記憶の引き出し
僕には、みんなが当たり前に持っている「過去の記憶」がない。僕が記憶から思い出としてすぐに取り出せるのは、この32年でたったの3つだけ。
1つ目は、確か僕が小学校3年生だった時のこと。今でも鮮明によみがえる嫌な記憶。体育の授業中、担任の先生から尋常ではない剣幕で罵倒されている僕。僕がそこまでひどく切れられている理由が何なのか、僕にはまったくわからない。僕は晒し者。何が悪いのかもわからず、何に謝ればいいのかもわからず、ただ謝るよう脅迫される。クラスメイトたちの僕を蔑んだ目。僕はなぜみんなの前で、これほどひどく怒られているんだろう。その恐怖と屈辱感は、ずっと忘れたいと思っているのに、ずっと消えたことがない。
2つ目は、大学4年生のある夏の日のこと。友達と富士山の麓に向かい、夜中から富士山の七合目を目指して登り出した僕。七合目に到着すると、一面に広がる大きな岩。疲れた身体を解放するように寝転がる。年齢的には大人の僕が両手を大の字に広げても、その広さにはまだ余裕がある。じんわりあたたかい。大きな岩のベッド。今まで感じたことがない、僕を優しくたおやかに包み込むぬくもり。なんてすばらしいんだ。宇宙の偉大さを頭のてっぺんからつま先まで全身で感じる。
そこに現れた御来光。細い光の糸が瞬く間に強い束になる。僕の目からボタボタと落ちる涙。宇宙の中の地球に僕がいると体感する。その時僕が触れていた柔らかな岩肌の感触は、いつでも鮮明によみがえる。これは、どちらかと言うといい思い出だ。
3つ目は、僕がデブだったということ。実はこのことは、僕の記憶の中にあるわけではない。幼い頃の僕は「将来は立派な相撲取りになる」と言われるほど太っていた。らしい。親がよくそう言うから、覚えているというよりは何度も聞いているうちに幼い頃の自分のイメージとして覚えたものだ。ただ、僕のことではあるが、あまりにも恥ずかしい過去だから、当然誰にも打ち明けたことはない。
だから、僕にはみんなと共有できる思い出が何もない。みんなが当たり前のように語り合う、過去の記憶。私の小学校ではこんな給食が出て、とか、クラスの誰々が、とか、修学旅行はこんなことがあった、とか。なぜ、みんなはそんな昔のことを、大人になった今でもたくさん覚えていられるのだろう。いつも、みんなが話すその様子を聞きながら、僕はひそかにそう思ってきた。
おそらく、覚えていない僕の方がおかしい。そう自覚し始めたのは、大学に入った頃くらいだったような気がする。僕は友達と遊んだことも話したことも、過去になればなるほど、そのほとんどを思い出すことができない。過去の出来事を思い出せるようにと、自分なりに工夫したことだってある。写真を撮ってみたり、日記をつけてみたり。
だが、写真の中に映る景色はおそらく僕が撮ったはずの風景なのに、誰が撮ったものなのかがわからない。写真の中に収まった僕は僕であるはずなのに、本当に僕がそこにいたのかどうか、僕にはそれもわからない。