顔をするものはいない。
盾が弾かれれば、今度は自分の体でギャラハッドへと立ち向かい、タックルをしてその巨体を押しとどめようとする。
そんな部下たちのやる気に満ちた姿にギャラハッドもまた口元を歪めて満足げな笑みを浮かべていた。
だが、手加減などこの男には無かった。
「がはっ!」
「足にしがみつくな!腰を狙え!相手の動きを確実に封じろ!」
自分の足にしがみつくようにした異端審問官を容赦なく蹴り飛ばし、地面に転がった相手に厳しく指導の声を上げる。
実戦さながらの訓練の中で異端審問官たちは汗と泥にまみれながら必死に異端審問局最強の局長へと挑み続けていた。
「よし、休め!貴様ら、宿舎へと戻るぞ!」
「はい、局長!」
ギャラハッドの号令に従うように異端審問局全体が声を上げた。
エレノアも膝が震えながらではあるが、痛む自分の拳を抑えて必死に顔を上げていた。
元より体力不足が目立っていたエレノアではあったが、今回の訓練によって既に立っているのも限界と言えるほどに体は疲弊しきっていた。
宿舎へ戻り、汗を流したらすぐに休もう。
そう思うほどには誰もが疲れ果てていた。
だが、エレノアとギャラハッドはすぐには休めなかった。
「……」
「……」
部屋の中で自身の鎧の整備をしていたギャラハッドはノックも無しに扉を開けたエレノアを見つめ、硬直していた。
エレノアもまた、自分の手にある部屋の割り振り番号と部屋の扉に書かれた番号を確認していた。
「……局長、私、こちらの部屋に割り振られております」
「な、なんだと!?」
思わず動揺の声を上げたギャラハッドは自分の割り振りとエレノアの割り振りを確認したが、確かに番号は全く同じだ。
「……何かの手違いだろうな。しかし、男女が同じ部屋で休むなど」
ギャラハッドは眉根を寄せながら、どうしたものかと眉間に指を押し当てていた。
いくら聖職者として貞潔の誓いを持つもの同士とはいえ、同じ部屋で眠るなど間違いが起きないとは言い難く、更には風紀的な問題もある。
そう言っていると、エレノアはそっと部屋の壁にあったクローゼットを開けて中を見つめていた。
何をしているのか、そうギャラハッドが尋ねようとすると、エレノアはうん、と頷いてからクローゼットの中へと入っていった。
「私はこちらで寝ますので、どうぞお気になさらないでください」
「できるか!たわけが!」
クローゼットの中からエレノアを引っ張り出すと、ギャラハッドは二つあるベッドの間に自身が普段愛用しているメイスをどっかりとおいて、線を引いた。
「いいか、このメイスを境界線とし、この線を越えるのは貞潔の誓いに背くものとする」
「……かしこまりました」
エレノアはなんとなく、昔話でこういう境界線をしいた話があったな、と思っていた。
彼女もまた疲労から若干冷静さを欠いていた。
それでもまだ、エレノアはいくらか理性的に物事を考えた。
「それでは、互いに着替えを行う際には壁を向いて行い、片方が入浴を行う際にはもう片方は廊下で待つようにいたしましょう。それであれば、万一にも互いの純潔を乱すおそれはありません」
「……よかろう」
こうして、軍事演習の最中、2人は同じ部屋で過ごすことになった。