2.悪役令嬢
エリザベータ・ヴィ・フルーナエント。
ここノヴァリア王国における上級貴族の中でも有数の名家、フルーエナント公爵家。その現当主であるジョシュア・ヴァン・フルーナエントの一人娘だ。母を早くに亡くしたが、公爵領ですくすくと成長し、今や社交界デビューも果たした15歳。来月には王立ウォールド学園への入学を控えている。
父であるフルーナエント公爵は王国元老院の一員であり、国内においては家柄のみならず政治的にも権力を握っている。そんな公爵家の娘であるエリザベータは、同い年であるノヴァリア王国第二王子の許嫁筆頭候補と目されている。
また貴族の血筋を持つ彼女は、他の貴族同様に魔力が高い。10歳にして魔法の才能を開花させると、その膨大な魔力保有量も相俟って魔術師としての頭角をめきめきと現している。ウォールド学園はある基準以上の魔力保有者でなければ入学できないが、そんな学園の方から是非にと乞われて入学が決定した。いわば入学前から既にエリートなのだ。
美貌と血筋、知性と魔力。その全てを兼ね備え、手懐ける存在。それがエリザベータという少女である。
……という話をフルーナエント公爵から聞かされ、江里菜は戦慄した。エリザベータの存在の大きさや地位の重要性にではない。もっと根本的な、彼女の、あるいはこの世界の真実に思い当ってしまったからだ。
エリザベータ・ヴィ・フルーナエント。彼女は、江里菜が生前にプレイしたことのある恋愛シミュレーションゲームに出てくるキャラクターだったのだ。
『星降る花園で逢いましょう』というタイトルのそのゲームは、ファンから『星園』と呼ばれていた。主人公であるヒロインが魔法学園に入学し、様々なイケメンたちと恋に落ちる乙女ゲームだった。
その中で、エリザベータは特定の攻略対象のルートにて主人公の邪魔をする恋のライバルキャラ。しかも主人公につらく当たるタイプの、いわゆる「悪役令嬢」である。
鏡の中の顔を見ただけでは、あるいはエリザベータという名を聞いただけではわからなかったが、公爵の話を聞くにつれてどんどんシナリオの記憶が蘇ってきた。
「――そして入学前に領の生活を楽しみたいからと馬で遠乗りをしたら、落馬してしまってね。三日三晩目を覚まさず、ようやく目を覚ましたのが今日だったというわけだが……何か思い出したかい?」
「い、いいえ……すみません」
期待を込めて向けられた公爵の視線に、首を振って肩をすぼめる。「そうか、仕方ない」と苦笑した公爵の声に落胆の色が滲んでいて、更に申し訳ない気持ちになる。
思い出したといえば思い出した。だがそれは、エリザベータとして過ごした記憶ではない。江里菜自身が『星園』をプレイしたシナリオの内容である。しかもゲームのシナリオは、魔法学園への入学当日から始まる。つまり1ヶ月後に入学を控えた現在は、ゲームの時間軸よりも前なのだ。
エリザベータの素性は、ゲームの中で語られた内容と、のちに発売された設定資料集、人気があって発売された追加シナリオのファンディスクに出てくる部分は知っている。しかしそんなことを口にできるはずもなく、江里菜は口を噤んで首を横に振る他なかった。この世界がゲームの中のフィクションだなどと、どうして口にできるだろう。頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。自分自身、己の頭がどうにかなったんじゃないかと混乱しているのだから。
「思い出せないのであれば致し方ありますまい。それに今後、今までと同じ生活をしていれば、何かの拍子に記憶がお戻りにならないとも限りません」
「ああ、そうだな……わかった、ありがとうバークレー先生。済まないがこのことは……」
「ええ、承知しております。他言無用ですな」
「恩に着る」
バークレー医師の言葉は大した励ましにもならなかっただろうが、公爵は鷹揚な笑みを浮かべて頷いた。医師に箝口を念押しし、医師も心得たように頷く。考えてみれば、娘が記憶を失い、あまつさえ己は別人だと主張しているなど、外聞に差し障ること甚だしい。まして公爵家は国内でも名の通った大貴族で、公爵は元老院のひとりでもある。政敵も多い中、余計なスキャンダルは避けたいのだろう。
頭を下げてバークレー医師が辞去し、メイドさん(仮)(おそらく仮ではない、本物のメイドさんだ)が彼を見送っていく。連れ立って退室した背中を見送ってから、公爵は江里菜へと向き直った。
「エリー……いや、エリナ嬢」
「どうぞエリーと呼んでください。私もその方が耳に馴染んでいます」
改まって「エリナ嬢」などと呼ばれたことはないので、堅苦しくこそばゆい感覚だ。先ほどまでは公爵にエリーと呼ばれることに違和感を感じていたけれど、エリナ嬢よりはマシだと思いなおす。
江里菜の申し出に、公爵は素直に頷いて「ではエリー」と仕切りなおした。こちらを見つめる視線は真摯で、どこか寂しげだ。
