1.藤沢 江里菜
藤沢江里菜。日本に生を受けた28年間の人生は、通勤途中の交通事故という形で、あっけない幕切れを迎えた。江里菜が覚えている最後の光景は、会社近くのアスファルトに広がる己の血の色だ。
ごくありふれた、平凡な、けれど幸せな人生だったと思う。不慮の事故になど遭わなければ、これからもささやかで小庶民的な人生が続いていたのだと思う。
けれど現実に事故は起こり、江里菜は死んだ。死んだ、はずだ。それなのに何故か彼女の意識は現実を認識しており、そしてその現実は、彼女がよく知る日常とは大きくかけ離れていたのだ。
◇
豪奢な意匠がふんだんに施された天蓋付きベッドに身を横たえ、江里菜は袖をまくった腕をシーツの上に投げ出している。ただしその腕は、彼女自身のものではない。青ざめて見えるほど色が白く、細く、繊細で、労働など一切知らない高貴な腕だ。
ほっそりとしたその腕に指を当て、白衣の男性がじっと脈を計っている。年齢で言えば江里菜の父と同じくらいだろう。やがて男性は安堵したように微笑を浮かべ、白い腕から指を離した。
「脈も安定しております。恐らくもうご心配には及ばないかと」
「そうか、それはよかった」
口ぶりから、白衣の男性は恐らく医者。その言葉を受け、傍らに佇んでいた人物もほっと息を吐いて笑みを浮かべた。目を覚ました江里菜の部屋に飛び込んできて、彼女を「エリザベータ」と呼んだ男性である。その背後でこちらの様子を窺っているメイドさん(仮)も安心した様子だ。
ベッドを取り囲む3人は一様に和やかな微笑を浮かべて「よかったよかった」と言いたげな顔をしているが、当の江里菜本人は何も良くない。今ここはどこで、この状況は一体何なのか、疑問は一切解決されていないのだ。
「あ、あの……」
「うん、どうしたんだいエリー。まだ気分が優れないか?」
医者に代わってベッド脇の椅子に腰を下ろした男性が、優しいながら気遣わしげな視線を向けてくる。身に着けているのは仕立ての良いスリーピースだ。生地には上品な光沢があり、体型にもぴったり合っているところを見るに、吊るしではなくオーダーメイドのスーツだろう。ベッドといい室内といい豪華で高級感があるし、恐らく彼がこの家の主人だ。
などと、男性をとっくり観察してしまったのは半ば現実逃避である。そもそも男性も医師もメイドさん(仮)も、顔立ちからして日本人ではない。なのに普通に言葉が通じている。また先ほどから男性は江里菜を「エリー」と呼んでくることにもむずむずしてしまう。彼はエリザベータの愛称としてエリーと呼んでいるのだろうけれど、江里菜も昔から家族や友人たちに「エリ」「エリー」と呼ばれてきた。全てが非現実の中で、愛称だけが妙に耳に馴染む。だからこその違和感である。
言い淀む江里菜を、男性は急かすこともせず見守っている。金色の睫毛に縁どられたアイスブルーの瞳は、穏やかにこちらを見つめてくる。さっき鏡の中からこちらを見つめ返してきた瞳とよく似た色だ。
現状を理解できないのは誰もが同じ。もしや、との疑念はあれど、どう口にしていいのかもわからない。悩みつつも、江里菜は慎重に口を開いた。
「その……信じてもらえないかもしれないんですけど……」
「何だい? 随分とよそよそしい物言いじゃないか」
「そ、それが……私は『エリザベータ』ではない、ん、です……」
徐々に小さくなる語尾は、最後はほとんど聞き取れなかっただろう。その場に流れる沈黙。ちらりと窺えば、男性は呆気にとられた表情でこちらを見つめていた。しまった、言い方を間違えただろうか。しかしこれ以上はっきりと状況を説明することは江里菜にはできない。
「……やはりまだ事故のショックが残っているんだね、エリー。しばらくゆっくり休んで……」
「い、いえ! 本当なんです、聞いてください……!」
たっぷりの沈黙の後、男性はゆっくりを首を振りながら立ち上がろうとした。その手をがしっと掴み、思わず必死に言い募る。男性は驚いた表情でこちらを見下ろし、視線で医師を振り返った。医師もまた驚いた表情で男性を見つめ返し、静かに首を横に振った。その反応をどう受け取ったのか、男性は逡巡しながらも再び腰を下ろす。
「……君の言いたいことがよくわからないよ、エリー。君は紛れもなく私の娘、エリザベータだろう」
やはり彼はエリザベータの父親だったか。推測が的中したことに納得しつつ、娘を労わる視線を向けてくる彼に再び首を振ってみせる。
「いいえ……身体は確かにエリザベータかもしれませんが、私は……私の意識は、違うんです」
「ほう……? では、君は一体」
「私は、藤沢江里菜と申します」
はっきりと、思い切って己の名を名乗ると、エリザベータの父は気圧されたように口を噤んだ。医師も、メイドさん(仮)も、何も言葉を発さずに状況を見守っている。
