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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

斜陽のふたり

作者:

 明治二年五月――。

 ひとつの時代が終わりを迎え、新しい時代がすぐそこまで迫っていた。


「――――」


 遠くから声が聞こえる。だけど、耳鳴りがひどくて何を言っているのかはわからなかった。霞む視界は横倒しになっていて、己の身体が地面に転がっていることに気づくのにしばし時間を要した。

 大気は煤けていて、泥と鉄の臭いが鼻を刺激する。か細い吐息は生きようと懸命に、肺に酸素を送っていた。

 それでも、自分は生きていると確信できた。

 視線をわずかに右へ。五体はどこも欠けていない。もはや着慣れた筒袖の蘭服。その先へ、ゆっくりと、確かめるように右手へ力を込めた。拳の中には己の心臓とも呼べる刀があった。誇らしかった。己は未だ、剣客の矜持を手放していなかった。

 故に、男はまだ立ち上がれた。


「――奉行並! しっかり!」

「早く運べ! 絶対死なせるな!!」


 回復した聴覚に絶叫が届いた。同志たちは指図役が撃たれたため後退を図ろうとしていた。

 それを目撃し、雷が落ちたような衝撃を受けた。震える拳が打刀に伝わって、小刻みに音を立てた。

 だが、悲壮に暮れている暇はない。

 目に浮かぶ水滴を払いのけ、男はさらしで右手と打刀を固く結んだ。防衛のための土塁と木柵の向こう側はまさしく弾雨。黒い陣笠が立ち並ぶ。深呼吸をひとつ。剣術が己の唯一の才であった。これだけで動乱を生き抜いた。手元に鈍い輝きを放つ刀。この白刃が己を裏切ることはないのだから。

 男は意を決したとき、敵陣から何かが飛び出した。弾雨を背にそれは怒涛の勢いで迫りくる。その影は一直線にこちらへ向かってきた。男は目を見張りつつも即座に身構えた。土塁を超え、砂塵が巻き上がる。突き立てられる白銀。切っ先と切っ先がぶつかって、鋼が悲鳴を上げた。

 炸裂する火花の中、ふたりは交錯する。

 守勢は驚愕に顔を歪め――。

 攻勢は狂喜に顔を歪め――。

 男は舌打ちを零して、刀を捌き切った。

 間合いが外れて、ようやく息を吐き出した。男は打刀を構え直してから、前方を睨みつけた。

 長身の男だ。そいつは西洋風の外套を羽織り、腰には大刀を一本佩いていた。男は彼を知っていた。だからこそ、胸が焼けるような嫌な苛立ちが沸き起こった。


「あなたは、」


 口にするや否や、敵は動いた。下段から掬い上げるような一撃。やけにゆっくりに見えたそれを男は軽々と躱して、再び間合いを切る。しかし敵は追いすがってきた。横薙ぎに振るう太刀はさきほどのものより少し速かった。回避するのは易い。再び身をずらすと相手はそれを予測していたようであった。斬撃は横薙ぎから即座に振り下ろされた。執念を感じる太刀筋。埒が明かないと刃を繰り出した。睨みつけると、相手は嗤った。


