0.プロローグ
ドンッと鈍い音が体中に反響し、重たい衝撃に体が浮いたのがはっきりとわかった。一拍遅れて神経を震わせたのはとてつもない熱だったか、痛みだったか。世界がスローモーションに包まれ、重力から解き放たれた肉体が浮遊し、再び重力に捕捉されてゆっくりとアスファルトへと叩きつけられる。がつん、と頭蓋骨に衝撃が響いたが、つい先ほどの衝撃とは比較にならない。
「――っ、きゃぁあああ!!」
「おい、人が轢かれたぞ!」
「きゅ、救急車! 早く!」
一瞬その場を支配した静寂の中から悲鳴がはじけ飛ぶ。人々のざわめきがにわかに沸き立つが、すぐ近くにあるはずの喧騒がやけに遠い。まるで水に潜ったまま人の声を聴いているみたいに、聴覚が鈍っている。
ぼんやりとした思考が、それでも耳に入った音を、声を認識する。人が轢かれた。一体誰が、と考えて、ようやく己が車に撥ねられたのだと認識した。先ほどの重たい衝撃こそ自分の体に車がぶつかった証拠だ。そして地面に投げ出されたのだ、と理解し、納得する。なるほど道理で、腕どころか指一本も動かせないわけだ。
騒然となる群衆の声は遠いまま、頭の奥底から記憶の奔流があふれ出してきた。断片的な思い出がいくつも浮かんでは消えていく。これが走馬灯か。自分のことなのに妙に冷静で俯瞰的な思考がおかしくて、けれど唇の端を持ち上げて笑うことすらできない。
かすむ目の前に、危険なほど鮮やかな赤が広がっていく。動かない指先が、足が、体がどんどん体温を失っていく。ああ、死ぬのか、自分は。唐突に、あるいは今更に、眼前に突き付けられた「死」の一文字。命のかけらが血と共に身体から流れ出していくのを実感し、脳が恐怖に震えた。投げ出されたアスファルトの隙間から、冷たい死が染み出し、体を浸していく錯覚。
怖い。怖い。死にたくない。叫びだしたいほどの恐怖が胸にあふれているのに、声ひとつも出せない。怖い。死ぬのは嫌。誰か助けて。まとまらない思考が恐怖に支配され、しかしどんどん意識が薄れていく。視界がぼやけ、呼吸が細り、思考が、意識が、自分自身が闇に沈んでいく。
死にたくない。遠のく世界に手を伸ばすこともかなわないまま、力尽きた意識は光の差さない漆黒にどぷんと飲まれた。
◇
ぴちち……と軽やかな音が聴覚に触れた。じわりと浮上した意識がゆったりと思考を始める。あれは、鳥の声?
そう認識した途端、急激に意識が引っ張り上げられた。視界がぼんやりと明るいことに気が付き、指先に、手足に、体に感覚が戻ってくる。ん、と唸った喉が震え、恐る恐る目元に力を入れる。
「……?」
重たい瞼を持ち上げれば、まず目に入ってきたのは見たこともない天井。豪華な刺繍があしらわれたデザインから、薄布が垂れている。カーテンにしては薄いその布の向こうには、何かが透けて見えている。
ここは一体、とぼんやり考え、唐突に記憶が戻ってきた。そうだ、自分は確か、出社途中で車に撥ねられたのだ。唐突に襲われた衝撃を思い出すと同時に、如実に嗅いだ死の匂いまで鼻先に蘇って、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。恐怖の残滓が喉の奥に絡まって、自然と呼吸が浅くなった。どうにかそれを宥めながら、深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。大丈夫。大丈夫だ。自分は目を覚ました。死なずに済んだのだ。
さしあたって、ここは病院だろうか。それにしては豪華なデザインの天井だ。それに病院独特の消毒液の匂いもしない。それに今は何時なんだろう。親に連絡は入っているのだろうか。覚醒した思考が次々と疑問を生み出す。とにかく現状を把握したくて、首を動かそうと試みた。
「う……っ」
「――おじょうさま?」
身体に力を入れた途端、全身に痛みが走る。持ち上げるどころか首を回すこともできず、うめき声ひとつを上げるに終わった。
そんな声に反応したように、薄布の向こうから声が掛けられる。聞き慣れないその声よりも、掛けられた言葉が耳についた。おじょうさま……お嬢様? お嬢様って誰のこと? まさか私? アラサーにもなってその呼び方は逆に恥ずかしいんですが。
見知らぬ誰かからの耳に馴染まない呼称に密かに照れていると、薄布がさっと持ち上げられた。向こうから顔を出したのは、これまた初対面の女性。恐らく自分よりも年下であろう彼女は、顔立ちや肌の色から察するに欧米人らしい。茶色の髪を後ろで束ね、髪がほつれないように白い帽子をかぶっている。身に着けているのは紺色のシンプルなワンピースに白いエプロン。いわゆるクラシカルなメイド服だ。存在はよく知っているが現物を目にするのは初めてだ。あれ? ここ病院じゃなかったっけ?