こうなれば洗いざらい打ち明けてしまおう。ほとんどやけくその勢いで、江里菜は己の素性と自身が把握している状況を述べ立てた。思いつくままの言葉に脈絡も何もあったものではなかったが、3人は口も挟まず黙ってこちらの主張を聞いてくれている。
「……そして、会社に出社しようとしていたところで交通事故に遭い、気が付いたらここで目を覚ましていたんです。何故私がこの身体を持っているのかはわかりませんが、つまり私はエリザベータではないんです」
「ふぅむ……」
一通りの主張を聞いたエリザベータの父は、腕を組んで考え込んでしまった。指先で顎を擦り、しきりに首を捻っている。
「君の主張はわかった。納得できたわけではないが、理解はした。その上で質問してもいいだろうか」
「はい、かまいません」
「まず君の名だが、変わった響きだね。聞いたこともないな……フ、フジェサワ?」
「ふじさわ、です。えりなで構いません、そちらがファーストネームです」
「ではエリナ嬢。君はニホンという国の出身だというが、そんな国は聞いたことがないぞ」
「え……あの、英語で言うとジャパンですが」
「いや、知らないな。というか英語とは? どこの国の言葉だい?」
エリザベート父の疑問は、少なからず衝撃的なものだった。日本という国名を知らない上、英語が通じないというのは一体どういうことだろう。そもそも江里菜はいつも通り普通に日本語を話しているつもりだったが、もしかして違う言語で会話しているのだろうか。だが江里菜は、自慢ではないが英語の成績があまり芳しくなかった。他の外国語を勉強したこともない。
「それと、『コウツウ事故』とは何だい? 何か事故に遭ったことはわかったけれど」
「ああ、それは、車に轢かれたんです」
「馬車にかい?」
「ば、馬車!? 自動車ですが……」
「ジドウシャ? それは一体……?」
怪訝な表情でエリザベート父が問い返してくる。一連の質問の応酬に、江里菜の嫌な予感はどんどん高まっていく。日本を知らず、英語も理解されず、馬車が走る国。だが男性も、医師も、メイドさん(仮)でさえも仕立ての良い服を着て、顔立ちは欧米人のように見える。言葉だって相互に通じるのに、話の内容が決定的にすれ違っている。そんな国、この世に存在するのだろうか。
「ふむ……話を聞いていると、どうにも君の暮らしていた国はわが国とはかけ離れているように思う。それでいて、筋道は通っているが……バークレー先生はどう思う」
「ええ、驚くべきことです。それと公爵閣下、私の中にひとつの仮説が生まれたのですが、よろしいでしょうか」
「ああ、言ってみてくれ」
バークレー医師に問われ、鷹揚に頷くエリザベート父。そんな彼が「公爵」と呼びかけられたことに江里菜は内心で度肝を抜かれていた。公爵って、あれだよね、貴族だよね、と頭の中の知識を呼び起こす。戦後すぐに華族という身分がなくなって以来、日本に爵位は存在しない。やはりここは日本ではないのだ、と密かに確信を深めた。
「お嬢様は、落馬された際に頭を強く打ったようでした。頭部に強い衝撃を受けた人間は、しばしば記憶に混乱をきたしたり、記憶を失ったりするといいます」
「ほう、そんなことが」
「ええ。加えての推論ですが、人間は前世の記憶を持つ者が存在するとか。お嬢様ももし、前世の記憶をお持ちであったとしたら」
「なるほど……つまり、記憶が失われた娘の頭に、前世の記憶がそっくりそのまま蘇った、と」
「あくまで私の考えですが」
公爵とバークレー医師が顔を見合わせて頷き、揃って江里菜に視線を送る。物問いたげな視線を向けられたところで、江里菜にはどうにもできないのでさりげなく視線を外した。
しかし先ほどのバークレー医師の発言。失礼ながら、医者とは思えない飛躍した論理ではなかろうか。記憶喪失はまだしも、前世の記憶だなんてほとんど小説やドラマの世界の話じゃないか。そんなことを考えて呆れていたのが伝わったのか、バークレーが小さく咳払いをした。
「お嬢様、いえ、エリナ様。エリザベータ様としての記憶は、本当に一切お持ちでないのですね?」
「え、ええ、はい……そうですね」
改めて確認されても、頷くほかない。肉体は確かにエリザベータのものかもしれないが、記憶はどこまでも藤沢江里菜のままだ。
江里菜の返答に、公爵は気落ちしたようだった。彼にしてみれば娘が突然わけのわからない主張を始めたも同然なのだから、その内心は察して余りある。
「公爵閣下、ここはエリナ様にエリザベータ様のお話をして差し上げてはいかがでしょうか。ほんの些細なきっかけでも、記憶を取り戻しになる可能性もございます」
「ああ、それは構わないが……」
言いながら、公爵はちらりと江里菜に視線を向けてきた。こちらの顔色を窺うアイスブルーの瞳に、しっかりと頷きを返す。
「はい、私もエリザベータ……さんの、話を聞かせてほしいです」
「そうか……では」
そう言って切り出された「エリザベータ」の話に、この後江里菜は驚愕することとなる。