「あぁ、北の果てまで来た甲斐があった」


 喜悦に唇が歪む。


「忘れた、なんて言わないよナ?」


 ギリギリと互いの刃が唸る。

 沈黙をなんと受け取ったか、ますます笑みを深めた。


「淀ン時は伝習隊の連中に邪魔されたが、今日は違う」

「……軍隊を後ろに、よく言う」

「邪魔はさせねぇサ!」


 大刀は弾かれる。両者が後退したその時、無数の銃弾が眼前を過ぎ去っていった。にわかに敵方が騒がしくなる。鞘走りの音とともに、黒い陣笠たちが突撃を敢行した。

 意識は瞬時にそちらへと切り替わった。ぐっと柄を握る。息をく。男の纏う空気は手に取るように変わった。鈍色に輝く瞳。底の知れない深淵の闇のようであった。

 対する味方も抗戦せんと陣地から雄々しく立ち上がった。

 あっという間に戦場は乱戦へもつれこんだ。

 ばっと鮮血が飛び散る。

 飛び出してきた黒い陣笠を一刀に斬り伏せた。


 ――次。


 男の意識は既にふたりめへ向けられている。振り下ろされる凶刃を回避し、首筋を斬り払う。絶叫が耳に届くことはない。ライフルを持った黒い陣笠に狙いを定めていた。銃口が火を噴くが、射線上に狙った獲物はいなかった。焦る陣笠は考えるまでもなく、背中から斬られた。死体を踏み越え、男はブーツを蹴り立てる。彼と刃を交えた敵は皆無であった。白刃が彼の肉を削ぐことは無く、銃弾が彼の肉を貫くことも無い。大地はいよいよ赤く染まり、その上には屍山が築かれた。

 肉を裂き、血を浴びる。

 その繰り返し。

 高ぶる己がいることを知っている。

 剣を振る己に酔いしれていることを知っている。

 この時が、永遠に続けば良いと思う己は、確実にいる。

 知っているのだ。もう、答えは出ている。

 己が生きる場所は戦場ここしかないのだ。

 血風の向こう側、黒い赭熊を被った男の顔が驚愕と恐怖に歪む。震えながら腰の刀を掴む姿はなんとも情けなかった。

 一閃。

 得物を抜き切る前に、美しくも残酷な円弧は首を飛ばした。

 男は、ふっと息をいて、力強く刀を払った。


「――落ちるのも時間の問題だナ」


 その言葉に、はっと振り返った。

 土塁に座るのは外套の男。

 彼の周辺にも血溜まりが広がっていた。味方はもういない。少しだけ胸が軋んだ。

 視線はどこか彼方へ向けていた。その方角は誰もが知っている。砲撃の音が遠くで響いていた。

 彼は立ち上がって、血肉に刺さっていた自分の大刀を持ち上げた。挑発的な笑みを浮かべた。


「お互い、また生き残ったナ?」

「……あぁ」


 血塗れの彼を再度確認して、男はため息が漏れた。諦観や悲壮ではなく、それは喜悦が混じっていた。知らずに口角が上がる。


「確かに。あなたとはもう一度、死合うてみたかった」

「そりゃいい、オレも同じダ」


 彼の目の色が変わった。

 笑みを深める彼に、男もますます頬を緩める。

 幾度となく戦場を駆けた。幾多となく血を浴びた。ひたすらに剣を振るった。

 だが、空っぽの心が満たされることはない。

 この剣が届く先に求めるものは本当にあるのだろうか。未だに、手に届かぬのだろうか。

 また、轟音が耳に届く。

 自問する時間は無い。それすら惜しい。

 時代は、終わろうとしているのだから。

 男は刀の柄を握り締めた。


「オマエも、相当狂ってるよなァ」

「そんなこと、言うに及ばずだ。……いや、返してやる。私は正常だ、狂ってなどいない」

「ハッ。いいぜェその眼……ゾクゾクするナ」


 もはや、言葉は不要である。

 彼はゆっくりと大刀を構えた。西国特有の天に掲げるような大きな上段。その一太刀は稲妻の如く速い。

 応えるように、男も刀を構える。右半身を引き、得物を地面と水平にする。かつて、京の市中に名を轟かせた組織がよく使っていた構え。

 剣を構えるだけで、濃密な殺気が満ちた。

 泥の匂い。

 血の匂い。

 鼻孔をくすぐるそれは慣れたもの。むしろ今のふたりにとっては麻薬のような心地で興奮を覚えた。

 くすぶる戦場、これこそが己のあるべき場所なのだから。

 願うことはただひとつ。

 ――存分に、この渇きを潤してくれ。

 剣客は、その魂を振るい立たせた。

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