10.放課後
「レーナ様、放課後のご予定は?」
「ひぇえ!?」
アイリス達と放課後にカフェテリアでちょっとした女子会をした、翌日のこと。取り巻きの人垣を割って真っすぐ歩み寄ってきたエリザベータに、レーナは素っ頓狂な悲鳴を上げた。その反応に思わずエリザベータも仰け反りそうになる。社会人時代に培った平常心でどうにか持ちこたえ、完璧な令嬢スマイルでもう一度「放課後のご予定は?」と繰り返す。
「ひゃいっ! い、いえ、あの、何もありませんけど……」
「まぁ、ちょうどよかったわ。放課後ご一緒していただきたいところがありますの」
にこ、と笑顔で申し出れば、レーナはぽかんと口を開け、どころか茫然とした表情でエリザベータを凝視している。何かまずいことでも言っただろうか、と訝しんだエリザベータが再び口を開きかけ、だが先に声を発したのは彼女ではなかった。
「エリザベータ様!? 何を仰ってますの!?」
「こちらスターシア子爵令嬢ですわよ!?」
悲鳴に近い声を上げたのは、先ほどまでエリザベータを取り囲んで「これから庭園でお茶会でも」と口々に誘ってきた貴族令嬢たちだ。爵位は侯爵家から男爵家まで様々であるが、今は皆一様に必死の形相でエリザベータに詰め寄っていた。
「ええ、存じてますわ。それが何か?」
対するエリザベータは平然と頷き、すっとぼけた仕草で首さえ傾げて見せる。これに面食らったのは令嬢たちだ。恐らく彼女たちは、レーナの境遇を知っていて、エリザベータに近づかせまいとしているらしい。それほどにレーナの生い立ちは貴族社会において、家名の汚点と見られているのか。ゲーム中で「自分は貴族の中の貴族だ」と言い張っていたエリザベータが、レーナを蔑みきつく当たっていた理由が垣間見えた。だからといって真似する気にはならないが。
「で、ですから……スターシア子爵家とはあまりお付き合いなさらない方がよろしいですわ」
「そうですわよ、エリザベータ様のお名前にも泥が付きますわ」
「わたくしたちはエリザベータ様のことを想って申しておりますの」
おべっか半分、スターシア子爵家への嫌悪感半分の、引きつった笑顔でどうにかエリザベータを説得しようと試みる令嬢たち。レーナの顔が悲痛に歪み、だが何も言わずに俯いてしまう。彼女はきっとこれと同じことを、あるいはこれ以上の中傷を浴びながら育ってきたのだ。
じわ、と腹の底に耐え難い苛立ちが湧く。
「彼女はエリザベータ様がお声がけなさるには不釣り合いですわ。ね、皆様?」
「その通りですわ。ですからわたくしたちと参りましょう……」
「――よくわかりましたわ」
ゆっくりと口にした声は、思っていたよりも低く響いた。下を向いたレーナの肩がびくりと震え、取り巻きの令嬢たちの表情がわずかに明るくなる。だがエリザベータの顔を見た彼女たちは、気圧されたようにじわりと身を引いた。極力感情を表に出さないよう心掛けながら取り巻きたちを見回す。無表情を保っていなければ令嬢の皮をかなぐり捨ててしまいそうだ。
「え、エリザベータ様……?」
「わたくしがレーナ様をお誘いしたところを、皆様ご覧になっていましたわよね? スターシア子爵令嬢であることもわかっております、と申しましたわ。そのわたくしに向かって何を言うかと思えば、泥が付きます、ですって……?」
「ひっ……」
ゆっくりと、はっきりと、低い声で言い募れば、先ほど「名前に泥が付く」と放言した生徒が怯えた様子で息を詰まらせた。エリザベータが静かに怒りを滾らせていることを、遅ればせながら察したのだろう。他の令嬢たちも一歩、また一歩と後退りする。
「レーナ様とお付き合いするなと、不釣り合いだと仰いましたの? わたくしのことを想って? 一体何の権利があってわたくしの交友関係に口出しなさっているのかしら」
人の気も知らないで、とエリザベータの怒りは冷めやらない。何故なら、エリザベータにとってレーナを冷遇することはすなわち死に至る危険があるからだ。この世界が『星園』のゲーム世界である以上、エリザベータの命運はレーナとフレデリック両名との関係構築に左右されてしまう。だからこそレーナと良好な友人関係を築き、魔力暴走による死を回避しようと躍起になっているのに、何を勝手に険悪な関係に持っていこうとしてくれているのだ。
そんなエリザベータの内心を他人は知る由もないが、エリザベータが本気で怒っていることは伝わったらしい。仮にも貴族の家柄で育ち、社交界で様々な人間関係を目の当たりにしてきた令嬢たちだ。公爵令嬢を、この国におけるトップクラスの公爵家を怒らせる、その意味を分からない彼女たちではない。エリザベータに詰め寄った覇気はどこへやら、皆が皆顔色をなくして唇を震わせている。
「も、申し訳ありません……」
「わたくしたち、その、そんなつもりじゃ……」
先ほどとは打って変わって消え入りそうな声で言い訳を口にする令嬢たち。ぶるぶると震える少女たちの姿に、ふと我に返った。流石に大人げなかったかしら、と良心の呵責に苛まれて反省する。少女たちの常識によれば、レーナこそが異端の存在なのだ。15年間生きてきて培われた知識が、貴族としての教育が、レーナを拒んだとて、彼女たちを責めるのはお門違いだ。
静かに大きく息を吸い、吐く。前世で培ったアンガーマネジメントを心に想起しながら、エリザベータは令嬢たちに再び微笑みかけた。先ほどまでの威圧感をなるべく消すよう努めながら。
