私が愛した花々
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男やもめ。いい年なのだから再婚を考えたらどうかと周りから勧められるのだが、本人にその気がないのだからしかたがない。公爵家の長男であることを考慮に入れても、それが再婚をする理由にはならない。私は妻を愛していた。それだけを、その思いだけを胸に、これからだって生きていける。
家柄が家柄だから、供のニンゲンくらいいる。街を歩いていた。街。パッとしない、中途半端に栄えている街だ。貴族制が敷かれていると言えばある程度聞こえはいいが、そのじつ、あまり裕福な国家ではないのだ。街中で、無論、あまり目立たないところでの話だが、麻薬が横行していることは阿呆でも知っている。そら見ろ、加えて白昼堂々奴隷商人まで。嫌な言い方になるが、奴隷とは総じて臭いものだ。事実なのだからほかに言い表しようがない――否、もっとソフトな言い方はあるのかもしれないが、いま、それを探そうとは思わない。今日も昼間から「店頭」に出されている。――と、なぜだろう、珍しくもないのに、一人の少女のことが気になった。震えている、がたがたと。たしかに今日は寒いが――あるいは誰に買われるのか不安で怯えているのだろうか。周囲を見渡しても女性の奴隷は少女しかいない。
見るからに仕立てのよさそうな着衣だからだろう。商人は私を認めるとぎょっとした顔をした。それからいかにも調子のよい、ごまをするような口調で、「お買い上げで?」と笑みを浮かべた。儲けしか頭にないのだろう、とことん気に食わない笑顔だ。この男だって食うために商売をしているに違いないのだが、ヒトとしては間違っている気がしてならない。ヒトがヒトを売る。あってはならないことだと思う――私は潔癖すぎるのだろうか。
少女を買おうと決めた。学校に通わせるにあたっての出費は私にとっては痛くもかゆくもないし、だったら独り立ちできる目処がつくまで面倒を見てやればいい――奴隷を目にするたびにそんなことを言い出したらきりがないのはたしかなのだが、これもなにかの縁だ。もはや見捨てることはできない。あらためて「買うぞ」と伝えると、商人はいっそうにこにこと笑い、「こんな臭いガキ、とっとと売り払いたかったんですよ。旦那は抱かれるんですか? それが目的なんですか?」とひどい言葉を吐いた。いっひっひと気色の悪い笑い声を発したりもした。つくづく下品な男だとは思ったものの、さほど気にすることもなく早速少女を連れ帰ることにする。紐も首輪も必要ない。商人に言って外させた。少女はがたがたと震えることをやめない。やはりとにかく寒いのだろうか。それとも私という大人が怖いのだろうか。そのへんはなはだ疑問で、私は少女にどうなのかと正直に問うた。少女は「あっ」と声を上げたがまともに口を動かせないらしく、まもなく大きな両の瞳から涙をこぼし始めた。
少女はようやく、消え入りそうな声で「おじさんもわたしに乱暴するの?」と訊いてきた。その言葉を聞いて、この子は虐待に遭っていたのだと知った。むごい。こんな子どもに手を上げるなんて。「私はそんなことはしないよ」と努めて明るく言い、でも、少女が身をがたがたと震わすのは変わらず――。
どう見ても寂しげな服装なので、露店で毛布を買ってやった。肩に羽織らせ、しっかり包まるように言う。少女はきょとんとした顔で見上げてきた。おっかなびっくりといった感のある「どうして?」をぶつけられたので、「震えているんだ。無視はできない」と答えた。「おじさんは乱暴しないの?」と問われはしたものの、それには返答を寄越さず、「きみはいくつなんだい?」と訊ねた。「十二歳」らしい。そのわりには体躯のサイズがイマイチだなと感じた。かなり小柄なのだ。栄養状態がよくないのだろう。詳しい経緯などわかるはずもないが、少女が過ごしてきたであろうつらい日々のことを思うと心苦しい。そのぶん、いっぱい食べさせてやって、たくさん大きくしてやろうと決心することができた。でっぷりと太ってもらってもかまわないくらいだ。すくすく育ってくれたらそれに勝る喜びはないとすら思う。
「おじょうさん、名前はなんていうんだい?」
「リリーといいます」
私はふけだらけのリリーの頭を、そっとそっと撫でてやった。
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帰宅すると、表を箒で掃いていたいた給仕長の中年女性が、私と手をつないでいる女の子を見て驚いた顔を見せた。でも、すぐにふっと表情を緩めるあたりに、私は彼女の勘のよさと温かさを感じた。給仕長は「その子は『アレ』ですね?」と訊ねてきた。「奴隷」という単語を用いないあたりにやはりまた、温かみを感じた。
