モルガナの困惑
異端審問局の中庭でエレノアは大木の側に佇みながら祈りを捧げていた。
それはこの地に初めて訪れた頃の、適応としての祈りではない。
神によって巡り合えた素晴らしい師と、ここで出会えた全ての事柄に対しての感謝の祈りだった。
「シスター・エレノア、訓練はどうですか」
静かな女性の声が聞こえてエレノアは顔を上げた。
「シスター・モルガナ、はい、学ぶことが多く、感謝しております」
シスター・モルガナは眼鏡越しの瞳で静かにエレノアを見据えていた。
控えめではあるが確かに喜びを感じて頬を緩めているエレノアには既に、過剰に周囲の期待に合わせようとする臆病さの影はなくなっており、モルガナは満足したように頷いていた。
「あなたは令嬢としてこれまで生きてきたでしょうが、ここは異端審問局。吸血鬼との戦いにおいて必要となるのは知識だけではなく、肉体の能力もです。そのやる気を失わないように」
「はい!本日も局長に押し倒され、一切抵抗ができず……戦うということを学ばせていただきました」
「そう……押し倒された?」
静かに頷きかけていたモルガナは思わず真顔のままエレノアの顔を見つめた。
エレノアは頬をほんのりと赤らめ、嬉しそうに微笑んでいる。
「詳しく話を聞かせていただけるかしら、シスター・エレノア」
モルガナは心の内の動揺を一切表情には出さぬままエレノアにもう一度尋ねた。
局長がエレノアを押し倒した?
いや、あの局長に限って、下心でエレノアを押し倒すことはない。
かといって、エレノアが嘘をつくはずもない。
何かしら自分に誤解が生じているはずだ、というよりも、そうでなくては困るという思いでモルガナはただ沈黙していた。
「はい、格闘の訓練の折に局長と手合わせをいたしまして、押し倒されたまま制圧されました」
はっきりとした口調でエレノアは一切のやましいことはなかったという事実を語る。
そしてエレノアはまだ訓練の疲労で震える自分の手を見つめていた。
「私はこれまで自分の力は男にも負けないと信じておりました。しかし、このように一切抵抗できない格差を見せつけられ、喜ばしいのです。私にはまだ学ぶべきことが多くある……それを局長は教えてくださいました」
エレノアの頬の紅潮は自らの無力さを教えられたことの感動によるものだった。
モルガナは僅かに息をつきながら、そのまま目を伏せた。
「……紛らわしい」
「はい?」
珍しくひとりごとを呟いたモルガナにエレノアはきょとんとした顔をしていたが、そんなエレノアの様子にモルガナは僅かに目を細めて額に指を添えた。
「シスター・エレノア、その話は軽々にしないように」
「何故でしょうか、私は今回の訓練で多くの学びを……」
「シスター・エレノア。従順の誓いはどうしました?」
「……失礼いたしました」
モルガナの声色には有無を言わさぬ響きがあり、エレノアは咄嗟に頭を下げた。
聖職者が守るべき3つの誓願。
それは生涯にわたって純潔を守る貞潔の誓い、自らの身の回りのものを控える清貧の誓い、そして上位の聖職者と教会の意向に従う従順の誓いだ。
見習いとはいえシスターとなったエレノアもまた、この誓いを守るべき立場にあった。
「あなたのやる気が続いているならば結構です。その調子でこれからも励みなさい」
「はい、シスター・モルガナ。お気遣いありがとうございます」
モルガナは厳格な女教師のようにエレノアへと激励の言葉をかけたが、エレノアにとってはそうしたモルガナの態度に肉親から与えられることのなかった母性を感じて、嬉しさを感じていた。
だが、モルガナの方は内心穏やかではなかった。
局長であるギャラハッドが見習いのシスターであり、17歳の少女であるエレノアを押し倒したなど、それだけを聞かれれば異端審問局全体の風紀に差し障る。
更にはエレノア本人がそれに対する自覚がないことこそが一番の問題であった。
「無垢というのも時には問題ですね」
モルガナは十字を切りながら穏やかに異端審問局の回廊を進んでいった。