死んでくれてありがとう私の憎き王よ
色香に溢れながらも気高い王妃にまるで巫女のような清楚さを持つ愛人。
どちらもとても美しいが2人の雰囲気は対照的なまでに違っていた。
王妃は国王が愛人にいくら寵愛を与えようと気にしたことはなかった。
愛人はある日、王が気まぐれに拾ってきた女だった。
その女は奴隷の出で記憶までもを失い自分の名やどの民族出身であるかなど何も覚えていなかった。
貴族の娘でもない女にわざわざ私が相手をするまでもない。
今はいくら寵愛しようとも数ヶ月もすればまた新しい女に変わるだけだ。
そう思って最初の数ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、数年経っても愛人に対する王の寵愛は変わりやしなかった。
むしろ時間が経つにつれて深くなっていくようにさえ感じた。
王妃でありながら冷遇されて暮らし、代わり映えのしないいつもの1日に終わるはずが私は今、冷たく古びた牢の中にいる。
貴人用の牢とはいえ王妃にさえもなった女性がいるべき場所では到底なかった。
まぁこんなことになったのは死んでしまった夫である王が最後に飲んだ酒にある。
私の部屋にあるはずであった酒なのだ。
それを飲んで王は愛人もろとも亡くなったらしい。
聞き伝えでしか知らないのは王宮の誰もに見放された私が夫の死に顔にさえ会えやしなかったからだ。
そうして夫を亡くし、その夫を殺した嫌疑にかけられた。
嬉しくない変化だ。
夫が死んだとだけ聞いた時はむしろ嬉しかったのに。
夫はすでに誰のものでもなくなったのだから。
もう誰にも公式の妻である私から奪えやしなくなったのに。
なのになんで私はこんなところにいるのかしら?
ぼんやりとそんなことを考えていた時だった。
カツカツと硬い床を叩く足音が聞こえてきた。
はて? 王殺しの王妃に死刑を告げに来たにしてはおかしい。
1人分のものしか聞こえないからだ。
そして私の牢の前に現れたのはあの愛人だった。
王と共に死んだはずの寵姫である。
王を虜にした聖職者のような神聖な美貌はそのままに彼女は立っていた。
ゆぅるりと彼女の唇が弧を描き、ご機嫌よう王妃様と鈴を転がしたような声を響かせた。
夫に愛された愛人を目にしても憎しみも嫉妬も少しもわいてこなかった。
ただただ私を支配したのは驚愕の感情だけ。
口をパクパクとさせる私に彼女は気にした様子もなく口を開いた。
「あらでも牢の中にいらっしゃるのですからご機嫌はきっとよろしくはありませんでしたわね?」
私を見ているようで見ていない彼女の瞳はまるでがらんどうのようだ。
「そなたは死んだはずでは?」
私の問いに答えず彼女は口を開く。
「王妃様、この国はもうすぐ戦場になりますわ」
「私の話を聞く気はないのね」
「わたくし、王妃様に早急に死んでいただきたいの」
彼女は私に一方的な要求を突きつける。
「罪人にされた私だとしても死ぬとこの国の混乱が加速するでしょう。それに無実の罪で私は死にたくもないわ」
僅かばかりに残っている私の王妃としての矜持がそう答えさせた。
クスクスと笑う彼女はこのような状況だというのにのんびりとして見える。
「安心してくださいまし、あなたに選択権はございませんゆえ」
「死ぬことが確定で安心できるわけないでしょうが?!」
ダメだ。
話が通じない。
「これを飲んでいただくだけでよいのです」
そう言って愛人は豊かな胸の谷間から手のひらに収まるほどの小瓶を取り出した。
「どこに入れているの……」
「この瓶の中のものを一滴飲めば睡眠薬、二滴飲めば仮死薬、三滴で無事に天に登れる毒へと変わる優れもの」
「無事に登っちゃダメでしょう?!」
「我が母国の薬師が腕によりをかけて作ったものです。これを飲めるなんて嬉しいでしょう? 生産国たる我が国でも貴重なものでこれを使用できるのは皇家の者のみですのよ。」
「なんですって? ……皇家?」
王家はこの国を含め数多あれど皇家を名乗る家は少ない。
それに母国? 覚えていないわけではなかったのか?