「風呂に入れてやってほしい。いいかな?」
「いいですとも。ぴかぴかするくらい、きれいにしてさしあげましょう」
給仕長は頼り甲斐がある。しかし、リリーは私のズボンの後ろを右手で掴んだまま、私の陰に隠れてしまった。「だいじょうぶだよ」と伝えても――身体を震わすばかり。だが、そこは頼もしい給仕長。門柱に箒を立てかけずんずんやってくると、リリーの両の脇に手を差し入れ、軽々と持ち上げてみせたのだった。「ひゃぁっ」と驚きの声を発したリリーのなんとかわいらしいこと。
「おぼっちゃま、この子は立派な女性です。だから、風呂を覗いてはいけませんよ?」
「誰がそんな真似をすると言った?」
「将来のお嫁様候補というわけでございますね?」
「まったく、おまえは馬鹿を言う。私がいくつだと思っているんだ?」
「腐っても、公爵を得る方ではございませんか」
「ほんと、腐っても、だな」
私は「頼む」ともう一度給仕長に告げ、屋敷へと入った。
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リリーのことを不幸だと感じた。まともに読み書きができないのだ。算数だってダメ。両手の指の分だけは数えることができる。それだけだ。私は粘り強く、リリーに勉強、ひいては物事を教えた。そしたら日を重ねるごとになにもかもが上達し、だからもともと頭はよいのだろうと感じさせられた。瞳にも利発な感がありありと窺えるようになり、目に見えて元気になっていった――なっていく。しばらく経つと、私が望んだこともあり、リリーは私のことを「アルバート様」ではなく「アル」と呼ぶようになった。それがまたなんともくすぐったかった。
「ねぇ、わたしはアルのお嫁さんになったほうがいいの?」
「そんなこと、私は望んでいないよ」
「だったらアルは、わたしのことを、どうしたいの?」
「幸せな結婚をして、幸せに子を生んで、幸せに暮らす。それ以外、私はなにも望まない」
十七になったリリーは、おずおずといった感じで、「私……もうできる、よ?」と切り出してきた。たしかにリリーの身体は大人になりつつある。スタイルもいい。長い黒髪もじつに艶やかだ。瞳の色はブルー、深く深く澄んでいる。それらの要素が絡み合ったせいでそうなってしまったのかもしれないが、男友達が増えたことも知っている。少しおませなところもあって、それはそれでよいことだと考える。失敗はたくさんしたほうがいい。経験則だ。
今日もお勉強中のリリーの頭を、愛おしさを込めて撫でてやる。
「私も年をとった」と言い、それからぽかんと上を向き、色鮮やかなステンドグラスのランプシェードを眺めた。「リリー、きみを見つけてから、もう五年にもなるんだね」
リリーは慌てたように「ア、アルはまだまだ若いよ!」と否定してくれた。「わたし、アルのこと、好きだよ? 大好きだよ? それこそ、お嫁さんになってあげてもいいくらいに」
「それはよくないな」私はなおもリリーの頭を撫でる。「きみはきみの人生を歩むんだ。力強く、朗らかに」
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父が亡くなり、公爵を継いだ。妻がいないことを嘆くように言うヒトはまだいる。しかし、私はもう、生涯、独り身でよいと考えている。つまらない一生だとは言わない。ただむなしい――否、多少、悲しい人生だとは思う。そんなふうなある種の諦観を重ねるうちに、私はとうに四十を超えていた。ほんとうにもうすっかりおじさんだなぁと感じるとともに、そのことが殊の外、おもしろく思えた。黙っていてもリリーは健やかに大きくなり、二十歳を迎えた。すっかり秀才と呼ばれるようになった。パーティーを主催して友人を屋敷に呼んだりもする。その際、食事は自分でこしらえる。シェフも驚きの腕前だ。この調子ならきっと、いや、絶対にいい恋人が見つかる。
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リリーがある日、私の書斎に入ってきて「会ってほしいヒトがいるの」と言った。堂々とした様子だった。胸を張っているようにすら見えた。いよいよ来たかと思った。いよいよだ。ほんとうにいよいよ。ついに恋人、あるいは婚約したい男性をを連れてきてくれるのだ。私が待ちわびていた儀式がまもなく始まる。ああ、ほんとうに、ほんとうに、もうそんな日が訪れたのだなぁと、私は――。
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リリーが伴ってきた女性――そう、女性だ――を見て、私は自分でもわかるくらいきょとんとなった。すらりと背が高く、浅葱色のフレアスカートが目を引く。私を見て、なんだかこう、申し訳なさそうににこっと微笑んだ。くっきりとしたえくぼ。愛らしい。頭の中で答え合わせをしても正解は発見できない。間違いなく、初めて会う女性だ。
