深海の幽霊
――幽霊を見た。
深海生物や資源の調査研究を目的とし、国から支援を受けてハムシング社とノープ社によって共同開発された深海基地『クリリアメイタ』
研究員たちの間で、始めは声を潜めて話すことすら躊躇いがあったその内容は、幽霊の姿形に具体性を帯びるともに大きく、そして震えを伴って彼らの口からこぼれ落ちるようになっていった。
幽霊の姿をはっきりと見た者、朧気に見た者、声を聞いた者、ほんの僅かだが会話をした者、後ろ姿しか見たことがない者など、その目撃証言も異なっていたが、基地に在住する十数名の研究員の話の内容を総括すると、その幽霊は子供の姿をしていることが共通していた。
震え上がる研究員たち。しかし、唯一その幽霊の後ろ髪すら見たことがない研究所所長が全員を一喝した。
「いいか、その幽霊は、地上で暮らしている自分の子供に会いたいというお前たちの心の弱さが見せた幻だ!」
所長はそう結論づけたのだ。
「あの……自分にはまだ子供がいないのですが」
一人の研究員が手を上げ、おそるおそるそう言った。
「それも願望だ。子供が欲しいから幻が見えたのだ」
「あの、自分はまだ結婚していません。彼女もいません」
「貴様はロリコンだ。口を閉じていろ」
「あの、自分は――」
「集団催眠だ! みんなが見たと言うから、自分も見えた気がしただけだ! 二度と幽霊の話はするな! いいな!」
所長の激しい叱責が飛んで以降、研究員たちの間で幽霊を見たという話題は上がらなくなった。
しかし、所長が言ったように、あれは本当に幻だったのではないか、と皆が思い始めた頃、今度は『女の幽霊を見た』という話題が研究員たちの間で浮上し始めた。
その騒ぎが前回以上に広がると、所長は再びミーティングルームに全員を集め、この騒ぎはこの深海の基地の中という閉鎖空間におけるウイルス感染のようなものだと呆れながら語った。
「それで、えー、お前たちの話によると、その女の幽霊は体格や髪の色はまちまちで、共通する点と言えば、美人だとかセクシーだとか……はぁ。いいか、お前たちの性的嗜好のお披露目会じゃないんだぞ! 無用な諍いを避けるために、この研究所には女がいない。それゆえに幻覚を見たんだ。いうなればこれは性欲の化身だな。恥を知れ。特に初めに女の幽霊を見たなんて口走った者はな!」
と、所長は全員を舐めまわすように見ながら説いた。全員が黙り、下を向いた。しかし、もちろん全員が納得したというわけではなかった。所長は多くの者たちから信頼と尊敬を集めていたが、しかし、自分の目でしっかりと見たものを否定されるのは、受け入れがたかった。
所長は「深海に幽霊などいるものか」と言っており、確かにそれもそうだと納得したが、後々よく考えてみると深海こそ地獄やあの世に近いのではないか、と思う研究員も少なくなかった。特に、圧迫感を緩和するために作られた大きな丸い窓の向こうに広がっている暗闇を見つめると、そう感じるのだ。
そして、治ったと思った風邪がぶり返すかのように、少し日を空けて、再び幽霊騒ぎが起きた。
「いや、いい加減にしろよ、お前たち……今度は男の幽霊だと?」
「はい所長……それも、全員が同じ服装の幽霊を見ているんです……」
「で、その服装から見て、この基地を建設する際に事故で死んだ作業員なのではないか、と」
「はい……これはもう……本物としか……」
「事故で死んだ作業員か。いかにも、ありそうな話に聞こえるが……お前たち、ふざけるなよ!」
確かに死亡事故はあった。しかし、それは避けられないことと言えた。深海に基地を作るというのは地上に作るのとはわけが違う。困難で危険が伴う。作業員たちはその危険性を承知の上で仕事をしており、事故に遭った作業員の遺族も保険金を受け取った。遺体はきちんと棺に納められ、ここから一番近い陸地に石碑が建てられた。
「幽霊になり、自分たちを脅かしているなど、その死んだ彼に対する侮辱じゃないか! 恥を知れ!」
不謹慎だと言われれば、黙って頭を掻くしかない。しかし、その下を向いた顔からは不満が滲み出ていることに所長は気づいていた。ゆえに所長はガス漏れ、酸素の供給異常がないか一斉点検を実施した。むろん、そう題したが実際の目的は幽霊捜しだった。研究員全員で基地内をくまなく捜索した。
そして、所長の狙い通り、幽霊は見つからず、おまけに設備の異常も見受けられなかった。これでもうわかっただろう。二度と幽霊を見たなどと口にするなよ軟弱者どもが、と所長が研究員たちに強く言い渡した。
幽霊騒ぎはこれにて終息し、所長はようやく安寧の時を得た。
しかし、それは束の間の休息に過ぎなかった。研究員の一人が亡くなったのだ。ある日、自室で首を吊った状態で発見されたその研究員は、速やかに地上へ送り返された。
これでまた、幽霊騒ぎが始まる。彼が死んだのは幽霊に呪われたからだと研究員たちは噂するだろうと所長は考えたが、しかし、そうはならなかった。それは、所長のおかげと言えた。ただし、これまでの所長の力説の甲斐があったわけではない。
その亡くなった彼は生前、所長からたびたび叱責されていた。それに加え、男色の傾向がある所長が、彼を慰め者にしていたことから、研究員の間で、彼は苦痛に耐えかねて自殺したのだと、そう結論づけられたのだ。
ただ、その彼が実際に所長の慰め者にされていたかは定かではない。あくまで研究所内の噂であり、真実を知るのは死んだ彼と所長のみ。その所長がいくらそれを否定しても、また実際に違っていても、研究員たちに信じてはもらえないだろう。その噂はすでに具体的な形を取り、所長の前に現れていたのだから。
深海の幽霊。それは、この深い海に飲み込まれ、それと知らずに消化されていく思念の集合体か。
その幽霊は歪にも統一された研究員たちの願望通りに、所長の瞳の中でのみ揺らめいていた。