「君の言葉は、にわかには信じがたい。正直に言うと、心の中にはまだ疑いが残っている」
「ええ、それは理解します」
ぽつりと打ち明けられた公爵の言葉は率直で、それ故に嘘がない。彼にしてみたら、数日間意識不明だった娘がようやく目を覚ましたと思ったら、自分は別人だなどと意味不明の主張を始めたのと同様だ。すぐに信じて納得することなど不可能だろう。江里菜自身、己の身に起こった事態を信じ切れていない。目が覚めたら全てが夢だった、という顛末を期待しているのだ。一向に目が覚める気配がなく、その期待がどんどん虚しくなっているけれど。
「だが、きっと私より混乱しているのは君の方なんだろうね。目を覚ましたら自分が全く知らない世界にいるというのは、きっと恐ろしいことだろう」
「公爵様……」
厳密には全く知らないわけではないが、そういうことにしておこう。それに今後の展開を考えれば、事前にこの世界の基礎知識を知っていたのはありがたい話だ。これからエリザベータの身に起こり得る顛末を、先読みできてるのだから。
「君がエリザベータとしての記憶をいつ取り戻すのか、私にも君にもわからない。だが、ひとつだけ覚えておいてほしいことがある」
江里菜の内心には気づかず、公爵は真っすぐな瞳でこちらを見つめてきた。瞳に浮かぶのは労りと慈愛。優しい視線の色には、妙に既視感がある。
「エリナの記憶しかない君にとって、私は見知らぬおじさんだろう。だが私にとって君は娘だ。記憶が戻らずとも、君を娘として愛していることに変わりはないんだよ」
ああ、思い出した。お父さんとお母さんの目だ。28年間、大切に育ててくれた両親と、同じ目で江里菜を見つめている。
喧嘩をしたこともあった。煙たいと思ったことだって。けれど、父も母もいつだって自分の味方でいてくれた。親という存在は時空を超えても変わらないのだと実感させられる。
お父さんとお母さん、どうしてるだろうな。私が事故に遭ったって聞いて、どれだけ悲しんだだろうな。公爵の顔に父母の姿が重なって、思わず目頭が熱くなる。そんな江里菜の顔を見て、公爵は慌てたように身を乗り出してきた。
「どうしたんだエリー、どこか痛いのか?」
「いえ……いえ、違うんです……」
俯き、目尻に浮かんだ涙を拭う。江里菜にとって父母が大切な存在であったように、エリザベータにとってもこの公爵は大切な父であっただろう。落馬して意識が薄れていったとき、エリザベータはきっと父のことを考えたはずだ。そして公爵も、目を覚まさない一人娘のことを案じ、心休まらぬ三日三晩を過ごしたことだろう。
死の間際に瀕した恐怖は、今でもはっきりと覚えている。自分の人生はきっと、あそこで終わってしまったのだ。実感はないまでも理解はできて、江里菜は覚悟を決める。こうしてエリザベータの身体に生を受けたというなら、ここからが第二の人生だ。もう二度と死にたくないなら、エリザベータとして生き抜く決意を固めねばなるまい。
唇を噛み、やや乱暴に目元を擦る。そして覚悟を双眸の奥に光らせ、決然と顔を上げて公爵を見つめ返した。
「私にはエリザベータの記憶はありませんが、この肉体は貴方の娘に間違いありません。ですから、どうかこれからは貴方を父と呼ばせていただけますでしょうか」
立ち止まってはいられない。一度死んで、再び命を授かったのなら、前に進まねば。意志を抱いた胸に手を当て、その手をぎゅっと握りしめる。私はこれから、藤沢江里菜ではなくエリザベータとして生きる。エリザベータに生まれ変わったという仮定を受け入れ、この世界を現実として生き抜いてみせる。
「……ああ、もちろんだ」
江里菜の覚悟を理解したのだろう、公爵は泰然と頷いた。彼もきっとまだ納得できていない部分は大きいだろう。しかし江里菜が固めた決心に、寄り添ってくれるつもりなのだ。彼もまた、エリザベータの父であるから。
「さしあたっては、現実的な話をしましょう」
気持ちを切り替えて真顔で申し出た江里菜に、公爵も居住まいを正してひとつ頷いた。
「先ほど、入学は1ヶ月後と仰いましたよね?」
「その通りだ」
「エリザベータとして社会に出るには、私はこの世界のことを何も知らなすぎる。ですので入学までの1ヶ月間、この世界のこと、社会構造、必要な人間関係に礼儀作法など、徹底的に学ぶ時間をいただきたいです」
「もちろんだよ。むしろ私からもお願いしたい。私が協力できる部分は惜しみなく手を貸そう」
「恐縮です」
軽く会釈した江里菜を見つめ、公爵はふっと目元をやわらげた。苦笑にも似た笑みは、幼子を見守るがごとく穏やかだ。
「困ったことがあったらすぐに言いなさい。どんな些細なことでもいい。わかったかい、エリー」
「はい……おとうさん」
優しい口ぶり、優しい気遣い。エリザベータを心底愛しているのだとわかる、丸っきり父親の顔。公爵の心配りが痛いほど身に染みて、腹をくくった。
自分のためだけでなく、この父のためにも。私はこの瞬間から、エリザベータ・ヴィ・フルーナエントとなる。