「アル、このヒトはね、ジャスミンさんっていうの」
ジャスミン。美しい名だ。挨拶が遅れてしまい、だから私は速やかに自らを名乗った上で、ジャスミンに頭を下げた。するとジャスミンは慌てたように身体の前で両手を振り、幾度も頭を下げて「ごめんなさい、ごめんなさい!」と謝罪した。
「ジャスミンさんは学校の先輩なの。乙女だよ! 二十二歳なんだよ!!」リリーはゴキゲンな感じで言った。「きれいでしょ? ねぇ、アル、ジャスミンさん、とってもとってもきれいでしょ?」
それは認める。ショートに整えられた金色の髪。グリーンアイ。気品が感じられ、清潔感にあふれているように映る。
「ジャスミンさんは学校ではいつもパンツルックなの。でも今日、アルに会えるからって、スカートにしたんだよ?」
ジャスミンは「こ、こらっ!」とリリーを叱り、その顔は真っ赤で、私のほうを見ると照れくさそうに唇を噛み、きちっと前で手を揃えて、身を小さくして……。そんな健気な反応を見せられると、鈍感を自負する私でもさすがになんとなく事の次第がわかるというもので――。
「あの、いいかな? ジャスミンさん」
私がそう声をかけると、「は、はいっ!」と弾かれたように背を正した。
「私のことはどこで知ったんだい?」
するとジャスミンは、「むかし、ほんとうに子どものときの話なんですけれど、奥さまとご一緒のところをその、えっと……それで、とても素敵なご夫婦だな、って……」
そういえば、妻がいた頃は、供のニンゲンもつけずによく街を出歩いていたなと思い出す。私はジャスミンに椅子に座るように告げ、彼女が腰を下ろすのを待ってから自らも腰掛けた。リリーはジャスミンの隣に立ちにこにこ笑っているままだ。
「あ、あのっ!」
ジャスミンがいきなり大きな声を出したので、私は目をぱちくりさせた。ジャスミンはまた唇を噛む。両手は膝を掴んだままだ。まったくもって、いじらしい。
「わわ、私っ、アルバート様とお付き合いがしたいんです!!」
これまたほんとうに大きな声だった。私は驚き、だからふたたび目をしばたいた。
ジャスミンは今度はなんだかしょんぼりしたような顔をして。
「ダメ、ですよね……。頭ではわかっているんです。でも、我慢ができなくて、アルバート様と奥方様はとても幸せそうに見えたんです。だから、単純に、羨ましいな、って……」
卑怯です、私……。苦痛でも感じているようにそう言うと、ジャスミンはぽろぽろと涙をこぼした。だからこそ、私はじつに穏やか気持ちになることができて――。
「どうして卑怯なのかな?」
「だって、私はアルバート様にお会いしたいがためにリリーを利用して……」
私はリリーに目を移し。
「リリーにはジャスミンさんが卑怯に見えたかい?」
リリーはにっこりと笑って。
「ううん。とっても素直で素敵な恋だなって思った!」
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私たちはおたがいを名前で呼び合うようになった。ジャスミンは学校を卒業したらぜひ私の家に入りたいのだと言う。でもそのたび、「ダメ、だよね……」と暗い顔をする。声のトーンまで沈んでしまう。そんな様子のジャスミンを慰めるすべを、私は持たなかった。仲良くなったのはいい。ただ、仲良くなっただけで終わりにしたい。亡き妻のことを忘れられないのではない。若い女性を付き合わせることに罪悪感を覚えた。それを話した。するとジャスミンはとても悲しそうにした。「そんなこと、気にしなくていいのに……」と呟くと、眉根を寄せ、いまにも泣きだしそうな――。
私の自慢の庭。私自身が手入れをすることもある。秋の朝の日差しは柔らかく、露を付けた色とりどりの花弁は宝石をちりばめたように輝いている。
私はベンチから立ち上がった。ふぅと吐息をつくと、突拍子もなく、情けない思いに駆られた。私を好きだと言ってくれる女性のことを私は冷たくあしらおうとしている。そんな自分を許したくない。許したくはないのだが――。
ジャスミンは腰を上げると、勢いよく、私に抱きついてきたのだった。「嫌ならすぐに突き放して。二度と私に触れないで」と言う。もう泣いている、泣いているのがよくわかる。「きみのことは好きだけれど」「だったらどうして抱き締めてくれないの?」「年が違いすぎる」「そんなのどうだっていい」「きみはきれいだから」「そんなこともどうだっていい」「ジャスミン……」「お願い、アル、私はあなたがいないと、もう生きてはいられないの……」
ジャスミンを抱き返すこともなく、私は曇天を仰いだ。
デイジー、きみはどう思う? どう考える?
