キュクロープス
近頃には贅沢な話で、学校には「裏山」と呼んで良いほどの木々が生い茂る丘があった。
当然、そこは劣悪な学習環境に苦しむ生徒たちの恰好の憩いの場、またはさぼりの場で、季候の良くなる春や秋ともなれば、ベージュのブレザーがそこここにたむろして、裏山は時ならぬにぎわいを見せるのだった。
そんな生徒たちの中に、Kがいた。彼女はあまり他の生徒とつるまず、いつもひとりで裏山に来て、植物のスケッチをしたりメモを取ったり、時には図鑑らしきものを携えて実物と頁との間で視線を行き交わしたりしていた。作業が終わると決まってやわらかな草の生えた斜面に寝転んで、ぼんやりと空を見上げている。やがて夕刻になって町内放送のサイレンが甲高く鳴り響くと、彼女はゆっくりと起き上がってしわの寄った服を整え、静かに帰っていくのだった。
何度かその姿を見てKに興味を持った私は、ある日思い切って話しかけてみた。
「何をしているの」
「ん? 見ての通り寝てるんだ」
草のベッドに横たわったKは、まるで私に興味がない風情で答えた。私は内心を隠して言葉を続けた。
「あなた、いつもひとりでいるのね。寂しくないの」
「寂しくないさ。寂しいということが何か知らなければ、寂しいと思うこともない」
「でもそう答えるってことは、あなたは寂しさを知っているのね。それならやっぱり寂しいんじゃないの」
撞着を指摘すると、Kはむっとした様子でこちらを見た。
「うるさいなあ。寂しくないって言ったらない。もうあっちに行ってよ」
私は構わずに彼女の隣に横になった。Kは驚いたようだったが、立ち去ったりはしなかった。
地上にはそよ風ひとつないのに、上空には早い気流が生まれているらしい。大きな雲が次々に私たちの上を流れて行き、光と影が忙しく交替した。
「平和だねえ。きれいな空だねえ」
私が呟くと、
「本当にそう思っているの」
Kは答えた。
「どうして?」
「だって、全ていずれ失われてしまうだろう」
その言葉には何か抜き差しがたいものが感じられて、私の心を動かした。
「儚いからこそきれいなんじゃないの? 例えば、桜がずうっと散らなかったらどう? きっと、あれはああいう花なんだって思われて終わりよ」
「そんなこと!」
Kが急に強く言い放つ。私は彼女の瞳を見つめた。
「無くなるってことの意味がわかってない人間の言葉だ。私は――」
そこで彼女は急に黙り込んだ。瞳に映る色が変わって、寒々しい不安の光を宿す。きれいだ。
「何でもない。もう帰る」
Kは立ち上がると、振り返ることなく去っていった。
その後もKは何回か裏山に来て、私はそのたびにKと会った。Kに取って快いものではなかっただろう最初の邂逅のせいで、彼女がもう私を寄せ付けないのではないかとの懸念は、杞憂に終わった。Kは淡々と私を受け入れた。
私の思うに、Kはやはり寂しかったのだ。
しかし、それなら、何故他の友達と一緒にいないのだろうか。不思議に思った私は、学校でのKの生活に探りを入れてみた。
幾人かの情報源から明らかになったのは、どうもKがクラスで孤立しているらしいということだった。いじめられているわけではないようだが、他とは少し違った無口で大人びた子として、敬して遠ざけられているというのが真相に近いらしい。しばらく前にお母さんを亡くしたのもあるんじゃないかしら、クラスメイトのひとりはそう言って連れと視線を交わした。
よくよく聞いてみると、Kの母親が亡くなったのは、ちょうど私がKの姿を見かけ始めた時期と一致していた。
「お母さんを亡くされたの」
次に彼女が姿を見せた時、私は単刀直入に聞いた。Kはスケッチブックを広げかけていた手を止めてしばらく黙っていたが、急に一言呟いた。
「来て」
後ろも見ないでどんどん歩いていくKについて進むと、やがて丘の中でも特に小高い一角に出た。転落事故が相次いだために市の当局が張り巡らしたフェンスが、半分破れて風にあおられている。
「ほら、あそこ」
Kの指さす先には市立病院の建物があった。
「母さんは、あそこに入院してたんだ。あの窓から毎日この山を見ていた」