「別にずっと死んでくれというわけではありませんわ。あなたの死体が発見されて宮外に打ち捨てられるまでで良いのです。まぁざっと……そうですわね1日といったところかしら?」
「あら? なら私は天に召されなくても良いのね?」
「公式に王妃が死んだとなればわたくしは満足ですもの。濡れ衣と義務から解放して差し上げるんです。感謝してくださっても良くってよ?」
「王妃の義務はまだしも濡れ衣はそなたが着せたんでしょうが!」
「元々この国の者は皆殺しても足りぬのですから」
言い捨てた愛人はもう私との会話は終わりだとばかりに私の顔を容赦なく掴んで口をこじ開けた。
その美しく華奢な見た目とは裏腹に凄まじい力でまともな抵抗すら出来ずに薬が二滴、唇に落ちた。
「さようなら王妃様、殺しはしませんけれどもう二度と会いたくありませんわ」
私だって会いたくないわ! この毒婦めが!
心の中でしか叫べずに意識は闇へと呑まれた。
*****
わたくしの正義のためとはいえあなたの夫を奪ったことは悪いと思っているの。
この国のように仁義に反する行いはあまりしたくはないのよ。
だから憎い国に育まれたあなただけど生かして差し上げるわ。
*****
目を覚ませば見知らぬ部屋だった。
古びてはいたが清潔感がある。
「……だ……れか」
声がかすれてまともな音にならない。
頭が締め付けられるように痛む。
私はどうなった?
目を開けていられない。
再び微睡みに落ちてゆく。
それから私は何度も寝て起きてを繰り返した。
起きていられる時間は段々と増えてはいたが手足が動かず、声もかすれたままだった。
何度目かの目覚めでここでは初めて人の顔を見た。
「お嬢様、……お嬢様? お嬢様!!」
「おまえ?」
見覚えのある顔だ。
私をお嬢様と呼ぶ彼は、まだ公爵令嬢だった頃の使用人に間違いないだろう。
彼は気まぐれで奴隷として購い解放した後でも忠誠心が高かったからよく覚えている。
「お嬢様! 本当に生きておられたのですね!」
私からの返答も聞かないままに大の男がわんわんと泣き声をあげだした。
涙と鼻水にまみれていく彼の顔を見て、奴隷としてなかなか高値を叩き出したほどの整ったかんばせが見る影もないなと取り留めもないことを考えた。
まだ少女だった時分に家を離れたから大人になった彼をこうもまじまじと見たのは初めてだ。
「ねぇもう泣かないでちょうだいな。ほら私はこうして生きているんですもの」
彼の涙をまだ動きにくい両手でなんとか拭って微笑んで見せる。
口の端が引きつった感じがするのでうまく笑えてはいないだろうが……
彼をなんとか泣き止ませるには相当の時間を要し、私の体力も完全に回復していたわけではなかったから色々と事情を聞けたは翌日になってからだった。
「なぜ私をここへ運んだの? 王宮の者たちでさえ死んだと思ったのでは?」
愛人は私に仮死になる薬を飲ませた。
彼女のもくろみが無事成功したから私がいるのは牢の中ではないのだろう。
ただ私を見つけたのが味方であったとしても仮死していると知らなければ埋葬しようとするはずだ。
「その……お嬢様は罪人として扱われておられましたから。いくら元王妃だとしても墓地に葬るわけにはいかず慣例どおり王宮の外に出されたあとそこらに放られていたらしいのです」
言いにくそうにしながらも口を開いた彼の言はまぁ予想の範囲内だった。
「…………らしいとは?」
「お嬢様を俺、っ失礼いたしました。わたしのもとに届けた者がおります。『死んでいるように見えるが生きている。長くても明日には目を覚ます。おまえの好きにしろ』と言ってお嬢様をわたしにまかせた後すぐにいなくなりました。深くローブをかぶっていてよく見ておらず男だったことしかわかりません。わたしもお嬢様を見て気が動転していましたから詳しいことは知らないのです」
「そう」
男だったということは愛人自身ではなく、彼女の手の者だったのだろう。
なぜ彼の元へ私を運ばせたのかまではわからないが。