ぼんやりとそんなことを考えていると、こちらを見下ろしたメイドさん(仮)の目がみるみる見開かれた。淡く灰がかった茶色の瞳に浮かんだのは純粋な驚愕。
「お――お嬢様っ!?」
「へ……」
「お嬢様が、お嬢様が目をお覚ましになりました! 先生! 旦那様ぁ!」
こっ恥ずかしい「お嬢様」を連呼しつつ、弾かれたようにメイドさん(仮)が駆け出していく。ろくに声をかける隙もなかった。がちゃん、ばたん、と扉が音を立て、後に残されたのは自分ひとりだけ。愕然とその背中を見送って、はて、と首をかしげる。
一体何なのだろう、この状況は。ここはどこで、あのメイドさん(仮)は一体誰なんだろう。目を覚ましたばかりで身体は億劫だが、己が置かれた現状を確認したい意識が逸る。いまだまどろみを残す目を擦ろうと腕に力を入れれば、どうにか両手を持ち上げることができた。点滴などはどちらの腕にも刺さっていない。やはりここは病院ではないのだろうか。
つらつらと考えながらも手を持ち上げて目元に、当てようとしたその手を見て思考が一気に覚醒する。何だこの手、一体誰の手だ。抜けるように白い肌、ほっそりと長く繊細な指、爪は綺麗な桜色だ。ペンだこひとつない手は明らかに自分のものではないのに、力を入れて動かせば己の手として動いてくれる。
あり得ない光景に、嫌な予感がする。胸の中で鼓動が急激に騒ぎ出す。重怠い身体を叱咤して、腕をついて上半身を持ち上げる。腕と体重を受け止めたベッドは柔らかく、明らかに高級品だ。天井だと思ったのはどうやらベッドの天蓋で、薄い布はその天蓋から垂れているらしい。やはりここは病院ではない。絶対にない。
確信を深めながら頭を持ち上げれば、頬から髪が滑って目の前にかかった。その色に、ぎょっと意識が奪われる。垂れてきたのは目にも鮮やかなプラチナブロンドだ。よく手入れの施された柔らかいその髪は、色も長さも髪質も、明らかに自分のものではない。恐る恐る指でつまんで引いてみると、頭皮が引っ張られる感覚がある。まるで、己の頭から生えた髪のように。
いよいよおかしい。ここは、今は、この状況は、私は一体何なんだ。恐怖と不安に身を震わせながら周囲を見回せば、ふかふかの枕が重ねられた枕元に小さな手鏡が置いてあるのを見つけた。己のもののように動く白魚の手を伸ばし、震える指先で持ち手を掴む。鏡面を己の方に向け、今度こそ本当に絶句した。
豪華な装飾に囲まれた鏡の中、驚愕の表情でこちらを見つめているのはアイスブルーの瞳。秀でた額にかかったのは先ほど摘まんだ豊かなプラチナブロンド。優美な稜線を描く頬も、スッと通った鼻筋も、手と同じく抜けるように白い。細い顎の中に納まった上品な口元は、言葉もなく震えている。
鏡の中にいたのは、見たこともない美少女。思わず頬に手を当てれば、鏡の少女も同じく頬に手を当てる。自分とまったく同じ挙動をする少女の姿に、更に混乱が深まる。
「エリザベータ!」
ばたん! と唐突に扉が開かれ、天蓋の薄布の向こうから人影が複数近づいてきた。先頭を切って駆け寄ってきた人物が布をやや乱暴にかき分ける。そこに立っていたのは、濃い金髪に淡いブルーの瞳を持つ白人男性。驚愕を浮かべたその表情が、みるみる安堵の笑みに変わる。目尻に薄っすら涙すら浮かべながら、男性はこちらの手を取り、両手で力強く握りしめてきた。
「ああエリー、エリザベータ、目を覚ましたんだね……!」
見知らぬ男性の背後には先ほどのメイドさん(仮)、そして白衣を着た恰幅のいい男性までいる。その3人ともが心底安堵した表情でこちらを見つめている。状況を把握できていないのは自分だけだ。そもそも状況どころか、己の姿すらはっきりと認識できていない。
混乱、驚愕、理解不能。ぐるぐると目の前が回り、く、と喉が息を詰めた。すうっと息を吸い込んだのは無意識で、口を開いていたのも無意識だった。
「っ、はぁあああああ!?!?!?」
そして喉から迸った絶叫もやはり、悲しいかな自分がよく知る己の声とは到底似ても似つかぬものだったのだ。