白い病院の壁に規則正しく四角い窓が穿たれている。その幾何学模様は、まるで内側に宿した暗い怖れを隠すために殊更に無機質を装っているかのようだった。
「母さんは、人間の命は短いけれど、自然はずっと続くって、だから山の緑を見るのが楽しいって、いつもそう言ってた。でも秋が過ぎて緑が無くなっていくのに合わせるみたいに、母さんは弱っていった。その時私と母さんは、絶対もう1度春を見るって約束したんだ。」
そこまで話してきて、Kは不意に詰まった。明らかな動揺が見て取れた。
「お母さんは次の春を見られなかったの」
私の質問にKは首を振る。
「違う。母さんはこの春を見た。そして、私に言った。ああ、この春は違うのね、去年見たのとは違う命なのね、って。それで、母さんは死んだ」
そう答えると、Kはしゃがみこんだ。
「だから私は怖い。どんなに美しいと思っても、それが1秒ごとに失われていくのが怖い。無くなってしまうのが怖い」
子供のように震えるKに私は近付いた。
「かわいそうに」
ささやいてその背を撫でようとしたが、Kは身じろぎして拒絶した。
「ごめん。しばらくこのままにさせて」
絞り出すようにそれだけ言って己に閉じこもったKに、私はなす術がなかった。
それからしばらく、Kを見かけることはなかった。もしかすると彼女は今もあのままあそこにうずくまっているのかもしれない、そんな思いに駆られて何度か高みを訪れたが、無論Kはいなかった。
しばらくして、学校に奇妙な噂が流れているのを聞いた。
Kが化け物と一緒にいた、というのだ。ではどんな化け物かというとこれは話によってばらばらで、普通の人間の姿をしていたという者もあれば、いや鬼のようだったとも、不定形で蠢いていたとも、果ては山の向こう側から頭を覗かせる巨人だったなどという荒唐無稽なものもあった。
しかしどの噂にも共通していたことがある。化け物には目が1つしかなかったというのだ。
紙のように薄い雲が空のあちこちを覆って、それぞれが陽光をたくわえて黄色く反射している。その中の1点に光が凝って、虹色の輝きを見せていた。
「幻日だ」
久しぶりに姿を見せたKが呟いた。
「きれいだね」
私が言うと、
「あんなの、一番すぐに無くなってしまうものじゃない」
穏やかな表情で見上げながらも、寂しげな声でKは呟いた。
「もっとよく見えるところに行ってみようよ」
私は勝手に歩きだした。Kは少し迷ったようだったが、結局私についてきた。
私が目指したのは、いつかの高みだった。見れば、ちょうど病院の真上の方角に幻日が照り映えている。
「ねえ、幻日に願い事をすると必ずかなうんだよ」
私はKに教えた。
「そんなの聞いたことないけど」
「いいからいいから、願ってみて。あっ、そうだ、口に出して言わないとだめだよ」
「本当かなあ」
私はいぶかしむKを光耀の正面に押し出した。
高みの淵に立って、Kは呟いた。
「失われないものがほしい」
Kがそう願うことはわかっていた。
「かなえてあげる」
「えっ」
振り向こうとしたKの背中を、私は突き飛ばした。
驚きの表情を残して、Kの身体は中空に舞った。
私は手を差し出した。私の腕は長く、たくましい。願いさえすれば、彼女はいつでも戻ってこられる。
しかし、Kはそうしなかった。
私に向けて伸ばしかけた腕を引き、Kは安らかに目を閉じた。私は微笑んだ。彼女には、己を待ちわびるとこしえの声が聞こえたのだ。
穏やかな慈しみに満ちて、艶めかしい生の繁茂する深淵へ、彼女はゆっくりと沈んでいった。
幻日から墓標のように伸びた虹が一瞬光を増して、すぐに消えた。
こうして、Kもまた私の一部となった。
命の生い立つ始原に還ったKの肉体から、やがて新芽が青々しく天を目指し、花が色鮮やかにほころぶだろう。たとえ朽ち果てて後も、かつてKを形作っていたものは永遠の生と死を織り成し続ける。
それが、失われないものだ。
季節が廻るたび繰り返される歓びと悲しみを、私は彼女のために言祝ぐ。
私の名はキュクロープス。独眼の巨人にして、輪廻を司る者である。