私は再婚すべきなのだろうか。
してもいいのだろうか。
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ジャスミンは基本的にも強気一辺倒で活発な女性だ。一度火がついたら止まらないらしい。自宅に来てほしいと私のことを招いた。「目的は?」と訊ねたところ、「婚前のご挨拶」と笑った。「だったらやめよう」と首を横に振ったのだが、「もうダメ。決定事項っ」と手を引かれてしまった。私は一応、公爵だ。だからだろう、ジャスミンのご両親はとても恐縮していた。どう迎えたらいいのか、どう振る舞えばいいのか、まるでわからないといった感じだった。私がほんとうにやってくるとは思いもしなかったのだろう。
長居をすることでご両親に迷惑をかけてはいけないと思い、早々と引き揚げようとした――のだが、玄関に向かおうとしたところで、ジャスミンに「待って待って待ってください!」と引き止められた。後ろから腰に腕を巻きつけられたのだ。しかたなく私は回れ右をして、申し訳なさそうな面持ちのご両親とふたたび向かい合った。
ジャスミンが左腕にしなだれかかってきた。「おとうさん、おかあさん、ねぇ、私たちって、すごくお似合いだと思わない?」と笑った。ご両親は明らかに戸惑い困っている。お父上に至っては、「よ、よしなさい」とたしなめもした。しかしジャスミンは聞く耳を持たず、「私がどれだけ望んでも、このヒトは首を縦には振ってくれないの」と言い、「ひどいのよ、ほんとうに。アルバート様は」と続けた。
「アルバート様、もしよろしければ、お答えください」切実そうな眼差しで、お母上が見つめてきた。「娘のどこがいけないのでしょうか……?」
そう言われても、たしかな返答ができない。そもそも私はジャスミンが嫌いではない。だったら、どうして拒む? 拒むのだろう……。そのとき、ふいに、そのことが不思議に思えた。不思議に思えてしかたがなかった。ぐちゃぐちゃと言い訳ばかりを考えるくらいならいっそのこと、だったら――。
「私には立場がある。きっときみに苦労をかける」
「わかってます」
「不自由さを覚えることもあるに違いないんだ」
「それも、わかってます」
「また結婚するのか、私は……」
一度はらはらと流し始めた私の涙は、どうしたって止まらなかった。
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教会で挙げた式は厳かなものになった。いつもは自分の意思できちんと立ち、なにかのトラブルの折にも自分の足でしっかり乗り越えるのに、今日のジャスミンはがちがちに緊張していて、誓いの口づけの際も、私がそっと顔を近づけたところで、ぶつかるようにして唇を重ねてくれた。たがいの歯がごつんとぶつかって少々痛い思いをしたのだが、思わぬアクシデントで気が楽になったのか、にっこりと笑ってくれた。いままで見たなかで最も魅力的でまぶしい笑い顔だったように思う。
ジャスミンに促されるまま振り返り、出席者のほうを向き、私たちは手をつないで両手を上げてみせた。ジャスミンは「やったーっ!」と声を張り上げたくらいだ。「ほら、アルも」とせがまれ、私も「やったーっ!」――ジャスミンは笑った。見つめ合うと、またえくぼ、この笑みをずっと見られるのなら、この先の人生も希望を抱いて歩んでいける。
デイジー。私はきみのことを忘れたりしない。きみがくれた喜びも、きみが残した悲しみも、絶対に忘れたりしない。きみが私の妻だったという事実はなにがあってもずっと変わらない。でも、できることなら、きみにもジャスミンのことを好きになってもらいたい。どうか私たちのことを祝福してほしい。
祝ってくれる親戚、友人らのなかに、リリーの姿が見える。彼女は彼女で恋人を連れている、その彼が泣いているのはどうしてだろう、知っている、途方もなく涙もろいのだとリリーは言った。そんな優しいところが好きなのだとも話していた。いい奴だ。彼が真摯に頼み込んでくるなら、私は「親」として、リリーのことをくれてやろうと決めている。
ジャスミンと一緒に、私はまた両手を上げる。
鳴りやまぬ拍手、「おめでとう!」の声、あるいは指笛。
二度目の結婚式も、悪くない。