――ただし、令嬢たちにとってはさっきの怒りの表情から一転、急に穏やかに微笑されて余計に怯えさせられる羽目になった。直前まで本気の怒りの矛先を突き付けられた相手から、今度は笑みを向けられる。笑顔が感情を覆い隠しているのは明白で、15歳の少女たちが震え上がるのも無理のない話だ。
「わたくしに謝っていただく必要などありませんわ。謝罪ならばレーナ様に」
そしてこの一言である。経験則や知識のないエリザベータには理解が及ばないが、彼女が考えるよりもずっと、令嬢たちはレーナに対して反発を抱いている。ゲーム中で過剰に彼女を冷遇していた筆頭はエリザベータだったけれど、この世界においては他の貴族令嬢たちだって同じくらいレーナを蔑視している。
そんなレーナに、謝罪しろと言われた。屈辱的な一言を、よりにもよってエリザベータに。並みの相手に言われたならば鼻で笑って済ましてしまうけれど、相手がフルーナエント公爵令嬢ならばそうもいかない。
「い、いえ! 私は気にしていませんから、謝罪など不要です!」
慌てたのはレーナだ。彼女にしてみれば、令嬢たちが口にした言葉はどれも聞き慣れたもの。己の生い立ちが貴族社会の間で笑いものにされているのは知っているし、仕方ないとも諦めている。継母にすら無視されて育ってきた妾の子。それを名門中の名門であるエリザベータに庇ってもらうなど、本来であれば起こり得ない事態だ。
そんな貴族社会の機微を知らないエリザベータの感想といえば、「なんて優しい子なんだろう、さすがはヒロインね」程度のものだった。口に出したりはしないが、ぱっと表情を明るくする。
「まぁ、なんてお心の広いお言葉。レーナ様は本当に綺麗な心をお持ちなのね」
「そ、そんな、とんでもないです」
エリザベータの言葉に、恐縮した様子でレーナが首を振る。控えめな態度に好感を持つ反面、そう強いられてきた彼女の環境に歯がゆさも感じる。ゲーム中では貴族社会の慣習に染まりきってレーナにきつく当たっていたエリザベータだが、自分はああはなりたくないものだ。見ている側も気分のいいものではない。と、今まさに差別的立場に立たされていたレーナを見て、改めてそう感じた。
「では参りましょうか、レーナ様」
「はい、エリザベータ様」
「皆様ごきげんよう、また明日」
「……ええ、ごきげんよう、エリザベータ様」
戸惑いを隠しきれない令嬢たちに見送られながら、エリザベータはレーナと連れ立って教室を後にした。廊下を進めば、すれ違う生徒たちが2人を見て一様にぎょっとした表情になった。何事かをひそひそと話し合う者たちもいる。だがエリザベータがそちらに視線をやれば、顔色を青くしてさっと顔をそむける。気まずいなら噂などするな、とエリザベータは憤慨しきりだ。
「あの……エリザベータ様? よろしかったんですか?」
隣からおずおずとレーナが問うてくる。彼女の立場で見れば、自分の家のゴシップにエリザベータを巻き込んでしまった形だ。まさかエリザベータが生命の危機を回避しようとしているなどとは考えもしない。
案じるレーナに、エリザベータはにっこりと微笑んでみせる。先ほど教室で見せた感情を覆い隠す笑みではなく、本心からの笑顔。
「昨日はレーナ様とお話しできて、とっても楽しかったんですのよ。だって久しぶりに、フルーナエント公爵家の娘ではなく、エリザベータとお話ししてくださったんだもの」
「エリザベータ様……」
ハッとした表情でレーナが言葉を詰まらせる。自分とは違った意味でエリザベータが窮屈な思いをしていると知ったからだろう。
エリザベータに近づいてくる者たちは、大半がフルーナエント家との繋がりを求めているのだ。自主的にそう考えているのか、家族から言い含められているのか、大方その両方か。生来のエリザベータではない、付け焼き刃の自分にすら透けて見えるほど、周囲を取り囲む令嬢たちの野心はあからさまだった。
家柄を考えれば仕方がないと思う。有名税だと割り切るべきだろう。だが1週間もずっとあの調子で過ごし、疲れないわけがなかった。少しでいいから公爵令嬢としての仮面を外して話ができる相手がほしかった。
だから昨日、レーナとアイリスと過ごした時間はとても楽しかったのだ。久しぶりに公爵家の立場を気にせず、お喋りに興じることができた。家柄など関係なく、自分をエリザベータとして見てくれるレーナと友人になりたいと思った。
一番の理由はもちろん悲劇的未来を回避することだ。だがレーナと過ごす時間は楽しくて、彼女ともっと話がしてみたかった。友達になる理由など、その程度で十分ではないだろうか。
「だからレーナ様のご迷惑でなければ、ごく普通の友人のひとりとして過ごしていただきたいわ」
「も、もちろん……! 私こそ、よろしくお願いします!」
ぺこ、と頭を下げたレーナと顔を見合わせ、思わず同時に微笑んだ。再び廊下を歩きだした2人は、お互いがすっきりとした表情をしている。
「では参りましょうか」
「そういえば、どちらに行かれるんですか?」
促したエリザベータに、レーナが不思議そうに首を傾げる。その表情を横目に見て、エリザベータは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「――第二資料室ですわ」