「わたしもお嬢様が死んでいるようにしか見えずにその男の言ったことを信じてお嬢様が生きていることを願うしかありませんでした。お嬢様は罪人とされてしまいましたので公爵家に頼るのも危険かと思いこのわたしの家へ。あとはご存じの通りです」
「お父様は罪人にされた私が死んでくれてせいせいしているでしょうね。権力にしか興味がない人ですもの。そなたが私を助けてくれなければどうなっていたかわかりません。ありがとう」
「いいえ、わたしはお嬢様に救われました。だから恩返しをさせてください」
邪気のない彼の笑顔が王宮暮らしで乾ききったはずの私の心を癒してくれた。
*****
祖国にいられたのは私が回復するまでのわずかな期間だけだった。
空っぽの玉座を巡って戦場へと変貌していく祖国から彼と2人、逃げ出した。
貴族や王族の暮らししか知らなかった私にとってとても過酷な旅で彼の助けがなければ生きてもいなかったろう。
逃げて逃げて海まで越えた。
長い旅路で彼と恋仲になり、私が彼の子を孕んだことで元は祖国の属国扱いをされていた島国に腰を落ち着けることになった。
祖国が倒れたことで島国は完全な独立を取り戻し、平和な日々を送っている。
そして今日はこの島国にとって特別な日だった。
今日は女皇の婚姻式だからだ。
祖国から独立を勝ち取った女皇は島国の民にとっては英雄でその英雄の結婚に皆浮かれている。
大きな腹を抱えて彼に連れられ、大通りへと向かった。
滅多に姿を見せない女皇の顔を見ようとすでに人だかりができていた。
しばらく経って輿に揺られるたくさんの者たちに傅かれている男女が見えた。
その女の姿に驚愕した。
「プルサティラ?!」
見間違えようのないあの美貌。
王の、元夫の愛したあの愛人! 大陸一の強国だった祖国を傾けた女!
なんと! 女皇はあの女であったのか!
「そうそなたの復讐は終わったのね」
彼女にとってみれば憎んでも憎みきれぬ国であったのだろう。
王妃であったからこそ知っている。
祖国の非道を残虐さを。
それを疑問にも思わず血も涙もない命令を王が下しているのを何度も聞いた。
私は王妃でありながらどうしても冷徹な王を受け入れられなかった。
婚約者時代からそこまでせずとも良いのではと何度も諫めたが聞く耳を持たなかった王。
婚姻を結ぶ頃にはすでに仲が冷めきっていた。
王の前では恋する乙女のようにしか見えなかった愛人、プルサティラを憎めなかったのは彼女がときおり王を虫けらでも見るような目をしていたのを知っていたからだった。
それに気がつかぬ王を見て、男とは鈍いものだとそのまま忘れていたのだが……。
プルサティラが王を愛していたのか憎んでいたのか、もしかしたら彼女自身さえもわからなかったのかもしれない。
アセビ様、女皇陛下と民の歓声は途絶えることを知らない。
「……感謝しますわ、アセビ」
愛人の名として呼ばれていたプルサティラは当然のごとく偽名であったのだろう。
膨らんだ腹をゆっくりと撫でた。
アセビが王を殺した。
そのまま私が死んでしまったほうが彼女にとって都合が良かったはずだがどういうわけか私を生かした。
頰を一粒、涙が濡らす。
この涙が元夫にできる私にとっての最後の供養だ。
愛してもいない女が流した涙などあの王は嬉しくもないだろうが……。
「死んでくれてありがとう私の愛しい王よ」
まだ何も知らぬ少女時代、将来王となる少年に出会った。
初恋だった。
あなたは私とわかり合おうとも理解しようともしなかったわ。
どうでもいい存在であなたにとってはきっと私は邪魔だったのね。
恋したあなたに夫婦になってさえ振り向いてもらえないことが私にどんな苦しみを与えたのかあなたは知らないでしょう?
いつの間にか私は関心の一切もくれぬあなたを憎んでいたのかもしれない。
でも私は幸せよ、あなたがくれなかったものを彼がくれたから。
死んでくれてありがとう私の憎き王よ。
「イキシア? そろそろ帰ろう。あなたは身重なのだから」
様子のおかしな妻を夫が心配したのか群衆から連れ出そうとする。
そうねと頷き、アセビの方へ小さく頭を下げた。
祝いと礼の意味を込めて。
頭をあげた時、幸せそうに微笑み合う紫の瞳を持った新しい夫婦が私の目に映った。